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江戸時代はなぜあんなに長く続いたのでしょうか?
江戸時代は大きな戦乱もなくとても長く続きましたが、その要因は何だったのでしょうか?
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一言で言うと、「日本に天皇制があったから」。 例えば、神聖ローマ帝国皇帝は、その権力の正当性を基督教の法王の承認に求めました。 また例えば、中国では天安門事件以来、反日宣伝を活発にしました。なぜかというと、「若者が中国共産党の支配に疑問を抱いたのが天安門事件の原因だから、共産党の支配に疑問を持たせないことが重要だ」と共産党は考えた、と池上さんは言っています。 そのような疑問を抱かないように、中国共産党による中国支配の正当性を知らしめるため、日本人を残虐非道の極悪人にしたて、侵略者日本を打倒して人民を救ったのが中国共産党である。故に、中国共産党が中国を支配するのは当然なのである、という「正当性」の論理を展開したのだ、と。 (実際に日本軍とちょっと戦ったのは国民党軍だが、歴史書き換え) そのように、支配の正当性というものは大切なのです。正当性に疑問符がつけば背かれるのですが、日本には天皇がいました。 天皇であっても権力を行使すれば敵ができ、恨まれるのですが、天皇は大昔から権力を行使せず、ひたすら国民のために祈る、理想的な存在でした。 その天皇から授権された徳川家が政治を代行するんだということになったので、「徳川家がなんで?」ということにもなりませんでしたし、「あやつに取って代わろう」という考えが出なかった、というのが、最大の理由であろうと思います。 二次的な理由としては、まず大名と幕府の財力。 鎌倉幕府も、室町幕府も、財政難などで「自壊」してしまったのですが、江戸幕府はさいわいにして、お手伝い普請や参勤交代などで大名たちの財力を削ることにも成功しました。 つぎが、武士の禁欲的生活。 他の国々の王侯や騎士などと違い、我が国では、天皇を筆頭に、偉くなるほど不自由だったのです。天皇は御所から出られない。武士は暮れ六つ?かなにかには必ず家に戻っていなければならなかったし、姫様なんかはずっと屋敷から出られない。 姫様や奥方様が町をぶらつくなんてテレビ番組は、史実無視のファンタジーです。 下級の武士は、傘張りや書物の書き写しなどのアルバイトでやっと生きている程度。それでも武士の対面は保たなければならなかった。庶民はそれを知っていました。 その庶民はというと、才覚と努力しだいで金持ちになれました。王侯貴族や宗教人が権力も権威も財力も独り占めした他国とは違いました。 武士の不自由さを見ている大金持ち・大商人は、カネをつかって反乱を起こそうとか、武士に取って代わろうとはしなかったのです。せいぜいが、子供のために下級武士の株を買って、武士だという資格を得て満足する程度でした。 それらの積み重ねが、徳川幕府を長らえさせた原因であろうと思います。 どこの国でも、どうやっても絶対にナンバーワンにはなれない国の政争は、ナンバーワンになれる国よりも、穏やかです。たいがい、ナンバーワンから正当性を保障してもらえば、全滅させるまでもなく、済んでしまうんですから。 逆に、幕末に外国に対して国を開こうとしたとき、幕府側は、天皇の許しを得ようとして…日本国土、人民の所有者である天皇が『許す』と言えば開国反対の論者は消滅するだろうと安易に考えて…失敗し、倒幕の動きを見逃してしまったのでした。
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大大名は幕府の要職にはつけないようにして、特定の大大名に権力が集中するのを避け、内部から崩壊しないようにした。 全国の4分の1くらい、さらに要衝を支配していて、安定していた。 島国。 譜代、外様の大名の配置を工夫した。
各地の自治権を認めて武将らのメンツを保ち即座の反乱を防止して、んで長い間その地位に安住して徐々に戦闘力を減らしていきそして世代交代のタイミングで反抗する実力を完全に失ったんだと重います。
- ithi
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advent さん、こんにちは。 はっきり言うと戦いにつかれた大名や市民という感じがします。豊臣家が滅び、天下人が決まったのにいまだに争いを続けることは無意味です。そこで幕府は大名の監視や決まりである武家諸法度を作って統制しました。 元和偃武 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/元和偃武 武家諸法度 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/武家諸法度
- ichikawa2017
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権威と政治的な権力と経済的な財力を完全に分離した社会制度を設けていたのが長続きした最大の理由です。 中央政府としての権威は朝廷に持たせ、政治的な権力は幕府が朝廷から委託された形式にしていました。 幕末に大政奉還という儀式が行われたのも江戸幕府が朝廷から委託されていた諸大名の統制権を返還するという意味の儀式でした。 大名の格も石高だけではなく朝廷から下賜される官位が権威の象徴でした。 宗教的な権威も本末制度という制度を設けて宗派ごとにピラミッド構造にして組織全体を統制していました。 宗派の最上位の寺院とは別に僧録司という幕府との窓口になる寺院を定め本山に政治的な権力を認めませんでした。 大名階級の権力と財力の分離も徹底していました。 政治に参画できない外様大名には広い領地と高い石高を認め政治に参画できる譜代大名には狭い領地と低い石高を与えていました。 外様大名が財力は持っていても政治的な権力を持つことを阻止する一方で政治的な権力を持つ譜代大名には乏しい財力しか認めないという制度でした。 幕府内の組織では南北江戸町奉行のように同じ権力を持つ人を複数任命する組織形態を採って権力が集中しないようにしていました。 現在で言えば二重行政ということで極めて無駄が多い行政機構ですが敢えてこのような制度を設けていました。 例外が将軍ですが、これも権力を行使するためには複数の人で構成される老中による同意が必要でした。 時には必要に応じて大老という最高権力者も設けていました。 町人階級や百姓階級を政治に関与させない一方で武士階級の人間が農耕や商業などの職業に従事することを禁止していました。 更に身分や階級に応じて町人には町役人百姓には村役人という自治組織を設けていました。 幕府は現在で言う民政に関してはこの自治組織に一任していました。 租税である年貢も村落単位でした。 この村落単位の年貢を村落内のだれが負担するのかは村役人に一任していました 武士階級の人間が町人や百姓の民政には口出しができないようにしていました。 このように権威と政治権力、財力を完全に分離した制度は世界史上も日本固有のものでした。 結果的に歴史学の分野でも中世と近代の間に近世という時代区分を設けているのは日本史だけです。 蛇足 身分制度は明治政府も引き継いでいました。 江戸時代とは呼称が違っていただけです。 大日本帝国憲法では戸籍上も皇族、貴族(侯伯爵)士族、平民、新平民などが残っていました。 法文上身分制度が撤廃されたのは敗戦後に定められた日本国憲法が施行された以降のことです。
- oska2
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>江戸時代はなぜあんなに長く続いたのでしょうか? 地理的には、日本が島国だった事です。 そして、形式的に「天皇を中心として政治」を行っていた事。 征夷大将軍は、武家の棟梁という職務とは別に「天皇から統治権を任された」事になっています。 結果、各藩主は「幕府に逆らう事は、天皇に弓を引く」と考えたので内乱が起きなかった事。 ※幕末は、天皇側は「幕府を通さず、直接統治」を目指します。 また、長幼の序・目上の者を敬う事が常識だった事。 身分制度・認識が、しっかり保たれていたのです。 どこかの法人の様に「理事長以下多くの理事が着席していても、一人だけ両肘を肘掛けに置いて+背中を背もたれに持たせてふんぞり返っている理事」がいましたよね。 誰が理事長なのか、理解していない様です。(笑) 当時は、組織を大事にした時代だったのです。 「この将軍は嫌いだ。だから、お辞儀はしない。命令にも、従わない」という旗本・大名は存在しませんでした。 秩序が、保たれていたのです。 また、国民の民度が高かった事。 信長・秀吉・家康時代の外国人の見聞録を読むと、分かります。 多くの国民が、「読み書きそろばん」が出来たのです。 外敵がいない+統治者(天皇)が一人+民度が高い=江戸時代が長く続いた。 そうそう、「歴代将軍が、正室の子供でない」事も重要かもね。 側室の子供だと、外戚が大きな力を持つ事は出来ません。 ※もちろん、将軍の母親の一族という若干の利益は得ています。 正室の子供が将軍になれば、外戚が大きな力を得る事になりますよね。 最悪な場合、将軍家と外戚の権力争いが起きる可能性もあります。
- eroero4649
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最大の理由は、他国からの侵略を受けなかったことでしょう。いくら自国では平和に過ごしたいと思っても、他国や異民族から侵略を受ければ平和ではいられません。 ではなぜ国内で戦乱が起きなかったかですが、「平和であったほうが人々にとってメリットが大きかったから」だと思います。 今の日本は格差社会とか様々な問題が起きていますが、さりとて政府に対してテロを起こそうとか、独立運動をしようとか、そういうことは一切ありません。なぜ格差で苦しんでいる人たちが日本政府に対して戦争をしないのかというと、そんなことやってもメリットが少ないからです。 また現代の自民党は「最大多数の最大幸福」を目指しています。江戸幕府の政策も基本的に同じです。最大多数の最大幸福。その政策が概ね行えている間は国内で反乱が起きることはないのです。 また戊辰戦争と明治維新によって体制は大きく変わりましたが、明治維新というのは人民革命というより徳川幕府と反徳川勢力(薩長・朝廷)の権力争いといったほうが正確だと思います。ほとんど無血革命みたいなものですよ、あれは。
お礼
日本は一度も革命のなかった国と言われていますね
- doraneko66
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参勤交代により各大名の財力を削ってきたのと後継者のいないところを身内でどんどん埋め尽くしてきたからかな。 参勤交代を緩くし始めてから、滅びの道になってきた。とか
お礼
ありがとうございます
- hekiyu2
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秩序というのは、威嚇の力と納得の力で形成されます。 威嚇の力が強く、納得の力が弱いと、秩序は 不安定になります。 その反対だと、安定します。 江戸時代は、大名や庶民がそれなりに満足していた ので、長く続くことが出来たのです。 当初は威嚇の力でやっていました。 それで改易される大名が多くなり、社会が不安定になり 由井正雪の乱が勃発したりしました。 それ以降、幕府は納得の力で統治をするように なり、合理的な大名統制をやりました。 また、庶民もそれなりに豊かになりました。 以前はマルクス史観の影響で、百姓は悲惨だと 信じられていましたが、実証研究が進むと、百姓は 結構豊かな生活をしていたことが判ってきました。
お礼
百姓が豊かだったというのは意外ですね
- kensyo7
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参勤交代による「地方大名の経済力の消費の強制」 檀家制度による、思想統制。 キリシタンの弾圧。
お礼
ありがとうございます
- tzd78886
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やはり、大名の監視を怠らなかったからでしょうね。参勤交代で妻子を人質に出させ、資産を蓄えられないようにしたことが大きいでしょう。ちょっとでもお家騒動が有ったりすればたちまち転封や取り潰しになりました。鎌倉、室町時代の御家人や守護大名は一応幕府に従ってはいたけれど、家来というより一種の契約でした。持っている権力ははるかに小さなものだったのです。
お礼
管理体制の構築がしっかりしていたのですね
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お礼
ありがとうございます