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「月が鏡であったなら・・」現在の仮定が過去形の理由

英語でも現在の事実に反する仮想は「過去形」を使います。 この理由を英語学者の大西泰斗氏はイメージという概念を使って説明しています。 つまり、現実にはあり得ないことは、人間の意識の中では遠い過去と同じように感じているからだと。だから過去形を使うのだと。 「月が鏡であるならば・・」と現在形でも言えますが、過去形を使う場面の方が多いように思います。 日本の国語学者は、日本語で、現在の事実に反する仮想を過去形で表現する理由をどう説明していますか? 宜しくお願いします。

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.7

 #1です。補足です。 >>私が知りたいのは、意味が過去ではないのに、何故過去形を使うのかということなんです。説明してくれる方もいるんですが、イマイチ分からないですねえ。ひょっとして本格的に哲学の認識論などを勉強する必要があるんですかね?そこまでの研究心はなく、単にふと、何故だろう?と思っただけなんですが・・・  意味が過去形ではない > 事実  形が過去形であある > 間違い  形は仮定相であった >  事実  過去形と仮定相は形が似ていた > 事実(これが間違いの元)  仮定相は従属節(subjunctive)で表される言葉もあったので日本では従属節=仮定形という誤解が起こります(下記は、subjunctive=仮定法の例)。  https://ameblo.jp/tangomura/entry-12258151602.html    その結果「現在の事実に反する仮想は「過去形」を使います」という誤解が起こったわけで、質問者さんの間違いではありません。  

0123gokudo
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 なるほどそういうことですか。しかし、過去形がなぜ仮定相に使われているのか?仮定相に用いる動詞は全て過去形なのか?など新たな疑問も出て来ますが、この際この辺で止めます。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • OK1723TRD
  • ベストアンサー率38% (18/47)
回答No.6

>>これを全部読まないと、質問の回答は得られないとするとギブアップです。 まずは、 『認識と言語の理論 第一部』2章(5) 想像の世界――観念的な転倒 を読んで下さい。 「と」「ば」「たら」の相違は、観念的な話者が現実に復帰するか、仮定の結果に移行するかの相違で、認知言語学などという非科学的な言語論ではこうした話者の認識を扱うことができません。■

0123gokudo
質問者

お礼

再々回答ありがとうございます。 私にはハードルが高そうですが、機会を見て勉強させて頂きます。

  • OK1723TRD
  • ベストアンサー率38% (18/47)
回答No.5

観念的な自己分裂の補足 下記を参照下さい。 『認識と言語の理論 第一部』2章(5) 想像の世界――観念的な転倒 http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%A8%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96I-2#337 三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から   第四章 言語表現の過程的構造(その二) (6) 時制における認識構造 http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%A8%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96II-4#371 三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部 言語の理論』(1967年刊)から   第四章 言語表現の過程的構造(その二) (8) 代名詞の認識構造 http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%A8%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96II-4#371

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 これを全部読まないと、質問の回答は得られないとするとギブアップです。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.4

>日本の国語学者は、日本語で、現在の事実に反する仮想を過去形で表現する理由をどう説明していますか? ⇒辞典類によると、日本語の「~た」は、確かに過去も表しますが、語源的・本来的にはむしろ「完了」を表すのだそうです。つまりそれは、「もう完了して、元には戻らない」という、如何にしても動かせない事実の逆を仮定することで、その「非現実性」を示す、ということではないでしょうか。それでこの「~た(だ)」は、例えば、「雨が止んだら」のような「未来時制に中でも」使えるわけですね。 動詞以外の表現でも、例えば、「お呼びでない」を意味する「おとといおいで」なども、一見、「おとといの過去性」によってあり得ないことを述べるように見えますが(またそういう解釈も成り立たなくはないと思いますが)、より原理的・本質的には「おととい(の日付)はもう過ぎ去って二度と戻らないという、やはり、「完了した不可逆」の事実を利用してその「非現実性」を示している、ということでしょうね。 なお、昔「言語起源論・年代論・類型論」などで教わったときの記憶によれば、日本語に限らず印欧基語などでも、完了・不完了等の「相」(aspect)が先にあって、現在・過去・未来等の「時制」区分は後から発達したのだそうです。なるほど、火や言葉を使い始めたばかりの人類にとっては、例えば、「かがり火が昨日消えた」とか「明日消えるだろう」などという表現はおよそ無用で、「かがり火が今燃え続けているのか、それとも消えてしまったのか」といった表現こそ必要だったに違いありませんね。

0123gokudo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 今日、改めて読み直してみると何とか理解出来ました。大西泰斗氏の説とちょっと似ていますね。 完了は不可逆→それを期待するのは非現実→現在の非現実な事実を仮定する=仮定法過去 何とかつながりました。 ありがとうございました。

0123gokudo
質問者

補足

いつも回答ありがとうございます。 ドイツ語、英語だけでなく、日本語も研究されているとは驚きました。現在我々が使っている言語というのが必ずしも理屈に合ってないのは、過去の言語の歴史が関わっているんですね。 しかし、説明された文を何度読んでも意味が理解出来ないです。日頃は自分は随分頭がいいなと自惚れているのですが、こういう時は自分は何と頭が悪いんだろうとホトホト自己嫌悪に陥ります。再度読んでみます。ありがとうございました。

  • OK1723TRD
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回答No.3

観念的な自己分裂について 過去、仮定、否定など現実の話者の事態ではない対象に対峙する場合は、話者は観念的な自己分裂を起こし対峙することになります。 云ってみれば一時的な夢を見るのと同じ認識の運動です。 過去の事態を想起しそれに対峙するためのは、現実の話者は観念的な自己分裂により過去の事態に対峙し、そこから現在の現実の自分に回帰し、それが過去であったことを「た」と表現します。 花が咲きません。 のような否定の場合は、「花が咲く」という想定に観念的な自己が対峙し「ます」と肯定判断した後、現実の自己に回帰し「ない」と否定しています。 このように、話者は過去、未来、空想という現実とは異なる世界を生み出す場合は観念的な自己分裂により対象と対峙します。 小説を書く場合にはその主人公に作者は自己分裂し対峙し事実として筆を進めることになり、読み手は自己分裂により作中の人物になりきり追体験することにより観賞します。 こうした正常な自己分裂が固定化すると多重人格や分裂症という精神異常になります。■

0123gokudo
質問者

補足

回答ありがとうございます。 夢をみる場合や、小説を書いたり読んだりする場合は、自己が分離している感覚はあるのですが、日常喋っている場合には全くありません。花が咲きません、と一秒で言ってる時も、そして全ての言葉を喋っている時も、一々自己分裂と回帰を繰り返しているのでしょうか? 自己分裂している感覚は全くないのですが、それは離人症のことですか?私は以前、離人症は経験していて、自己が二つに分離している感覚は知っています。 花が咲きませんと言った時、そのように自己が対峙と回帰するというのは認知論で常識になってるのでしょうか?これを感じる、意識できる方法はありませんか?

  • OK1723TRD
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回答No.2

大西泰斗氏の認知言語学に基づくイメージを用いた説明自体が誤りです。 仮定法過去というのは、現実とは異なる事態、事実を過去の事態、事実として設定し、それを事実と認識し現在の仮定とし次の事態、事実を述べる用法です。 未来は未定なので、単なる仮定にしかならず、単純に現在の予測、希望を述べることになります。 なお、「月が鏡であったなら・・」の場合、仮定を述べているのは判断辞「なり」の仮定形「なら」で、この「なら」はそうであるか、ないかの二者択一の選択的仮定の表現です。 過去の助動詞「た」の仮定形は「たら」で、「月が鏡であったら(ば)・・」「月が鏡だったら(ば)・・」になります。 この過去の助動詞「た」自体を発する話者は現在に位置し、それ以前の内容が過去の事態であることを表わすもので、「月が鏡である」を過去の事実と認識し、それを仮定的前提として現在について述べることになります。 つまり、「月が鏡だ」と判断しているのは観念的に自己分裂した話者が過去に移行し事実として対峙し「だ」と肯定判断し、そこから「た」で現在に戻り「たら(ば)」とそれが仮定であることを表わしているものです。 このような、話者の観念的な自己分裂と過去への移行という認識の運動が仮定法過去の表現の本質です。■

0123gokudo
質問者

補足

>自己分裂した話者が過去に移行し 話者の意識では、自己分裂しているとは感じない、つまり意識は分裂しているとは言えないと思います。離人症の意識はなく、意識は明瞭で1つです。何故分離したと言えるのですか? 言葉の説明ではなく、理由を説明して下さい。

  • SPS700
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回答No.1

 日本の国語学者は、日本語で、現在の事実に反する仮想を過去形で表現する理由をどう説明していますか?  僕は「日本の国語学者」ではありませんが、「それ明日会った時に返しとくよ」のたでわかるように「た」は過去形ではないからでしょう。  また下記などでも知られているように英語で「現在の事実に反する仮想」に使われているのは「形」は過去形ですが、意味は過去ではなくsubjunctive の名残です。  https://www.jstage.jst.go.jp/article/hisetjournal1986/17/0/17_41/_pdf

0123gokudo
質問者

補足

回答ありがとうございます。 この質問の答えは案外難しいのでしょうか。リンク先の考察を読まないと分からないほどの高度な質問をしてるのかな?と思います。 >「それ明日会った時に返しとくよ」のたでわかるように「た」は過去形ではないからでしょう。 私が知りたいのは、意味が過去ではないのに、何故過去形を使うのかということなんです。説明してくれる方もいるんですが、イマイチ分からないですねえ。ひょっとして本格的に哲学の認識論などを勉強する必要があるんですかね?そこまでの研究心はなく、単にふと、何故だろう?と思っただけなんですが・・・

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