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「100%」不幸になる宗教は?
- 創価学会が不幸を引き寄せる宗教であると主張している理由には、創価学会の本尊がニセ本尊であり、拝むことで災いを招くというものがある。
- また、創価学会の指導者が変わり、日蓮正宗信徒の子孫である人々が創価学会員ではないことも主張されている。
- さらに、創価学会の教義や信仰に従うことで不幸になるとされる事例が多く挙げられている。引きこもりやうつ病、自殺や自殺未遂、お金のトラブル、事故や借金、家庭不和、病気などがその一部である。
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創価学会は、自らが「学会は邪教です」と言っていることに気がついていません。 -文証 池田会長指導 昭和53年 『大白蓮華』1・2月号 「末法の御本仏日蓮大聖人は、本門戒壇の大御本尊として総本山大石寺の正本堂にましまして、そして、法灯連綿の御法主上人のお力によって分身散体されて全世界の各寺院、各会館に、おのおのの家庭に厳然とましますのであります」 「三大秘法総在の御本尊こそ、弘安二年十月十二日ご図顕の本門戒壇の大御本尊である」 観心本尊抄講義 昭和56年1月14日 「日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。」 (「広布と人生を語る1」 ) 結論として、 創価学会が言うように、日蓮正宗が邪教であるとすれば、日蓮正宗を手本に創価学会がつくりあげてきた教義と経文は邪悪であることを意味し、長いこと、それを信仰してきた創価学会は邪教ということになる。 逆に日蓮正宗が邪教でないとするなら、お寺から破門にされ、日蓮の誹謗を繰り返す創価学会は、大謗法団体で、国民を迷わす最大最悪の邪教ということになる。 創価、日蓮どちらの言い分が正しくても、創価学会は邪教なのである。 ↓ 日蓮正宗と住職の悪口を書き連ねる創価学会。
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- okwavey2
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すみません。折角説明していただいたのに、回答に不備があったようです。 私が納得するために必要な説明は、論理的根拠によるものだけで、物理学や統計学を根拠としたものです。 >また、「100%」はあり得ます。 そうなんですよ。 100%があり得ない事が100%になると、この時点で矛盾してしまいますからね。 だから、内容によっては100%はあって良いんですが、そのための論理的根拠が必要で、大抵の事は、定義かなんかでない限りは論理的根拠を示せないから、100%ではないんですね。 死ぬのは100%だろうと私も思ってはいますが、今生きている自分自身もその対象の1つだが、今は生きていて今後は死ぬだろうと予想されるだけで、未来の事はわからない。 何らかの技術で死ぬことがなくなるかもしれないし、私が未来に100%死ぬとは言い切れない余地があるわけです。 ただ、現時点では100%に限りなく近く死ぬと思っていますが、100%とは違うんですね。 条件を明確にすれば、100%は何らおかしくはないですよ。観測史上とか期間や統計の範囲を絞れば、当然その中には100%となるものもあるでしょうね。 質問では、その期間や統計の範囲がないから100%にはなりません。 そもそも幸福の定義が曖昧だから、議論しても無駄ですよ。 あなたに都合の良い幸福なら、そりゃ都合が悪くなれば該当しないとして統計を取れば良いだけなんで、100%になるでしょうね。
- citytombi
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病的な主義・主張はともかく・・・ 「鰯の頭も信心から」です。
補足
「イワシの頭も信心から」 これが現在の日本人の宗教観・信仰観というものを端的に表しているような気がします。 つまり「宗教などどれでも同じ」とか「要するに神仏を尊ぶ志が大切であり、どのような宗旨であれ関係ない」と言う人が大半なのです。 また、宗教を単なる精神修養、あるいは道徳・哲学の類だと考えている人も多くいます。 このように宗教というものを軽く考える人がほとんどだからこそ、その無知につけ込んで、今現在、日本国中に、これほど多くの宗教が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していると言えます。 人々は、こうした宗教観・信仰観の誤りに気づかなければいけません。 宗教を修するということは、単なる精神修養でもなければ、道徳論などの領域でもありません。 宗教には必ず本尊(信仰の対象となる拝む存在)がありますが、これを崇拝するということは、実際には「自分の命を預けるに等しい」行為なのです。 したがって、本人が知ると知らずに関わらず、邪(よこしま)な宗教を信じて信仰に励めば、感応道交(かんのうどうきょう)の原理によって、その人の人格や人生全般に必ず狂いが生じ、決定的な悪影響が出ることになります。 俗に「朱に交われば赤くなる」といいます。 真面目だった人が悪い友人らとつきあううちに、次第に悪い方向に変化してしまうように、邪宗教の邪(よこしま)な本尊を拝み交われば、自分でも気が付かぬうちに、その邪に染まってしまうのです。 また「宗教はどれでも同じ」などというのも大変恐ろしい誤りです。 宗教には厳として低い教えと高い教え、浅い教えと深い教えという客観的な分別があります。 いかに人類の幸福だの世界平和だのと高邁なことを言っていても、低くて浅い、誤った本尊・教義の邪な宗教を信ずれば、それを原因として必ず不幸な結果を招くことになるのです。 邪宗にたぼらかされた人々は、最初の一時は「こんな世界があったのか」と未知の世界に触れた喜びを感じたり、また教祖の祈祷で病気が治るなどの一時的な小さな利益(りやく)などもあったりして、すっかり素晴らしいと思い込んでしまいます。 しかし、その後、熱心に信仰すればするほど感応の度合いは増し、最初の小利益はどこへやら、病気や家庭不和、さらには貧苦、その他の多大な苦しみを受けます。 さらに厄介なのは、こうした人々は自分の不幸な境遇を客観視する能力も失われており、ましてや自分の宗教が不幸の原因などとは夢にも思わず、止めどない深みにはまっていくのです。 邪宗の害毒は間違いなくその人の内奥に蓄積され、どのような形であれ、いずれ現実生活に現れます。
- aeromakki
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仏教の基本の一つが、こだわりを捨てることです。 なぜ、こだわることで、仏教の本質から遠ざかろうとするのか? 理解不能です。 普通の浄土真宗で良かった(^^)
お礼
「南無阿弥陀仏の教えでは救われない理由」 念仏を称える宗教では、この世は苦悩に満ちた穢れた土であり、死後に阿弥陀仏によって西方極楽浄土に往生することだけを願いなさいと教えます。 これでは、目の前で悩み苦しむ人に対し「あなたは今の世では救われることがない」と突き放しているようなもので、とても人々を救う教えとはいえません。 ・・・・・・・・・・・・・ 「念仏は釈尊の真意ではありません」 釈尊は入滅されるまでの五十年間にさまざまな教えを説かれ、最後の八年間に『法華経』を説かれました。 釈尊は法華経を説くにあたり、「今まで四十余年にわたって説いてきた経々には、真実を顕していない。これらの教えは、人々を法華経に導くために仮に説いた教え(方便)である」と明かされました。 念仏では、方便のお経である『阿弥陀経』などを依経としています。したがって、念仏の教えは釈尊の真意ではないのです。 ・・・・・・・・・・・・・ 「法華経こそ真実の教えです」 釈尊が法華経において、自ら「真実の法とは、法華経ただ一つである」(『方便品第二』法華経・一七四頁)と説かれているように、法華経こそが真実の教えであり、釈尊仏法における最高の教えです。 さらに釈尊は、自身の滅後二千年以降の末法(まっぽう)時代に至ると、「自分の教えの力は無くなり、そこに新たな仏が出現し、一切衆生を救済するであろう」と予言されました。 この予言どおり、末法の仏として出現されたのが日蓮大聖人です。 日蓮大聖人は、法華経の肝心・南無妙法蓮華経を唱え出だされ、御本尊を顕されました。 末法の人々はこの御本尊を信じ、南無妙法蓮華経の題目を唱えることによってのみ、真の幸福を得ることができると説かれたのです。 「宗旨を替えたら、先祖が迷うのではありませんか?」という人がいますが、そのような心配はいりません。 南無妙法蓮華経の教えに帰依し、日蓮正宗寺院において追善供養することにより、先祖の精霊(しょうりょう)は正しい御本尊の功徳によって必ず成仏できるのです。 (阿弥陀仏を本尊とする宗派には、法然の浄土宗(鎮西流・西山流)、親鸞の浄土真宗(本願寺派・大谷派など)、一遍の踊り念仏の時宗(じしゅう)などがありますが、ここではそれらを統括して「念仏」と表現しています) ・・・・・・・・・・・・・ また、「南無妙法蓮華経」なら、どの宗教でも人々を救えるのかというと、そうではありません。 「南無妙法蓮華経」の題目を唱える宗教はたくさんありますが、日蓮正宗以外の異流義は、大聖人の正意(しょうい)ではないので、何の功徳もなく、成仏もかないません。 「本門戒壇の大御本尊」から離れた宗教は、利益がないばかりか、むしろ不幸になる原因を作ることになるのです。 その中でも「創価学会」は最も悪質な邪宗教団であり、事実、全ての会員が不幸になっています。
補足
浄土真宗の方は是非こちらもご覧ください。 https://okwave.jp/qa/q9645189.html
- copemaru
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今の世の中、宗教そのものが不幸しか生みません。 オウム真理教、イスラム国、統一教会、そして学会。 いずれも無垢の信者から財産と命を吸い取り、異教徒を攻撃しています。神の名の下に殺戮を繰り返してきたのが宗教の歴史です。 宗教に依存している段階で不幸なのです。
補足
「宗教はアヘンだ」と言ったのは、かの有名なマルクスです。 彼は、当時の退廃的なキリスト教の姿を見て、宗教は人間にとって現実的な矛盾の解決になるものではなく、むしろ現実から目をそむけさせて、仮りに一時的な心の安らぎを与えているにすぎないと指摘したのです。 キリスト教を初めとする宗教の歴史では、宗教のために人が翻弄されてきたというのが事実です。 宗教のために人が翻弄されるほど、悲惨なことはありません。 そこでは、すべての人間性と理性は神の名のもとに否定され、人間は「神の奴隷」でしかなくなってしまいます。 マルクスが「宗教はアヘンだ」と言ったのは、このような人間性を無視した宗教を指したものでした。 キリスト教に限らず、教条主義的な宗教は、あらゆることを神の言葉に服従することだけを強調して、信徒の理性をマヒさせるものです。 しかし、すべての宗教が同様であるということではありません。 正しい法義と正しい本尊を説き明し、ひとりひとりの人間の生命力を蘇生させ、力強く人生を開拓し、真の幸せな境涯を築くという、宗教本来の目的を説き続けてきた唯一の宗教があります。 それが日蓮大聖人の仏法です。 真実の宗教は、人間の意識を消極的にするものではなく、むしろ、信心の力によって不幸をも克服する強い生命力を発揮させ、積極的に生きる力を育むものなのです。 弱い人間が信仰に逃避して、つかの間の安らぎを求める、というようなものではけっしてありません。 アヘンのごとき邪教にまどわされることなく、「求道の心」を開き、「勇気」を持って「真実の正法」に帰依し、その良薬を口に含み、正法を味わうときにこそ、真の人生の、はつらつとした生き甲斐を見い出すことができるのです。
- okwavey2
- ベストアンサー率15% (251/1593)
個人的な価値観なので、信仰したい人はすれば良いと思うんですが、そもそも宗教を信じられる時点で幸せと言えるのでは? 私は信仰する気がないですが、都合良いときにだけ神頼みしたり、都合の良いイベントを利用したりするような人間なので、信仰心はないと思います。 今が幸せではないとは思いませんが、現実から目を背けて何かを信じられるってある意味幸せじゃないですか。皮肉とも言えるかもしれないですが、信じることで幸福感を得ている人もいるのは事実のようなので、「100%」不幸になる宗教は存在しないと思います。 基本的に理系的発想なので、100%と言われると定義か何かのことかとか、そんなことはあり得ないってまず否定するところから始まるんですよね。だから、100%と言われたら、あり得ないと答えて、何を100%と考えているのかを説明してもらいたいわけです。 そこが理解できないままでは、話はいつまでも平行線ですからね。 よろしければ説明お願いいたします。 多いとかじゃダメなんですよ。100%っていうのは、一人も異なる人はいないとなる根拠が必要なんです。
補足
いずれの宗教にも、一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は、一時的な神だのみや、目先の急場しのぎによって得られるものではなく、宇宙法界を悟った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものです。 すなわち、本仏の慈悲によって仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって、人間としての福徳を備え、清浄にして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。 たとえば、ここに幸福に到達する正しい道と、不幸に至る邪な道があるとします。 正しい道は向上するものですから、険しい坂道や困難な壁にぶつかることもありましょう。 反対に、邪な道は下降する道ですから、快適な下り坂があり、途中には美しい花が咲いているかもしれません。 しかし、一輪の花や、下り坂に魅せられて、不幸な破滅の道を選ぶべきではありません。 邪な宗教によって一分の利益がもたらされるのは、あたかも詐欺師がはじめに正直者を装い、おいしい餌を相手に与えるようなものであり、正しい宗教に帰依することを妨げようとする魔の働きなのです。 一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠がそなわっている正しい宗教によって正しい人生を歩むことこそ、人間としてもっとも大切なことなのです。 真実の幸福とは、“思いこみ”ではなく、自己の内面から健全な生命を涌現させ、修行によって深い智恵と苦難を克服する心を養い、仏力・法力によって守護される安心立命の境界をいうのです。 何物にもくずされない幸福、それは正しい宗教によってはじめて得られることをよく知るべきです。 ・・・・・・・・・・・・・ また、「100%」はあり得ます。 人間も動物も「100%」死ぬはずです。
お礼
ご回答ありがとうございます。