• ベストアンサー

上層農

江戸時代、1町以上の田んぼを持つ人は、上層農、また富農と呼ばれたとネットに書かれてますが それと上層農の屋敷敷地には米蔵(物置を兼ねての米蔵)がある場合もあったとも書いてありました そもそも本百姓は田んぼを1町以上持ってるんじゃないんですか?

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

>江戸時代、1町以上の田んぼを持つ人は、上層農、また富農と呼ばれたとネットに書かれてますが ??? 「江戸時代に1町以上の田んぼを持つ人を、上層農、または富農と呼ぶ」の間違いではないのでしょうか。 上層農、中層農、下層農などという言葉がいつの時代から使われるようになったのかは知りませんが、農業関係の学術論文で使われるようになった言葉かと思います。 特に戦後左派系の学者が農民をブルジョア、プロレタリアート、などと区分する際に盛んに使っていたようです。 階層区分に耕作地の面積を使うのは諸外国と比較するさいに便利だったことによるものかと思います。 英文ではlarge-scale paddy field farms などと表現されました。 江戸時代の文献には上層農、中層農、下層農などという言葉は見当たりません。 江戸時代には単純に耕作地の面積だけが問題にされることはありませんでした。 どれだけ収穫できるのかが議論の対象になっていました。 参考 年貢貢納の諸相 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/402020200.htm... 反取 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/反取 抜粋 田は上田は(1段歩あたり)7斗、中田は6斗、下田は5斗で米取によって徴収された。 畑は上畑は(1段歩あたり)永250文、中畑は230文、下畑は210文徴収された。 ここで上中下という区分けがありますが面積ではないことにご注意下さい。 >上層農の屋敷敷地には米蔵(物置を兼ねての米蔵)がある場合もあったとも書いてありました。 正確には米蔵ではなく籾蔵です。 米は収穫後何段階かに分けて白米にされますが白米に近づくほど貯蔵性が低下してきます。 冷蔵庫など低温保存技術がなかった江戸時代には長期間保存する場合は籾の状態で保存していました。 野積みにしたのでは雨が当たれば芽が出てしまいます。 火災や野ネズミなどを防ぎ乾燥した状態で保存するために壁の厚い土倉に保管していました。 乾燥していて火災からも守られますので空いた空間に貴重品を納めていました。 >そもそも本百姓は田んぼを1町以上持ってるんじゃないんですか? 本百姓という身分は村に課せられた年貢を負担していた人を指していました。 保有する農地の面積ではなく経済力に基づいて決められていました。 天災、怪我、病気などで年貢を負担できなくなれば除外されました。 本百姓が水呑百姓に没落したケースは数多くあります。 百姓という身分は農耕に従事する人だけではなく城下町以外の農村部に居住している人達の身分であって職業とは無関係でした。 村の人達が必用とする品物を販売する商人や農機具など道具を作る職人も含まれていました。 海や大型河川に面した村の場合には漁師も身分は百姓でした。 蛇足 江戸時代の農村部の土地の所有権というのは現在の価値観とは全く違う価値観で運用されていました。 ひらたく言いますと、耕作地は個人のものであると同時に村の共有財産でもありました。 これは水田の水管理に由来します。 水田は季節や水温に応じて水深をコントロールします。 当時の水田の水は水源地に近い田から順次隣の田に流すようになっていました。 現在のように用水路が縦横に設けられていませんでした。 村全体の田の水深が均一になるように管理されていました。 途中の田が勝手に水深を変えると以降の田が困ることになります。 つまり本百姓の一人が管理できなくなって放置しておくと村全体が共倒れになってしまいます。

その他の回答 (1)

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2183/4836)
回答No.1

>そもそも本百姓は田んぼを1町以上持ってるんじゃないんですか? 本百姓は、農地の面積で決まるものではありません。 確かに、1町歩以上の農地を持った農民は豪農ですがね。 1町歩の農地を持たない農民でも、村の共同体に参加して「入会地・農業用水権」を持つ農家も本百姓です。 本百姓でも、全てが豪農ではありません。^^;

関連するQ&A

  • 菜種油

    江戸時代のお百姓さんが植えてた菜種の主な使い道は灯油用ですか、それとも田んぼ用ですか。灯油でしたら自家用でなく売り物にしたのですか?

  • 江戸の百姓の作付け面積について

    江戸時代平均的な自作農の百姓はどこの藩でも同じ程度の田畑所有なのですか?それとも大きい藩だと自作農の手持ちの田畑も大目になってくるのでしょうか?

  • 江戸時代の「村」と「町」について

    江戸時代の「村」と「町」について質問させてください。 村を構成していた本百姓の中で、名主・組頭に選出される比較的裕福な農民、百姓代に選出される一般的な農民をなんというか教えてください。 また、「町」において町人が経費を負担したことをなんと言うか教えてください。 ネットや用語集で検索しましたがこの3つがどうしてもわかりません。わかる方お願いしますm(_ _)m

  • 江戸時代の庶民の貯蓄

    江戸時代は、1町5反持ちの本百姓は10両の貯蓄があったみたいですが、10両貯蓄できただけでも大したもんなんですか? 聞いた話しでは本百姓は米の他に麦も作るから、若干お金に余裕があったみたいです 江戸時代の庶民の貯蓄平均額は、どれほどのもんなのか興味があります

  • サラリーマンは江戸時代の小作農と同じか? 派遣社員は江戸時代のエタヒニ

    サラリーマンは江戸時代の小作農と同じか? 派遣社員は江戸時代のエタヒニンと同じか? 知り合いの人と、社会の仕組みについて話をしていたときに 「サラリーマンなんてのは所詮、江戸時代の小作農と同じだ。  自らは生産手段(田畑)をもてず、地主(使用者)に好きなだけ搾取されている。  徳川家康は  百姓は生かさぬように、殺さぬように  と言ったらしいが、あきれるほど感心する名言だ。  300年後のわれわれも  サラリーマンは生かさぬように、殺さぬように  存在させられている。  300年前にそれを実践していたのだから、会社経営者が家康の本(歴史小説など)をこぞって読む理由がわかる。  小泉首相の【派遣社員規制の緩和】によって作られた大量の非正規社員は現代におけるエタ・非人だ。士農工商の”農工商”の連中に  上見て暮らすな、下見て暮らせ  と、一種の優越感と一種の恐怖心を持たせるために作られた新階級と同じ役割をさせられているのだ」 といっていました。  私は 「なんとなく言いたいことはわかるが、江戸時代と現代日本では人権のあり方も違うし、職業選択の自由もある。そこまで同一視することはないのでは?」 と思う一方、彼の意見にも一理あるような気がします。 彼の意見は正しいのでしょうか?

  • 江戸時代の身分間の移動について

    従来,江戸時代は強固な身分制のもと,百姓,町人間の移動は困難だとう認識が強かったと思いますが,実際に百姓,町人の身分間の移動は法令等で禁止されていたのかなという疑問がわいてきました。単なる民衆の「慣習」として「身分は変わることはできないと」と認識されていたのか?それとも法令では禁止されたのか? 「帰農令」等,改革で百姓(農民)を江戸から農村にかえすような命令も出ているので結構移動していた可能性があると思うんですが,これは人別帳などは書き換えず,不法に移動してたのでしょうか? そこで質問ですが (1)百姓,町人の身分間の移動は実際には法令等で禁止されていたのか? (2)たとえば百姓から町人(逆の場合も)なるときには正式にはどのような手続きがなされたのか?もし法令等で禁止されているのであれば,不法に身分を変わっていたのか。 このことについて詳しい方ぜひ回答をよろしくお願いします。

  • 武士リストラ

    江戸幕府後期、幕末は譜代の藩も、大変で仕方なく藩士をリストラしたらしいです 在郷藩士も仕方なくリストラされたかたがいたと思うんですが、リストラされた在郷藩士で屋敷、田んぼを所有していても、浪人ですか?それとも郷士か百姓になるんですか? ご先祖は在郷藩士で何代か世襲してた氏名を後期は名前の部分だけ違うのでリストラされた可能性があります

  • 江戸時代の武士が没落

    江戸時代、親のご先祖は郷士、中期から在郷藩士になり城勤めでした 郷士の頃か在郷藩士の頃かはわかりませんが、ご先祖は建造物移築のため借財をしてしまいました、それで借財が返せなくなり、お金の代わりに屋敷の土地で借財した相手に返しました 屋敷がなくなり、没落しかけたとき、親せきが、みんなでお金を出しあって家を建ててくれて没落しないで済みました 一町数反分の田んぼは残り、土地は削られたか?親せきの人たちが、土地も買ってくれたかは、わかりません 江戸時代って一回、家を失うと幕府や藩から武士身分取り上げだったり、土地や家を、そんな自由に購入できたんですか? 大きな建造物じゃないのに、神社仏閣に移築すると昔はお金がかかったんですかね?

  • 江戸時代の禁裏御料,寺社領の領民について

    江戸時代の朝廷領(禁裏御料・公家領)寺社領に住んでいる領民はどのような身分だったのでしょうか?(何と呼ばれていたのか?) 大名領や幕領には一般的に村に住んでいれば百姓身分。町に住んでいれば町人と把握されていたと思いますが,上記の場合はどうだったのでしょうか?また年貢を納めるなどの役負担はあったのでしょうか?

  • 寺屋敷の火消し

    江戸時代で寺町の寺屋敷の火事はやはり町火消しが出張ってお助けしてたのですか?それとも寺社奉行配下か大名の侍火消しか何かが出張るのですか?