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徳川慶喜の護衛。

慶応4年7月、謹慎中の徳川慶喜は、水戸から駿河に移っています。 上野戦争があったのも、奥羽越列藩同盟が成立したのも5月です。 そのような時節、水戸から駿府までの道中は、何事もなく平穏だったのでしょうか。 道中を取り仕切ったのは誰ですか。 海路によったのですか。 よろしくお願いします。

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回答No.3

(1) 〇 茨城県立歴史館>史資料検索など>・徳川慶喜Q&A>   VII徳川慶喜静岡へ謹慎する http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/tokugawa/sizuoka.htm   2 誰がついてきたか。   ・水戸から清水港までの行程の付き人は不明。   ・清水港には,精鋭隊の松岡万が隊士50人余を率いて宝台院まで警衛。 3 水戸から静岡への移動ルートはどこか。   ・慶応4年7月19日、水戸弘道館を発す。   ・19日夕,下町より船で那珂湊に出,祝町から徒歩で鉾田に至り,    船で銚子に出る。   ・21日,波崎より蟠龍艦(ばんりゅうかん)に乗船。   ・23日,駿河清水港に上陸,その夕宝台院に入る。 上記(1)に基づき、関連情報を調べてみますと、 下記(2)(3)が見つかりました。 (2) 〇『靜岡市史編纂資料 第四卷/靜岡市市史編纂課編/靜岡市/1927.12.15』 「第二章 德川家の處分 第六節 德川慶喜駿府に謹愼す http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176947/54 <54/154>(70頁4-9行目) 慶喜駿府に謹愼す かくして慶喜は七月十九日夕水戸を發し、二十一日銚子の波崎より蟠龍艦に乘 じて二十三日駿河淸水港に上陸し、其夕刻恙なく寶臺院に着した。 從ふ者は織田和泉・梅澤孫太郎・醫師二人・奧向十六人御膳所向三人等で誠に 少人數であつた。 目付中臺信太郎は之を淸水港に出迎へ、精鋭隊の松岡萬は隊士五十人ばかりを 率ゐて寶臺院まで警衛したのであつた。(德川慶喜公傳卷四) 尤も前日の二十二日には遊撃隊組は敎覺寺・攝取寺へ、 精鋭隊組は安立寺・感應寺へ屯營した。 (3) 〇『德川慶喜公傳 四/澁澤榮一/龍門社/1918』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917803/253 <253/330>(381頁3-4行目) 因りて公は七月十九日夕水戸を發し 下町より船にて那珂港に著き、祝町より徒歩にて鉾田に至り、 再び船に召して銚子に著き給ふ。(玉虫敎七談話) 上記(1)(2)(3)から、 ■ 経路 (1) 水戸・下町→[那珂川]→那珂港・祝町→[陸路]→鉾田→[海路]→銚子港 (2) 銚子港→[海路/蟠龍艦]→清水港 (3) 清水港→{陸路]→宝台院 ■ 護衛、従者・付き人等 (1) 「織田和泉・梅澤孫太郎・醫師二人・奧向十六人御膳所向三人等」の    23名程度しか見出せません。 (2) 上記(1)の23名程度のほか、榎本武揚指揮下の蟠龍艦(丸)の乗組員。    なお、Wiki調べに過ぎませんが、当時の蟠龍丸の定員58名からすると、    「徳川慶喜+23名程度」=24名として、    乗組員数は「58-24=」34名~58名程度の範囲で不明です。 (3) 「徳川慶喜」&「織田和泉・梅澤孫太郎・醫師二人・奧向十六人御膳所    向三人等」の24名に対する護衛は、    「目付・中臺信太郎」&「精鋭隊の松岡萬&隊士五十人」の52名。 あと、少人数での移動理由は、時世がら立場も有るでしょうが、 下記(4)「德川家駿州移住ニ就キ從者家族人員ヲ調フルノ達」の文言中に 「就てハ多人數の御家來一時に被召連候儀ハ迚も難相成候」などと事前に釘を 刺されてもいたようです。 (4) 〇『嘉永明治年間録 巻17下 明治紀元戌辰/吉野真保/甫喜山景雄/明16.12』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772621/19 <19/42>(16ウラ13行目-17オモテ8行目) 德川家駿州移住ニ就キ從者家族人員ヲ調フルノ達 …鎭臺府へ御伺の上御支度相整候ハヾ上様御移越可被仰出 就てハ多人數の御家來一時に被召連候儀ハ迚も難相成候間 御供御先勤其外彼地宿割等取調の上追て可相達候間頭支配方心得居其段 相諭候様可致事… …七月 白戸右助 平岩庄七 櫻井庄之助 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 海路であること、よく分かりました。 銚子港から清水港まで幕府海軍所有の蟠龍艦で移動したのですね。 さらに「19日夕,下町より船で那珂湊に出,祝町から徒歩で鉾田に至り, 船で銚子に出る。」ということから、銚子までの移動も船中2泊のようです。 陸路をできる限り避けて、身辺警護に万全を期していたことが分かります。 陸路の場合は、「御供御先勤其外彼地宿割等」のことまで心配りせねばならないということに、気づきませんでした。 清水港までの采配は、まさに腹心の臣である織田和泉(元大目付)、梅澤孫太郎(元目付)の2名でしたか!

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その他の回答 (2)

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2195/4860)
回答No.2

>慶応4年7月、謹慎中の徳川慶喜は、水戸から駿河に移っています。 その通りですね。 >水戸から駿府までの道中は、何事もなく平穏だったのでしょうか。 案外、平穏だったのです。 倒幕・反徳川勢力は、(質問者さまのご存知の通り)薩長土肥。 東海道筋の諸藩は、もともと「親藩」が支配していましたよね。 また、人々も倒幕・反徳川思想はありませんでした。 >道中を取り仕切ったのは誰ですか。 旧旗本組織です。 多くの旗本及び旗本の家臣・奉公人も、慶喜と一緒に江戸から駿河に移住していますよ。 そもそも、旗本=将軍家直属の家臣=将軍家護衛隊です。 >海路によったのですか。 陸路を、東海道筋を上っています。 ※当時は、京へ向かうのは「上る」。江戸へ向かうのは「下る」。 ♪駿河の国は、茶の香り♪ 移住した多くの旗本・幕臣が、茶農家になっています。^^;

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 新政府側が、慶喜に駿府へ移れと命じたのですから、道中の安全は新政府側が保証していたと思います。 不測の事態に備えての護衛ですから、人数よりも新政府の役人に顔が利く、かなりの地位の人物が宰領したのだろうと思っています。 官軍に占領された江戸の町や官軍になびいた東海道諸藩を通るのですから。 旗本ですか、なるほど。

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  • stss08n
  • ベストアンサー率16% (454/2762)
回答No.1

通説なら幕軍護衛手段での陸路東海道以外。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そのような通説があるのですね。分かりました。

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