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徳川慶喜が六ヶ国の公使を招待した目的

年表に、 慶応3年10月14日(1868年11月9日)、徳川慶喜が天皇に大政奉還。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、天皇が王政復古の号令。 慶応3年12月16日(1868年1月10日)、徳川慶喜が大坂城に六ヶ国の公使を招待。 と書いてあります。 政権を返上して将軍でなくなった徳川慶喜が六ヶ国の公使を招いた目的は、いったい何だったのでしょうか。 ご存知の方、教えて下さい。

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回答No.2

私は、歴史に関する本を読むのが好きなだけです。 「慶喜の軍服姿」を調べたときに、当時の慶喜の行動を追ったのですが、そのとき「六ヶ国公使と大坂城で会談」したことを知ったので、今回のご質問に回答できただけです。 慶応3年10月大政奉還した直後の19日、慶喜は諸侯会議の開催に至るまでの間の当面 の措置について、3条8項目を設定して朝廷にお伺いを立て、委任されています。 外交関係の事務についてが第一条です。 委任を得て慶喜は、諸外国の外交官に対して、これまでに締結した条約は、政府間(日本側は幕府)で交渉し結実したものであるから、幕府が、条約履行の義務を負うと通達したということを、「外交権」と安易に表現してしまいました。 新政府が、駐日外交官に王政復古を告げ、条約履行の業務を継承するとしたのは翌年1月10日です。 「外交権」という大きな問題についてお答えできるような知識をもっておりません。 参考 吉川弘文館『日本の時代史20「開国と幕末の動乱」』 http://www.yoshikawa-k.co.jp/jidaishi2.htm#開国と幕末の動乱

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

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回答No.1

戊辰戦争時、外国から認知されていた唯一の政府は徳川慶喜率いる江戸幕府でした。 諸外国の外交官から見れば、外交の窓口は「幕府」であって、朝廷を中心とした勢力は、新興勢力に過ぎないと判断していたからでしょう。 現在振り返ると、慶喜が「大政奉還」し、天皇が「王政復古」を宣言したと、あたかも順調に推移したように教科書には書いてありますが、このような動きを時々刻々と正確に把握できていたのは、地方都市・京に居たごく一部の公家と武家だけですね。 「大政奉還」されても、朝廷には国政運営の用意もなければ能力もなかったから、戸惑うばかりでした。 これは、慶喜側の作戦勝ちで、「やれるものならやってみろ」というところでしょう。 行政組織と軍事力がなければ政治はできませんからね。 実際に慶喜は、「諸侯会議」が開かれるまでという条件で、外交問題も含めて国事一般の行政を朝廷から委任されています。 しかし、その「諸侯会議」も開かれることはなく、「王政復古」が宣言され、慶喜は12月12日夕、二条城を出て大坂に向かっています。 そして16日、六ヶ国公使と大坂城で会談し、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させています。 戊辰戦争で外国の干渉が少ないのは、幕府に国際法を理解していた人材が多数いたからこその成果だと思います。

hinode11
質問者

補足

返事が遅れて済みませんでした。歴史に造詣の深い方とお見受けします。 >そして16日、六ヶ国公使と大坂城で会談し、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させています。 関連質問ですが、外交権についてお聞きします。 私は、源氏による幕府開設から徳川氏による大政奉還まで、天皇が征夷大将軍に委任した政権の範囲は治安維持権を含む内政権であって、外交権は一貫して天皇が握っていたと理解していたのですが、これは間違いでしょうか。

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