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なんで徳川慶喜は大政奉還して幕府を朝廷に返納したの
なんで徳川慶喜は大政奉還して幕府を朝廷に返納したのですか? 徳川慶喜が大政奉還したのは坂本龍馬が暗殺されて西郷隆盛に脅されていない時期でしたよね? なぜ返そうと思ったんですか? 別に財政が圧迫してたわけでもないですよね?徳川慶喜もこのままじゃ外国に勝てないと薄々感じていたってことですか?
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徳川慶喜氏は,とても狡猾で聡い人で,江戸時代末期の,動乱の時代などの日本において,もはや,今までの徳川将軍家や徳川幕府(ご公儀)に,日本を,しっかりコントロールする力などが無いことは,重々承知していました..徳川慶喜氏は,結局,自身の正室の女性を,江戸城大奥に入れることも無く,江戸城大奥の総取締役的な立場だった,大御台所(第13代将軍;徳川家定氏の晩年の正室御台所)の天璋院篤姫;近衛某・島津斉彬氏の養女とは,犬猿の仲で,ほとんど京の都に滞在し,第14代将軍の徳川家茂氏の後見人などとして,政務を行っていました..幕末期の日本では,中国大陸や,沖縄(琉球王国),西洋諸国などにも地理的に近い,薩摩(鹿児島県)や長州(山口県),土佐(高知県)や佐賀(肥前)などの,西日本の雄藩が,台頭し,力を持ち,徳川将軍家や,幕府にも,強い影響力などを持っており,アメリカなどの,西洋諸国の圧力に対抗する為の,積極的な考えや,思想などを実行し,特に,前述の雄藩などには,日本の天皇を崇拝する勤皇家や,勤皇藩などが多かった為,旧態依然とした徳川将軍家や,幕府の権威などは,そういった雄藩などに押されて,急速に衰退して行き,徳川慶喜氏の,第二次長州征伐の,自己都合による不出征・取り止めなどにより,又,徳川将軍家などに理解のあった孝明天皇が亡くなった為,それまで押さえつけられていた,京の朝廷の公家勢力や,長州などの反幕勢力などが,急速に,力を盛り返し,徳川慶喜氏の開いた,薩摩や土佐などのトップとの(四侯)会議でも,意見がまとまらず,薩摩や長州や土佐などが,手を組んで,徳川将軍家などに対抗して来た為,身の危険を感じた徳川慶喜氏は,とりあえず,自身の征夷大将軍職を,朝廷に返還し,又,将軍職や,幕府の権威の復活などを信じて,朝廷側の様子などを,見ていたのですが,あまりに慎重過ぎたのか,大政奉還後に開かれた,小御所会議に,仮病で,出席しなかった為,会議で,自身の官位の剥奪と,幕府の持つ所領の一部の,朝廷への返還などが決まってしまった為,同時期に,会津や新撰組などと,長州などの軍勢が,戦を始めた為(鳥羽・伏見の戦い),徳川慶喜氏は,大阪城に逃げて,佐幕強硬派などが不利と見ると,密かに,自身の開いた兵庫(神戸)港から船に乗り,会津の松平容保氏や,側近の板倉勝重氏等を連れて,江戸に東下し,引きこもってしまったようです..
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- eroero4649
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>別に財政が圧迫してたわけでもないですよね? この時期の徳川幕府の財政はカラッポですよ。ちなみに薩長軍もほとんどお金がなくて、江戸城を占領したらそこで幕府が持っていたお金を奪い取ろうとアテにして攻め入ったのです。 そんで江戸城が無血開城になったので金銀財宝を奪ってやろうと思ったけれどどこにもない。ムカついて勝海舟のところに行って刀に手をかけて「てめぇ、幕府の財宝はどこに隠しやがった」と迫ったら、修羅場に慣れている勝海舟は少しも慌てず「そんな金があったら、幕府は負けてねェよ」と言い放って笑ったという話が残っています。 だからテレビを賑わす「徳川埋蔵金」なんて、この時代の幕府の財政に多少なりとも知識があるなら「んなもんがあるわけがない」って知っているのです。はっきりいって「豊臣埋蔵金」のほうがよっぽど可能性がありますよ。 さて、本題の大政奉還ですが、当時薩長&岩倉具視としては幕府を武力で倒そうと画策していたわけです。それに対する慶喜が放ったウルトラCが大政奉還だったのです。 「政権はお返ししますよ」といわれたら、倒幕の名目がなくなります。しかし徳川家が政権から退いたところで、当時の朝廷に政権を運営する能力も人材も存在しません。結局、誰かにやってもらわないと政権が立ちいかないのです。そうなると当座は有力大名による連立政権となるわけですが、一番大きな大名家ってどこなのかといえばそれは間違いなく徳川家なので、結局徳川家が「最大与党」として中心にいられるという読みがあったと思います。 西郷隆盛や岩倉具視にとっては、大政奉還は王手飛車取りに近い痛い手を打たれたものだったと思います。まさか本当に政権を投げ出すまではやらないだろうと思っていたでしょうね。 慶喜側の大政奉還という必殺技への対抗は、「王と飛車を同時に動かす」という反則技でした。それが「倒幕の密勅」です。まあはっきりいってあれは岩倉具視の捏造ですね。「とにかく朝命が出た」ということにしちゃったのです。慶喜は今なら東大出のような超常識人のエリートだったから、まさか反則技を使ってくるとは思わなかったのではないかなーと思います。 またその一方で、慶喜と勝海舟は「どのみち徳川幕府はもう持たない」ということも分かっていたのではないかなと思います。戊辰戦争を真面目にやらなかったのも「戦って犠牲者を沢山出したところで、歴史の運命は変えられない」と先が見えていたのではないかな。
お礼
有難う御座いました
- whaihansei
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もはやNO1の座は難しいので、政権を朝廷に 返すことによりNO2を確保し、 朝廷から「では、やって」と実質NO1を 狙ったから。 または慶喜が、世界の大勢である中央政権 国家を作るためには 自分が(徳川が)降りることはやぶさかでは ない、と政治判断したため。
お礼
有難う御座いました この説が多いなあ
- fujic-1990
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いままで見た説では、慶喜が「ダマされた」と言ったという話が一番有りそうな話かな、と思っています。 あの状態だと、薩長を駆逐できるかもしれませんが、江戸幕府が滅ぼされたかもしれないわけです。フィフティ・フィフティ。 過去の例では、鎌倉幕府が滅んだとき、北条氏も滅んだ(もちろん一族の誰かはどこかにいたでしょうが公然と北条を名乗る一族はいなくなった)、室町幕府が滅んだとき、足利家も滅んだ(以下同文)。 それらの前例から考えると、江戸幕府が滅ぶと、徳川家もなくなる。 ギャンブルで、100万、200万円スルなら問題なくても、100億、200億スルのは怖いのです。 「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」と思い迷っていたそのとき、土佐の容堂公か勝海舟あたりが、慶喜の耳元にこうささやいたのです。 「公方様もご承知の通り、薩長はもとも犬猿の仲でございました。今は、徳川憎しで固まっておりまするが、薩長のような田舎者らに日本津々浦々の政治は無理なのでござる。公方様が政権を奉還し恭順なされてみれば、ヤツども共通の敵を失い、政権を引き継いだ後、すぐ内輪もめして自滅するは必定。むろん天皇ご自身にも貴族どもにもその力は無く、『やはり日の本の政は、徳川家を中心に置かねば成り立たぬ』と仰せになりましょう!」 と。 自民党政治の後を襲った民主党の大失敗みたいなものです。あれがあったら、日本人は野党を信じなくなった。「やっぱり、自民党だよね」ということになっての安倍晋三人気。あれと同じ理屈を、慶喜の耳にささやいたのです。 「で、あるか」とばかりに政権を放り出して「恭順」してみたら、意外や意外、あに図らんや、まったく崩壊しそうにない。 慶喜は、天を見上げて、おもわず「ダマされた」。
お礼
有難う御座いました ですよね 解散する理由がなかった
- oska2
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>なんで徳川慶喜は大政奉還して幕府を朝廷に返納したのですか? これは、誰も答えられない質問ですね。 第一、慶喜自身「生存中は、一切話さなかった」訳ですから。 ただ、明治天皇が慶喜に対して「公爵」を授けている事実があります。 戦前までは、慶喜家は広大な土地・屋敷に住んで居ました。 と言う事は、「朝敵・逆賊扱いはなかった」と考える事も出来ます。 普通に考えると、水戸藩は「勤王」が代々の主流ですよね。 テロリストである長州藩から、朝敵扱いを受ける事(屈辱)を避けたかった」のかも? 長州藩は、御所に火をはなって、孝明天皇を誘拐。長州藩に幽閉。その後、天皇の名で、全国に命令を出す。 こんなISもびっくりな計画を堂々と進めていたのですから・・・。 結局、京都所司代・新選組の活躍で計画はとん挫しました。 びっくり仰天な逸話では、(三条実美の命で)祐宮(孝明天皇の長男)も長州藩内で暗殺したとの事。 明治天皇は、(伊藤博文が指揮した)長州藩相撲隊の替え玉だった? 話がそれてきましたが・・・。 オランダ親書・フランス親書からの情報で「日本の内戦を避ける為」との説もあります。 当時の清国の状態も、オランダ・フランスから聞いていますからね。 内戦状態になると、日本も列強の植民地になっていたかも? 現に、(時代は前後しますが)ペリーは「日本が拒否すれば、琉球を武力占領する」命令を大統領から受けていました。
お礼
有難う御座いました
不満分子が全国に広まっていた、財政もひっ迫していた。 質問するのはもっと勉強してからにして下さい。
- hue2011
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薩長が朝廷を巻き込もうとランランと動いていたからです。 天皇を敵に回したら絶対に不利です。 相手はこちらを朝敵としようと画策しています。 攘夷ということに熱心だった孝明天皇が亡くなって、若手の明治天皇が出てくると、ますますアブナイ。 一旦大政奉還をして、従順に政権を返納したら、天皇自体は直接政治を動かすつもりはもともとないから、それじゃ以後も改めて頼むよ、といってくれるんじゃあないか、ということに賭けたのです。 竜馬が死んだなんていうこととは全く関係ないと思います。おそらく慶喜から見たら竜馬は存在感のあるものではなかった。竜馬がはっきり見えていたのは勝海舟だけでしょう。
お礼
有難う御座いました
お礼
有難う御座いました