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大政奉還について簡単に教えてください。

なぜ徳川慶喜が大政奉還を行ったか教えてください。

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回答No.1

幕府の威光が地に落ちて 諸大名が徳川家の言うことを聞かなくなったから仕方なく 慶喜は新政府の役職につけると思ったが結局新政府には選ばれず あぁ悲しいかな 地味に慶喜は昭和まで生きてるんですね 結構長生きです ちなみに慶喜は水戸家の出身 かの水戸光圀公のご子孫ですね まぁ 関ヶ原で苦渋をなめた島津家が260年たって徳川打倒を果たしたということです

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  • mekuriya
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回答No.5

大政委任論という理論があります。寛政の改革を主導した松平定信が唱えた理論で、幕府が行使している統治権は朝廷から委任されたものなのだとして正当化したものです。 また徳川家康は以下の遺言を残しています。  わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし    元和2年(1616) 要約すれば、徳川は政治を私物化するものではなく、朝廷から預かっているだけだということです。よく読めば、いずれ徳川は統治権を朝廷に返還する日が来るだろうと家康は覚悟していたとも解釈できるわけです。 徳川慶喜は第二次長州征伐の失敗で、幕府の限界を悟っていました。いよいよ幕府が預かっていた統治権を朝廷に返上する時期が迫っていると察していたのです。徳川慶喜は将軍就任を当初固辞し続けていたように好きで将軍になったわけでもない。その頃の幕府は開国・開港を迫る欧米列強と、攘夷を迫る朝廷の板ばさみでにっちもさっちもいかなくなっていた。開国と攘夷は二律背反です。両方を実現する手段などない。 徳川慶喜は現代政治家と違って権力欲に取り付かれていたのではない。どういった手続きで徳川幕府300年の歴史に幕を降ろせば徳川家康に合わせる顔ができるだろうかと腐心していただけです。 そこに土佐藩から大政奉還の建白書が提出された。よし機は熟した。そう慶喜は判断したわけです。

回答No.4

幕府御三家と呼ばれる水戸藩に生まれ、御三卿の一橋、そして徳川宗家を継ぐわけですから、確かに幕府の大政を奉還する(政治を将軍から天皇に返す)といった行動自体が合点がいかないでしょうが、実は慶喜自体は他の回答者様のご指摘のように、あるいみ尊王思想を持っていたんですね。そして、それらを踏まえて14代将軍の候補にも慶喜の声が上がっていました。 徳川光圀の『大日本史』の編纂以降、水戸徳川家は尊王に傾斜してゆきます。これには様々な理由が考えられますが、良く言われる事として、幕府御三家の尊王思想の淵源は、尾張徳川家の徳川義直に始まるといった見方ですよね。 【徳川義直】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4 御三家創設前後の状況として、実は御三家筆頭の尾張より紀州が石高の上で上位を占めるなど、あまりスッキリしていなかったんです。 その様な例もある中で義直にしてみたら、徳川幕府のアンチテーゼとしての「王命に依って催さるる事」(天皇によってこそ政治を行うべき)といった具合に徳川の世には否定的なんです。 この辺りから徳川を名乗る中にも尊王がいるといった、客観的な矛盾が生まれてくるんですね。そして、学問大好きの徳川義直と徳川光圀は、活躍年代が重なることもあり、尊王思想が義直から光圀に影響を与えていたのでは?と考えられています。 そして、徳川光圀の尊王思想は水戸徳川家に受け継がれ、ご指摘の幕末には水戸徳川家発の「水戸学」 【水戸学】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6 といった尊王攘夷思想が大きな潮流となります。そのような中で活躍するのが9代藩主・徳川斉昭です。 【徳川斉昭】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD 斉昭の激烈な政治行動は、時の大老・井伊直弼との対立なども生みつつ、その息子である慶喜自体は徳川最後の将軍といった役割を演じることになります。ようは、徳川家にありながら尊王思想のメッカである水戸出身の慶喜は、むしろ時代の要請でもあった面も指摘できるということです。 そのような前後関係を踏まえて大政奉還をながめると、スッキリする部分はあると思うのですが。

  • notnot
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回答No.3

「幕府が天皇の言う通りの政治をしないので、武力で倒幕をして天皇の意に沿った政治をしよう」 という建前の元で、薩摩や長州が武力で京都(当時慶喜は京大阪にいた)に攻め入ろうとします。 で、「幕府は政治をしないことにする。これからは天皇が政治を行ってください」というのが、 大政奉還です。 これで薩長は武力倒幕の名目が無くなるので、戦争は起こらないはずと言うのが読み。 さらに、天皇家だけで政治を行えるはずがないので、徳川家も含めた有力大名の合議制になるはず。 ただ、結果としては、薩長は無理矢理、戦争に持ち込んでしまいましたので、当て外れです。 なお、慶喜は光圀の兄の子孫です。京都守護職松平容保も光圀の同じ兄の子孫で、父親がいとこ同士です。

  • trajaa
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回答No.2

倒幕派が結集するテーマであった、天皇親政を進んで実現することで 幕府政権は無くなっても、徳川家は日本国内最大の勢力を誇る雄藩として存続すると見込んだ 幕府が無いのだから、倒幕派のテーゼ旗印が無意味になる そうなれば、倒幕という点で連合している諸勢力を分断できる で、天皇親政と言っても実際に国を動かすだけの人材も実行力も公家衆は持ち合わせてないので、結局のところ国家の運営に徳川家(及び旧幕側の人材と軍事力)が欠かせないとういう政治状況になるはず と、まで考えたのか知らんけど、どのみち行き詰まっている以上起死回生の博奕を打ったってとこじゃない?

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