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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神のお告げは本当に存在するらしいです。)

神のお告げは本当に存在する?

amenhotep2000の回答

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回答No.3

america2028さん こんばんは 残念ながら、私は神様のお告げは聞いたことはないです。 というより、神のお告げが聞こえたなどと言ったら、現代社会では、即、精神病院行きです。 ゴッホが精神病院に送られたことは有名ですが、18世紀から19世紀に活躍した、ヘルダーリンという天才文豪も精神病院に送り込まれ、監獄暮らしです。 しかし、私の修行暮らしの中で不思議なことがあります。 壁に突き当たって、解答を求め、集中力を使い果たした、頭がボーとした状態で、図書館の書庫に入り、何気に取った本の、自然に開いたページに問題の解決になるヒントが書いてあったり、図書館のカウンターの人が忙しく、間違って書庫から取ってきた本の中にヒントが書いてあったりすることがあります。 これを、ただの偶然と思うか、神様、仏様の、ご加護と思うかの違いが、信仰かどうか、ではないかと思います。 キリスト教においては、異言という他人にも、自分自身にも意味の通じない、神への祈りと感謝の言葉を話す人がいて、異言を話すことも神様からの賜物で、異言を訳すことも神様からの賜物というキリスト教が成立した初期は考えられていたそうです。 バスの中で、訳の分からないことをわめいている、障がい者のような人が、もしかしたら、私を含め、この哲学カテで回答している人より、真実を言っているのかもしれません。 しかし、残念ながら、私は異言を解読する能力はないようなので、良く分かりません。

america2028
質問者

お礼

ありがとうございます それは偶然です。 魚を調べるのに昆虫の本を取っていないので、図書館という膨大な本から適当にチョイスしたと思っても実際は魚のコーナーから選んだので全体数は関係ないのです。 確率はかなり高い。 そのページを偶然開く確率は宝くじより当たりやすい

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    ※ 「神は存在し、常に我々を見護っている」と心の底から    信じている人、信じられる人は幸せな人なり。 ※ 「宗教」とは生老病死・生活苦から逃避するためのマスターベーション    に過ぎない。 =以上を 人生の大前提 / 人生信条=としているが   これが間違いでない事を裏付けるかのように~ (1) 以前、イタリアの神父だったか牧師だったか知らないが    教会に属する少年に「性的いたずら」をした事がバレ    問題となった事があった。    思わず「な~にが神父だ」と吹き出した覚えがある。 (2) 遠藤周作の小説「沈黙」にもあった様に、    神は-(キリシタン弾圧 ➡ 棄教セヨ!! と雲仙の熱湯を体にかけられたり、して)    自分のために苦しんでいる信者を助けようともせず、ただ々「沈黙」するのみだった。    (そりゃそうだ、そんなものいないんだから助けられるわけがない)    自分だったら「ハイハイ!!」と踏み絵でも十字架でもいくらでも踏みつけられる。 ※ 以上の結果以下の結論となる (1) 「異星人」はいても「神」はいない。    (証拠を見せろ なんていわないでネ!! 前者の存在の根拠は     「この広い々宇宙に生命体は地球のみ」なんて事はあり得べくもない。     だけなんだから) (2) 四谷にある某大学の宗教関係者に「本気であの存在を信じているのか?」    とたずねたら「しかり」との事だったので、以後(議論の余地なし、と)「沈黙」を守った。 (3) イタリアの大司教  信濃町にある某オカルト団体の最高責任者  等々は単なる    「どっかのお爺さん」に過ぎない。    (しば々TVに出てくる-出っ歯で醜女で50過ぎのの某タレントが涙を流して    感激しているらしい姿を見て思わず吹き出した-    あの姿は「この世の地獄」の責任者 金○○ に会って涙を流した、    旧○○党のあの婆~さんと同じ)  =「哲学を追究すると宗教に到達する」と考えているが、以上の信条開陳で   「間違い」あらば正して頂ければ、と書き込みましたが-「削除」されるかな?    

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     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神にかんする勘違いが 多いのは なぜでしょう?

     これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること   になる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に   かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力   の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=   精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義   的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ   ている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人   間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • この世に神は絶対に存在しない!

    人はなぜ神を信ずるのか? まず始めにこう断言しよう神なんてものはこの世に間違っても絶対に存在しない! もし神が本当にこの世にいたならばこんな理不尽な世の中ではないはずです! 人が宗教したり神を信じたりする行為に失望しま す。 ま、人は真実を信じているのではなく自分が信じたいと思うものを信じるので仕方がなくもう重症なのでどうしよう無いんですよね… 神を信じてる盲信派は神はいないのに神がいると、信じたいから神はいる!と猛反発してくるだけに過ぎません! 人間は昔から神みたいなものを勝手に造り上げて盲信しているらしいですが呆れてものも言えない気分です。 神はいない派の、方はいますか? また神はいる!派の人根拠あります?