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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:不良気質の方が社会では使えるのでしょうか?)

不良気質の方が社会で使えるのでしょうか?

松代 信人(@sainou)の回答

回答No.4

こんにちは。 現代社会は、そんなに単純ではありません。もっと多面的です。 「強い」とは、いくつかのカテゴリーに分けることができます。 (1)価値を共有できる組織を引っ張っていくことができる。 (2)価値を共有していないが、利害関係を巧みに調整して、組織を引っ張っていける。 (3)有無を言わさず強引に組織を引っ張っていける。 (4)だまして組織を引っ張っていく。 (5)極めて高い技能や専門性があることで、組織に属さなくても評価を得ている。 ご質問のタイプでは、せいぜい(3)(4)が該当するだけです。しかも(1)(2)(5)と比較すると、 継続性が低いと言えます。戸塚ヨットスクールが現在存在しているとはいえ、所詮日陰ものです。 (1)では、弱さが強みになることもあります。例えば、私が専門の1つにしております、 「ひきこもり」であれば、「ひきこもり」の経験があるからこそ、「ひきこもり」の人の気持ちが理解でき、こういったコミュニティでの信頼を得て、引っ張っていくことができるのです。 (2)では、利害関係を巧みに調整するためのインテリジェンスとコミュニケーション能力が必要です。(5)では、いわゆる専門職の国家資格等が必要です。 学校社会では、まだ、上記のような多様性を発揮できる環境が少ないかもしれませんが、社会に出れば、多面的な現代社会においては、むしろ➂(4)以外のタイプの人たちにチャンスが多いのです。大切なことは、自分はどのタイプで勝負していくかを賢明に考えていくことです。 がんばってください。

松代 信人(@sainou) プロフィール

◆注力分野:知能改善、普通学級へ進路開発 幼児の知能改善、発達障がいの早期予防、知的・発達障がい・学習障害の治療教育 ◆対応分野 学習能力開発、進路開発、受験うつ、ネット依存 メンタル支援(脅...

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