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言語が不可能であろうとするとは
安部公房に関する本の中で、次のような文章がありました。 「安部公房が突破しなければならなかったのは、物をおおいかくしてしまう言葉の慣性であったといえよう。文学の言葉について、たとえばM・ブランショは、「カフカと文学」で<言語を可能にするのは、言語が不可能であろうとするからである>と述べた。そのことは、日本の戦後文学が直面していた状況にもあてはまる。語りえない世界をどのようにして文学がひきうけるのかが問われたのである。」 ここで以前から引っかかっていたのが、<言語を可能と~>の部分です。どのように考えればいいのでしょうか? 言語、不可能と聞いて浮かんだのはヴィトゲンシュタインの言語の論理性については限界があるということです(見当違いかもしれませんが(汗))。言語表現に限界があるということは理解できるのですが、それが<>内の意味とどう関わるのか(関わってないかもしれませんが)分かりません。 また、言語が「不可能である」のではなくて「不可能であろうとする」とはどういうことなのか?それによって(はじめて?)「言語が可能」となるとはどういうことなのか?分かりません。 どなたか、ご意見をお聞かせください。ひょっとしてこういうことかな程度でもいいですので、ご意見を寄せていただけるとありがたいです。理解の助けになります。よろしくおねがいいたします。
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- ghostbuster
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寝る前に言語学の本をぼけーと眺めていたら、突然、思いつきました。 起き上がって走り出したくなっちゃった。 さてさて、ひとまず冷静に。 人間の言語の特徴のひとつに、「恣意性」があります。 簡単にいってしまうと「もの≠言葉」ということですね。 この恣意性というのは、つまり、当初のご質問の ><言語を可能にするのは、言語が不可能であろうとするからである> ということにつながっていきます。 すでに#2で回答したことと重複しますが、もう一度整理して書くと、言葉は「もの」の実体を切り離し、その実体を消滅させることによって、言語として機能します。 すなわち、ブランショ流に言えば、言葉は、ものに「死」を与えることによって「可能で」ある。 つまり「言語(の機能)を可能にするのは、言語が(実体の可能性を)不可能であろうとするからである」とまとめることができます。 ところが、人間の言語には、「超越性」という特質もあります。 人間の言語は、眼前にあるものばかりを題材にすることができるだけではない。過去のことであれ、未来のことであれ、その場、そのときには存在しないものごとやできごとについて語ることができる(たとえばイヌの「わんわん」という鳴き声は「先週の水曜、公園に行ったとき友達のクロちゃんに会えて幸せだった」ということを決して意味しない……たぶん)。 この超越性ゆえに、ありもしないことについて話すこともできる。 たとえば、もっともらしくサンタクロースの話をすることによって、実体の「可能性」を予感させることすらできるのです。 つまり、言語の「超越性」ゆえに、物語を創作することや、将来ありうる世界を記述したりすることができるのです。 さらに、人間の言語特性には「生産性」という性質がある。 人間の言語表現には実に多くの種類があり、また次々に新しい表現を生み出すことも可能なのです。 従来多くの作家は、この言語の超越性と生産性に依拠して創作しつつも、一方で、言語の恣意性(さらにいえば、恣意性に潜む暴力性)に関しては、きわめて無自覚であったということができるかもしれません。 創作する、ということは、言葉の使用によって初めて可能になる営為です。 けれども、言葉を生産することはできても、その言葉によっていかなる「もの」(物ばかりでなく、人間や想念まで含みます)をも生み出すことは、決してできないのです。 「もの」を出現させようと言葉を使う。けれどもその言葉は「もの」を殺す。 言葉の真摯な使い手であろうとすると、そのジレンマに陥ります。 書き手が、現実の、ひとやものごとのありかたに迫ろうとする。 ギリギリまで言葉を選び、文体を練ることによって。 けれども言葉は、「もの」を出現させることはできない。 言葉には、代理し(言葉によって「もの」を置き換える)、再現する(目の前に出現させる)機能はないのです。 「描写」というのは、ある意味、非常に無自覚な言葉です。 言葉を使うことによって、ものからその実体をひきはがし、実体を「殺し」ている、ということを、まったく考えに入れていない。言葉によって、再現し、代理することができるかのような表現です。 ならば、書き手は「描写」ではなく、何をすればよいのか。 作家が出現させることができるのは、新たな言葉のみです。 新たな言葉を、限りなく、産出することができる。 言語の持つ暴力性を自覚した言葉を。 その言葉には、伝達という機能があります。 読み手は書き手が産出した言葉を受け取ることができる。 ここで読み手も、書き手のメッセージを、単に暗号として受け取ってはならない(そんなことしてないよ、と思うかもしれませんが、「作者はこの部分でどのようなことがいいたかったのでしょう」という問いなど、暗号の解読にほかなりません)。 言葉は作者の想念や内的世界を代理し、再現するものではないからです。 そこで読み手の側はどうしたらよいのか。 読み手も、書き手の言葉に応えて、言葉を生産していけばいい。 >死んだ有機物から/生きている無機物へ #11の回答を多少手直しします(笑)。 読み手、書き手双方の言語観を「死んだ有機物から/生きている無機物へ」に切り替えていこう、と理解できないでしょうか。 言葉は「もの」の実体を殺す。「言葉=もの」と見る限りにおいて、その「言葉=もの」は死骸でしかありません。 けれども、「言葉≠もの」、それ自体では恣意的で、何の実体も持たない言葉、無機物としての言葉である限りにおいて、言葉は限りない「開け」を持つ。 いろいろ考えることができて、すごくおもしろかったです。どうもありがとう。 あと、読んでくださった方にも感謝します。 未熟なままのわかりにくい文章を読んでくださって、ほんとうにありがとう。
いいな、ghostbusterさん。 piyopiyopiyoさんの存在とも相俟って、 知的レベルがぐぐぐ~ってあがりますね! 自信のない回答をしていたので、 書き込みしていただいてよかったですよ。 「死んでいる有機物から~」の言葉、「アルバム」を読みながら、ノートに書きとめていただけなので、その言葉の挟まれていたという本も未読ですし、解釈というより、私のは、この言葉についての「個人的な印象」にすぎません。テクストに沿った回答でもなんでもないんです。piyopiyopiyoさんにも、ごめんなさいね。 今、借りている「アルバム」を、また、ぱらぱらとめくりなおして前後を読んでみたら、やはりぜんぜん勘違いをしているらしいことがわかりました。 私は、花田氏の次の言葉から、勝手なイメージを広げていたんですけど、 <社会変革が、ぜんぜん有機的な進化過程ではなく、むしろ、無機的な組織化の過程であるということ>(p.24) あと、p.26の以下の叙述ですね。 「かれは、自閉していくヒューマニズムの観念に対応する日常を<すでにほろび去った有機的な環境>と呼ぶ。そして、そこに適応しているかぎり、人間の再生はないとし、<新しい無機的環境>への新しい適応の必要を主張した、<無機物以上のものになるためには、まず無機物を徹底的に同化しなければならない>。(中略) 無論、安部公房はすみやかに、彼独自の無機物を発見するのであるが、その過程におよぼした花田清輝の思考の影響は見のがせない。」 花田氏の主張というものも、私はきっと理解できていないと思いますが、「彼独自の無機物」のことについては、まったく、まだ思考の外でした。 piyopiyopiyo さんと、ghostbusterさんにおわびします。 私は、本当に無知で、ブランショという方のことも、このコーナーを見るまでまったく、名前も聞いたことがありませんでしたが、ghostbusterさんがたびたび引用されているのを見て、だんだん関心がわいてきました。今回引用されているところは特に魅力的ですね。 物語についての、こういう考え方は(などと言うととてもエラそうですが)私も好きです。 そして思ったのは、ghostbusterさんは、ほんとに本がお好きなんだなってことです。 ブランショさんという方は、ナチと戦ってこられた方だと聞きました。 「来るべき書物」私もいつか読みます。 読む本が待機リストに並んでしまって、たいへんなことになってきました… あと以前引用されていた、カオスである世界が読まれることで再生する‥って言う言葉も、いい言葉だなあって思っていました。 と言うことで、ろくに読んでいない「判断材料不足」の状態で、いい加減な言葉を乱発するのも、piyopiyopiyoさんに対して、失礼だと感じ始めていましたので、そろそろ私は退場したいと思います。 もちろん、また、投稿することもあるとは思いますが、とりあえず‥ piyopiyopiyoさん、ghostbusterさん、いろいろと目を開いてくださってありがとうございました。もう少し、勉強して、出直してくることにします。。(^_^.)
- ghostbuster
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ずっと拝見していました。 この部分だけ、私の解釈を。 >死んだ有機物から/生きている無機物へ 死んだ有機物=物語の中で描かれた人間、と解釈できないでしょうか。 多くの物語は、生きた人間が織りなすさまざまなできごとを扱っています。 けれども、けれども作品として処理される段階で、作者は俯瞰した位置に立ちます。たとえ一人称小説であっても、作者はできごとを、「過去のもの」として、ほかのできごとから切り分け、物語の形へと処理しているのです。 登場人物も同じで、たとえ作者の筆力によって「生きているようなリアリティ」を持った人物であったとしても、「起こってしまったできごと」を扱っている限り、作中人物も過去のもの、「死んだ有機物」とならざるを得ない。 生きている無機物、というのは、安部の作品に描かれた「物」であると思います。 たとえば「砂」であり、「箱」であり、「仮面」であり、「地図」のような。 安部の場合、「物との直接の交渉によって世界との関係をあたらしく発見しようと」した。 この部分、私も十分に理解できているとはいえませんが、安部は方向性の中心に「物」があった。 安部にあっては、「砂」や「箱」は、単純に何かのメタファー、抽象的な思想のメタファーではありませんよね。うまく言えないけれど、もっと具体的な手応えのあるものだ。 そうした「物との関わり」が安部の作品を通じたテーマなのだと思います。 再度、ブランショを引きます(私のとても好きな言葉です)。 「物語を、すでに起こり、そして今から人が伝えようと試みる例外的な事件の偽りのない報告と見るならば、物語の性質はけっして予感されるものではない。物語とは事件の報告ではなく、この事件そのもの、この事件への接近、事件がそこで発生するようにと呼ばれる場である。つまりそれは、まだ起こるべき事件なのであって、その牽引力によって物語もまた自己を実現することを望みうるのである。 そこにあるのはすこぶる微妙な関係であり、おそらく一種異様な事態である。けれどもそれが物語の密かな法則である。物語とはある地点に向かう運動である。……物語の魅力はこの地点から引き出すほかはない。したがって、そこに行き着く以前には「始まる」ことさえありえない。けれども、この地点が現実的で力強く魅力的になる空間を提供するのもまた物語であり、その予見できない運動だけである」(『来るべき書物』) fieldsさんの解釈もおもしろいものでした。 >「死」によってわれわれは養われているんですね。 は非常に印象的でした。
毎回、長文を打ってしまって、こちらこそ、ごめんなさい。 顰蹙もんだから、そろそろおいとましなくては、と思っていたところです。 どうぞ、いつでも締め切ってください(笑)。ってか、それは、質問者の方の決めることであって、投稿者がくちばしを入れることじゃありませんでしたね。。。 あまり、長くならないように‥‥ 安部公房氏のほかの著作も、ほんと、追い追いだと思いますが、ぜひ読んでみたいです。 「日本文学アルバム」も、ああいうスタイルの本、どちらかといえば、敬遠していたんですが、と言うか、作品もよく読まないうちに見るもんじゃないよ、って自分に言っていただけですが、考えが変わりました。作者に対するイメージが広がって、とても、ためになるもんだなって、知りました。 「死んだ有機物から/生きている無機物へ!」って言葉ですが、作者が意図されたとおりに自分が受け取っているかは、非常に疑問なんですね。あまり、そういうこと気にしないというところがあって、わがままな読者なんですよ。追い追いわかってくればいいや、そのつど意味合いが変わっていくだろうけれど、それぞれにそのとき意味を持っているんだ解釈には、なんて、自分の中では言い訳しています。本が読めるのはありがたいことだけど、僕がいい読者かどうかは、だから大疑問なんです。 それでもって、ことになりますが、 「死んだ有機物から/生きている無機物へ!」ってのは、今の僕の中では、こんな意味です。「有機物は必ず、死ぬ。と言うか、われわれを含めた自然界は、日々刻々無数の死によって、それを分解して新たな生命を育んでいる。死→分解→再構成→生、ですよね。 個人の中の社会性とか、精神性においても同じなんですよね。でも、人間社会の習慣性や固定性、個人の中の現実を見ようとしない思い込みとか、さまざまな要素は、死を死としたがらないというか、死んでいることを認めたがらないということが常にある。だから、ほんとは《死んだ有機物》になっていることにちゃんと気が付いて、それらを分解して、無機物になる以外、精神の中においても、本当の再生はないんだ。」 でも、これが個人の中で具体的に、どういう実践を意味するかというのは、個々によってみな違います。 それにこの言葉どおりのことを実践することは本当は、すごく大変なことであるはずです。ですから、ここから先は、自分の中で具体的な行為や意味を発見していくよりないんだなって自分では思っています。ちょっと、ありきたりでしたか? 子供向けの本でしたか、「死を食べる」って言う写真絵本を以前図書館で借りたことがあるんですが、けっこうショッキングでした。私たちは、日々ほかの生の「死」を食べて生きているわけですが、そのことをあらためて、そういうかたちで指摘されてみると、「なるほどなあ」と言うか、何かしみじみとした気持ちにさせられたのを憶えています。 「死」によってわれわれは養われているんですね。 そのことを私たちがどのような形で感じ、再発見していくか、ということがその人の生のかたちを作っていくような気がします。 piyopiyopiyoさんは、言葉の正確な意味をきちんと把握して、知的にご自分の中に再構成されようとしていますね。だからこそ、最初に提示されたような疑問が生じてこられるわけですよね。でも、考えてみれば、まさに、それが読書の基本的なあり方であって、読書とは、まさにそういうことなわけですよね。僕などは、ご自分の言葉で、なんておっしゃってくれてますけど、そのぶん、かなり勝手読みなわけでもあり、お恥ずかしい限りですよ。 「デジタルなものが自分自身の限界に到達して、アナログに不可避的に道を譲る過程なんだ。」って、この言葉は、自分の中学から高校ぐらいのころの精神状況を言われているようで、というか、そういうことを何度も繰り返しているのをずばり、言われたようで、びっくりしましたよ。 ではでは。ほんと、もう、いつでも遠慮なく締め切ってください(笑)。
補足
どうもありがとうございます。 長文ですし、fieldsさんの回答の負担を考えますと、ひたすら感謝です。 >個人の中の社会性とか、精神性においても同じなんですよね。でも、人間社会の習慣性や固定性、個人の中の現実を見ようとしない思い込みとか、さまざまな要素は、死を死としたがらないというか、死んでいることを認めたがらないということが常にある。だから、ほんとは《死んだ有機物》になっていることにちゃんと気が付いて、それらを分解して、無機物になる以外、精神の中においても、本当の再生はないんだ。 すごい、読み方ですね。僕もこのぐらいのことを自分で考え言葉にできれば、と思います。この部分はしばらく読み返して自分の栄養にしていきます。 >私たちは、日々ほかの生の「死」を食べて生きているわけですが、そのことをあらためて、そういうかたちで指摘されてみると、「なるほどなあ」と言うか、何かしみじみとした気持ちにさせられたのを憶えています。 そうですね、僕もそれは感じます。自然から遠ざかると、そうなってしまうんですね。僕の叔父さんが以前肉屋をやってまして、遊びに行ったときに、生きた鶏を殺す声を聞きましてショッキングでしばらく鶏肉を食べるたびに思い出してしまいました。 日本はアメリカについで世界で2番目に食べ物を残す、その量はカナダの1年分の消費量に匹敵する、というようなことを聞いたことがあります。非常に悲しい話ですね。ありがたみがないのですね。僕はご飯を食べるときに手を合わせて「いただきます」をするようにしています。経済対策よりもそいうった教育をと思います。 >piyopiyopiyoさんは、言葉の正確な意味をきちんと把握して、知的にご自分の中に再構成されようとしていますね。だからこそ、最初に提示されたような疑問が生じてこられるわけですよね。でも、考えてみれば、まさに、それが読書の基本的なあり方であって、読書とは、まさにそういうことなわけですよね。僕などは、ご自分の言葉で、なんておっしゃってくれてますけど、そのぶん、かなり勝手読みなわけでもあり、お恥ずかしい限りですよ。 いえいえ、そんなことないですよ~。 安部さんは「作者に解説を求める読者など要らない」というようなことを言っていたような気がします。要らないではなくて、所詮いい読者ではないのだ、だったかもしれませんが、それを変形させて「他人にいちいち解説してもらわないとならない読者なんて情けない」となるのかなと思うと、僕の方がお恥ずかしい~。
piyopiyopiyoさんへ ええっと、まずは、日本語の左傾しやすさについて、たっぷり引用していただいて、ありがとうございました。面白そうな問題なので、私なりに、時間のあるときにまた、ゆっくり考えてみたいです。 母音と子音の、脳におけるテリトリー分けが、外国語と日本語とで、違うらしいこと。外国語では、子音の活躍度が大きく、母音単独では、意味を成す言葉になりにくいらしいこと。一方、日本語では、母音の力が大きく、母音単独でも、十分に語を形成するので、母音のレベルですでに意味性を十分に帯びてしまうらしいこと。まとめると、外国語では母音のレベルでは、まだアナログで、子音と結びつくことで歴然としたデジタル性を帯びてくるのに対し、日本語では、母音レベルから、すでにデジタル性、固有の「意味」を帯びてしまう傾向を持っている、ということでしょうか? それで、赤ん坊のaiueoですら、もう、固有の意味性を帯びて聞こえ、苦しくなってしまうことがある、と。 今の時点では、これぐらいの整理にとどめておきます。もし、この仮説(?)のとおりだとすると、日本語って、けっこう、しんどい言語なのですね(笑)。 今の自分の感想を言えば、「う~ん」というところです。やはり、自分で判断を下すための判断材料が乏しすぎるんです。知っている外国語があまりに少ないから、比較できないんです。ですから、またゆっくりと思いを致してみたいと思います。 「日本文学アルバム」ひととおりですが、読み終わりました。読んでいる間に、いくつか読んでみたい作品が出てきました。 今、バーナード・マラマッドの長編(「修理人」The Fixer )が読みかけなので、そちらのほうを完読したら、「夢の逃亡」「他人の顔」といった作品を読んでみようと思います。花田氏の作品にも、余力があれば挑戦してみたいです。 「アルバム」の中で見つけた、琴線に触れてきた言葉を引用します。 >夢が悪いのじゃない。夢の中に獣たちを追い込んだものが悪いのだ。誰? そういわれると私にもわからない。夢はいやでも、獣たちのために膨張し、重味を増し、ついに眠りの中だけでは納まらなくなって、現実の中にはみ出してしまう‥(「夢の逃亡」から) 冒頭の二文、そのとおりじゃないか、って思ってしまいました。そして、予言は、現実になっていますね。 >集団としては、そうした個の病によって、かえって健康を保持しているのかもしれないのだ。いや、それを病だと考えることが、そもそもホモ的偏見なのかもしれない。(「ヘテロの構造」から) すごい考えだと思いました。そして、これも本当のことだと思います。 >死んだ有機物から/生きている無機物へ! かみしめていきたいです。 piyopiyopiyoさんのことばに。 >それに最後のほうで、三島さんが「俺には無意識の世界なんてないよ」ってなことを言われて、安部さんが「そんなバカなことがあるもんか」「絶対にないもん」「あるよ」「ないよ」ってな感じで子供みたいに言いあっているところも思わず噴出してしまいます。 まったくでした。あのお二人の関係は、ほんとに一見対極にあるようで、すごくいい友達だったのでしょうね。お二人に怒られるかも知れないけれど、なんかほほえましい気すらするときがあります。 >安部公房というと若い人はほとんど知らないのじゃないでしょうか。ちょっとさみしいですね。 いや、piyopiyopiyoさんのような根強いファンが、 多いですし、近所の図書館でも、けっこう借りられていますよ。これからも、きっと何度も再評価されていくでしょう。僕なんかが言うのはおこがましいことですが。 piyopiyopiyoさんのようなファンがおられることを改めて知って、私なんか、安部公房という作家の存在に、何か胸の熱くなる思いがしました。うらやましくなるような、作家と読者の関係だと思います。 最後に、図書館の件ですが、大学の図書館は、後で調べてみたところ、まだまだわれわれ一般市民には敷居が高いところが多いので、公共図書館の身近なところから、いくつか検索されてみるのがよいと思います。自治体によっては、他館からの取り寄せサービスなどもしてくれますので、カウンターで直接聞いてみるのも有効だと思います。
補足
fieldsさん回答ありがとうございます。 >母音と子音の、脳におけるテリトリー分けが~~ということでしょうか? そのようなことだと思うのですが、すみません、自信がありません。 >もし、この仮説(?)のとおりだとすると、日本語って、けっこう、しんどい言語なのですね(笑)。 そのため、活字離れがはげしいし、漫画に流れるんじゃないか?って言っていたような….。 ただ、「あれは(劇画は)明白に擬似アナログで、本質はデジタルなものだ」とも言っています。 とにかく、よくデジタル、アナログという表現が出てきます。紹介させていただいた『都市への回路』の対談ではこれでもかってでてきます。 例えば「バロック的なものというのはね、デジタルなものが限界に達して、自己崩壊を起こしたとき生まれるもので、いわば気が狂ったロボットみたいなものなんだよ。デジタルなものが自分自身の限界に到達して、アナログに不可避的に道を譲る過程なんだ。その意味で、現代芸術の特徴がそこにあると言ってもいい。」など 読みすぎなのか、僕もへいぜいから、アナログ、デジタルという言葉が口をついて出てくるようになっています(笑) >それが、ことばが使われていくということであって、手垢に汚れていくことであり、 歴史や厚みといった風格をも持っていくことかもしれません。 ですがそのことで逆に、その言葉が誕生時に持っていた生命力や、新しい局面を発見して切り開いていく力のようなものが見失われていくということは、確かにあるかもしれませんね。 非常に面白く読みました。似たようなことを以前考えたことがありまして、(fieldsさんのように文章で上手に表現できませんでしたが)驚きました。 >すごくいい友達だったのでしょうね おふたりはお互いが認めあったいいライバルだったようですね。安部さんは、「対談は三島君としかいしない」、と言ってた時期があったようです。 あまり三島さんにふれている文章はないのですが、数少ないなかで、「対話の名手だった」「得がたい対話の相手だった」「思想的にも、文学的にも、ぼくらはつねに対立し合っていた。一致するのは、誰か文学者仲間の悪口をいう時か、演劇関係者をこきおろす時くらいのものだった。そのくせ傷つけ合った記憶はまるでない。対立はむしろ対話のための前提になっていた」と言っています。 新潮日本文学アルバムを読んでいただいたそうで、大変感激いたしました。 恥を忍んでお聞きしたいのですが、琴線に触れた言葉の一つに 死んだ有機物から/生きている無機物へ、がありましたが、これはどういう意味に読まれましたか?イマイチこの言葉の意味が今までつかみきれてなかったんですが…. 今回引用している文章は基本的には下に紹介した本からのものです。特にキラキラ輝いている部分をチョイスしたというわけではなく、全体がこういう刺激にとんだ内容となっていますので、機会がありましたら、その他の本も読んでいただければと思います。 僕は今、セザンヌの本以外にコクトーとアラゴンの対談『美をめぐる対話』と『ブニュエル、ロルカ、ダリ….果てしなき謎』を読もうと思っています。『ブニュエル~』は本屋で立ち読みして、ブニュエルとダリが『アンダルシアの犬』のイメージを練り上げる際のやりとりを、証言をもとに小気味よく再現しているところが非常に面白くて買ってしまいました。 fieldsさん本当にありがとうございます。僕なんて何も考えずに引用ばかり打っているだけなのに、ご自分の言葉で考え、毎回長文を回答していただいて恐縮至極です。今回質問してよかったと心から思います。 実はghostbusterさんにお礼を書きまして、締め切ろうと思っていたらお礼を書いただけで締め切るのを忘れたんです。そしたら、fieldsさんがその日に回答をくださって….締め切らなくてよかったです、ホントに。
piyopiyopiyoさん、たびたびの応答ありがとうございました。よく次々と適切な引用が出てこられますね。 引き出しの多さに驚きです。それに、学生さんかなって思ってましたよ。 わたくし(自分)も、別にいわゆる専門家でないことをあらかじめお断りしておきます。 その上で、piyopiyoさんがはっと思い当たったことってのは、ほとんどそのとおりなんだと思います。表現するもの、されるもの、されたものという関係で、芸術に限らず、すべてのものを見ることができるはずですから。あらゆることに、類似の問題というのが起こってくるし、また今までも常に起こってきたのですから。 アナログとデジタルという表現、またいくつか安部氏の言葉を引用していただいたので、この表現に対して理解が増したように思います。安部氏の言葉は、やはり、とても面白いですね。うなづかされるし、未知の示唆に富んでいます。言葉の奥行きが非常に広い感じがします。 セザンヌの絵は、わたしは1999年に横浜に見に行ったのですが、《りんごとオレンジ》という大作の前に来て、なにか言葉にできないような厳粛な気持ちにさせられたことを覚えています。 前にたたずむほかの人たちにも、なにか巨大なものに出会ってしまったような、静かな驚きが漂っているのが感じられました。後でセザンヌの代表作のひとつといわれていることを知りました。写実的な作品に見えますが、絵の解説によっていくつか気付かされたのですが、寸法や配置などの中に実際にはありえないフィクションがたくさん入っているということです。製作現場の静物モデルの写真も見たように記憶していますが、要するにディスプレイなんですね。もう少し、りんごを寄せたい、浮かせたいというので後ろを粘土で支えてみたり、という、もうその段階からひとつのフィクションなんです。ですから、製作している人からみれば当たり前のことかもしれませんが、「静物画」というと、ありのままに、それこそ使い古されていることばで言えば「自然主義」的に描かれるものという、漠然としたイメージが見事に壊されたのを覚えています。描く人は、描きたいこと、伝えたいことを対象とのぎりぎりのせめぎあいで伝えてくれていたんです。「静物画」という名のフィクションだったんです。この辺、piyopiyoさんが引用された箇所とも符合するのではないでしょうか? はなしは跳びますが、 「日本語は他の言語にくらべて左傾を促すような構造があるらしいようです。」というはなし。正直、最初はへーって思いましたが、よく考えると判断材料が自分の中で整理しきれず、よくわかりません。デジタル化しやすいってことですよね。意味を限定していく方向に風化しやすいってことかな。日本語がどうってことは今のわたしにはコメントできませんが、言葉そのものが(外国語でも)生まれた瞬間から、そのときの社会の制度や習慣、感情といったものによってまとわれて限定されていく傾向を持っているのだと思います。それが、ことばが使われていくということであって、手垢に汚れていくことであり、 歴史や厚みといった風格をも持っていくことかもしれません。 ですがそのことで逆に、その言葉が誕生時に持っていた生命力や、新しい局面を発見して切り開いていく力のようなものが見失われていくということは、確かにあるかもしれませんね。それこそ「言葉が不可能であろうとする」という一つの表れともいえるかもしれません。つねに「再発見」されていないと、言葉も死んでしまうのかもしれません。 お尋ねのあった三島氏の作品は「太陽と鉄」だったと思います。図書館で、新潮社の全集の中から探されると早いと思います。同じ全集の中で、わたしも、安部氏と三島氏の対談読んだことがありますが、‥三島氏が「伝統」を再三持ち出そうとするので、安部氏が嫌がっていたのを、今思い出すと、ちょっと噴出しそうになります。 また、ひとつだけ紹介したい本は、イヨネスコの「発見」(「新潮社、叢書創造の小径」の一冊)です。作家の中で言葉がどのように誕生したか、記憶をたどりながら、生々しい叙述がなされています。 少しだけ、かいつまみますと、イヨネスコにとって、言葉を発見するということは、世界を再分割することだったのです。また、言葉を手に入れる前の幼児期の記憶の記述が非常に印象的でした。 昔、学生時代に読みましたが、安部氏の構築された世界とも、通じるものがあるのではないかと思います。もしお求めでしたら、大学関係の図書館などを探されるのがいいと思います。1976年ごろの本で、かなり高価ですから。また、好き嫌いもあると思いますので。 日本文学アルバム、わたしも今読んでいます。 良書を紹介していただき、大変感謝しています。 ありがとうございました。
補足
セザンヌ展ですが、1999年の段階ですと、まだ絵にはそれほど興味がなかったので残念です。今だと飛んで行くんですけど。《りんごとオレンジ》観たかったですねぇ~。 >三島氏が「伝統」を再三持ち出そうとするので、安部氏が嫌がっていたのを、今思い出すと、ちょっと噴出しそうになります。 そうですそうです。面白かったですね。それに最後のほうで、三島さんが「俺には無意識の世界なんてないよ」ってなことを言われて、安部さんが「そんなバカなことがあるもんか」「絶対にないもん」「あるよ」「ないよ」ってな感じで子供みたいに言いあっているところも思わず噴出してしまいます。 >「日本語は~。」というはなし。正直、最初はへーって思いましたが、よく考えると判断材料が自分の中で整理しきれず、よくわかりません。 僕もよく分かりません(汗)。僕もへーって感じで。 そこで、ちょっと探して理解の助けになるかな?という部分がありましたので、ちと長めですが引用します。 「もともと日本人にはデジタル信号にたよりすぎる傾向がある。角田忠信さんの『日本人の脳』によると、これは日本語の構造に関係があるらしい。つまり母音だけで意味の形成ができるため、母音も左の言語脳で受けてしまう。現在分かっているところでは、日本人とポリネシア人だけで、それ以外は全部母音は右脳で受けている。子音の文節だけを左脳で受けている。~略~たしかに日本語には母音だけの言葉がある。たとえば角田さんの本に出てくる有名な例だけど、O(オー)という字を四つ並べてみてください。日本人とポリネシア人以外には、言葉というよりうなり声にしか聞こえないかもしれない。でも日本人にはちゃんと意味を持ってくる。「王を追おう」となるでしょう。子音の分節なしに母音だけで意味を持つ。たしかに特異現象です。どうしてこういうことになったのかよく分からない。そう言えば日本語をしゃべるとき、子音を省略してしゃべってもだいたい分かりますね。試してごらんなさい。たとえば「学校に行こうか」から子音を消してみる。だいたい意味が通じるでしょう。とこらが、ヨーロッパ語でも中国語でも朝鮮語でも、逆に母音を省略してもだいたい分かる。母音をあいまいに発音しても、子音の分節がはっきりしていれば意味は通じる。ポーランド語なんかには、子音だけ八つ並んでいる例があるらしい。日本人にはとても言葉には聞こえない。ただチッチッチッチとさえずっているような感じだろうね。もっとも、これだけだったら単に伝達の形式の違いで、本質的問題ではない。ベータ方式かVHS方式かといった程度の相違です。ところが自然音のなかには母音にちかい構造の音がいろいろと存在している。日本人とポリネシア人はその母音にちかいほとんどの音を全部左の言語脳ほうで受けてしまうんです。だから日本人は犬が吠える、虫がなく、鳥がなく、とすぐ擬人化しがちです。犬の声、虫の声、と声になってしまう。~略~日本人は本質的にデジタル人間らしい。たとえば子供に対するしつけ。赤ん坊の泣き声、日本人は当然デジタル信号として受けとってしまう。つまり左脳で聞いているわけだ。ところが日本人、ポリネシア人以外は、あれを単なる音、音響として右脳で聞いているらしい。しつけが変わってくるのも当然でしょう。赤ん坊のときから、日本人はデジタル的に泣くわけだ。育児ノイローゼになりやすいのも無理はない。」 安部公房というと若い人はほとんど知らないのじゃないでしょうか。ちょっとさみしいですね。前衛を走りつづけて、最前線で傷だらけになって、誰かの言葉を借りれば「戦死」した人なのかもしれません。ただ、読者の数については安部さんが 「たとえば(エリアス)カネッティのことを考えると、読者の数なんて問題じゃないと思うな。もちろんカネッティの読者は少なすぎる、もっと読まれるべき作家だよ。でも読者の数とは無関係に、カネッティは厳然と存在する。絶対に存在してもらわないと困る作家なんだよ。そういう作家が本当の作家だよね。ぼく自身、カネッティを知らずにすごしてしまった場合のことを考えると、ぞっとするからな。ごく少数の読者によってでも確実に読みつづけられればそれでいい。じわじわ燃えつづける泥炭の火みたいに、それはそれですごいエネルギーなんだよ。出た途端に何十万部ボンと売れるような物しか読まない読者だけを相手にしていたのではだめなんだ。」 と仰ってます。 僕にとって安部さんはそのような存在なのかなと思いました。 紹介いただいた本は在庫がなく、古本のサイトで検索してもひっかからなかったので、図書館で探してみます。内容を読んだだけでわくわくしてきました。ありがとうございました。
piyopiyopiyoさん、丁寧な応答をいただき、m(_ _)m アリガトォ~ございました。 安部公房氏のエッセーからの引用を興味深く読ませていただきました。読ませていただいて、考えたことを少しだけ書きます。 デジタルとアナログという表現、分かったつもりで正確に把握していないと感じたので、改めて辞書を引いてみました。 >デジタル [digital(指の)] 数量を,1,2,3と数値を用いて表示する方式. >アナログ [analog(相似物)] 数量を連続的に変化する物理量で表示する方法の総称. デジタルは、0か1か、yesかnoかを際限なく質問して、その結果として記述していく方法。《分割》 アナログは、その中間のゾーンにあるものも、問い詰めて分割することなく、そのまま相似に写し取ってしまう方法。《連続》 ということでよいでしょうか。 言葉を獲得する前の人間はどんなにして意思をつたえあっていたんでしょうか? やはり、「ウォー」とか「ウェー」とか叫びあっていたんでしょうか。赤ちゃんは、何かしてほしいとき、泣き叫んだり、むずがったりいろいろしますよね。 「ウォー」とか「ウェー」とか思いっきり叫ぶのが、一番アナログな表現ということになるんでしょうね。原始的だけど、一番ストレートで、伝えたいことそっくりすべて表出する、という。 それに比べて、言語表現によって伝えるというのは、伝えたいことをそのまま叫んでしまうんじゃなくて、外に出す前にある程度の整理をして選択をして表すことですよね。無意識のうちに、いくつものyes,noのフィルターを通すことで、言葉になってる。すごく細かいことまで伝えることができる代わりに、「ウォー」とか「ウェー」の中にあったいろいろなものも削ぎ落とすことで、「ことば」になってる。そぎ落とされたものの中には、たいして重要でないと判断されたものがいっぱい入っているわけですけど、そう判断されただけで、本当は生きてく上で大事なものがいっぱい入っているのかもしれません。だから、つかえているものを表出するために、言語以前のいわゆるアナログな表現法を治療の方法として用いたりすると思うんですね。 先ほど「判断して削ぎ落とす」という言い方をしたんですが、これはいつもいつも主体的に判断してことばを完全にコントロールしているわけではなくて、どれぐらいの割合かということは言えませんが、やはりyesかnoかわからないけれど選ばないとことばにならないということで「いやおうなく」判断させられている部分というのもあると思うんですね。たとえば、青と藍色の間のすごく微妙な色彩のことを言いたくても、それに見合う言葉がないとき、いろんなことばを組み立てて、それでも言い尽くせなくて、どっかでことばのほうに妥協する。それでもすっきりしなくて、他のもので例えたり、結局叫んでしまったり、ということはないでしょうか。 「ウォー」とか「ウェー」とか言うものがあって、それからことばが生まれてきたはずなのに、ことばというものによって逆に主体者のほうが侵食されている部分というのも少なからずあると思うんですね。 三島由紀夫さんが確かそういうことを書いてらっしゃいました。 自分の場合はその順序が逆だった、侵食されるものがまずあったのでなく、侵食が最初にあり、それから徐々に内側の柱が現れた、というような言い方で。 話をもとに戻しますと、いろいろな叫びの段階から、フィルターを通して削ぎ落としていくことによって、ことばは生まれる。このフィルターという「判断」の洗礼を受けていることにおいて、まさしく、ことばはデジタルである。それは無数のyes,no に答えた結果だからである。けれども、その際に削ぎ落とされたアナログなものをもう一度もぐって掬い取ってこなくては文学は文学にならない。 なぜなら、発想の最初において、そもそも文学はアナログなものだからである。安部公房氏の引用の箇所、このように拝読しました。 >日本の戦後文学が直面していた状況にもあてはまる。語りえない世界をどのようにして文学がひきうけるのかが問われたのである。< 言語と、言語以前の橋渡しを再構築することに安部氏をはじめとする戦後文学者らが挑んでこられたということで、その過程を作家が語られた言葉が、たとえばデジタルとアナログという説明になっているのだと思います。 勉強されている方の前で、手ぶらで物申して大変失礼だったと思います。ほかの回答者の方々のレベルが高いのにも気が付き、赤面の思いです。
お礼
追加ですが、安部さんは左脳をデジタル脳、右脳をアナログ脳と言っていたと記憶します。 僕は安部さんのものを読んできて、芸術とは左脳と右脳の対話なのかなと感じています。 特に今は左傾(デジタル化)しやすい時代で、どうしても右脳が軽視されてしまいがちだと思います。 それにある研究によれば、日本語は他の言語にくらべて左傾を促すような構造があるらしいようです。日本人にはますます芸術(アナログ的なもの)が必要とされるのかもしれません。 その辺のところを安部さんは 「角田忠信氏の『日本人の脳』という本によれば、母音だけで意味を形成する日本語の特殊性のせいで、日本人は自然音によって優位脳(一般には左脳)を刺激されやすく、そのぶん劣位脳(右脳)の閉塞をおこしやすいという。もっとも日常の知的作業には特に不便はないらしい。右脳閉塞というのは、つまりアナログ的思考が停止した状態だが、さほど深刻な障害ではないということだろうか。そう言われてみると、たしかに右脳が閉塞した感性の障害者がその辺をまかり通っている。デジタル作家にデジタル評論家だ。 もっとも悪いのは、感性(右脳)の欠如を補うために、情緒過多症におちいってしまった連中かもしれない。情緒は一見したところ感性と近縁にある精神活動のようだが、じつはおおよそ似て非なるもので、むしろ言語周辺領域に属する『あいまいな言語』と考えるべきだろう。けっきょくは左脳の機能にすぎないのである。まがいものの言語のくせに、なんとなく感覚的な、そのまぎらわしさがよけいに危険なのだ。ただでさえ右脳閉塞におちいりやすい日本人の心的構造を、抵抗なく武装解除してしまう。 最近日本人の活字離れが言われるが、考えてみればさほど悲観すべきことではないのかもしれない。あまりにもデジタル化した文学が、そのデジタル過剰のため見離されているだけかもしれないのだ。アナログ志向がその裏に機能しているのだとすれば、閉塞した右脳のための換気扇としてむしろ歓迎すべきだろう。小説にかぎらず、創造性はもともとアナログな世界のものだったはずである。」 と書いています。 日本人は赤ん坊の泣き声も「意味」としてとらえてしまうらしい。だから育児ノイローゼが多いのだろうか、ってなことも言っていたような気がします。
補足
fieldsさん貴重なご意見ありがとうございます。 安部さんは好んでよくデジタル、アナログという表現を使っています。これは安部さんの芸術を語るときのオリジナルな表現だと思います。 例えばNHKのインタビューで、演劇について 「今の(特に日本の)演劇は大っ嫌いなんだ。でも、なんでこんなに好きになれないんだろうと考えてきた。そして、役者の質にその原因があるんじゃないかという結論に達したんだ。役者の演技があまりにもデジタル的なんだ。人間が悲しむときに、いかにも私は悲しんでいます、という演技をするだろう。非常に説明的なんだ。つまり演じることを演じているんだ。これには僕は参ってね。人間が本当に悲しんでいるときはあんな表情はしないよ。」 ってなことを言っていました。そこで、仕方がないから僕が演劇にまで手を出さざるをえなかったんだ、ということなんでしょうけど(そこまで言ってはいませんでしたが)。 話はかわりますが、セザンヌの本をたまたま読んでいて 「たしかにセザンヌは人間が目で見て、感覚的に捉える対象と、知的に認識している対象との違いに気づいていた。エミール・ベルナールはセザンヌの絵画をいち早く次のように捉えたのであった。『絵画には二つのものがある、目と頭脳だ。それらは互いに協力して発展するように働かねばならない。目は自然のヴィジョンのためにあり、頭脳は表現手段をもたらす組織化された感覚の論理のためにある。』 セザンヌは自己の絵画を知的に再構成しながらも、それを目による、知覚の現実性と調和させねばならないと考えて、苦しんでいた。しかし、キュビストたちにとっては、もはや『知覚の現実性』は価値をなさず、『概念の現実性』こそが重要になっていたといえるかもしれない。」 という文章があってハッとしました。 これは、僕には今回話してきた内容と密接に絡んできているように思えました(見当違いかもしれませんが....)現実の「もの」と抽象化された「言語」の関係が、ここで言う目と頭脳に対比しているように思えました。このような解釈ができましたのもtzzzyさん、ghostbusterさん、fieldsさんが貴重なお時間をさいて回答していただいたおかげだと思い感謝しております。今まではっきりと分からなかったセザンヌやキュビズムについての(自分なりの一つの)解釈が、できたように思えます。芸術の問題はジャンルを問わず、底流しているは同じものなんだなあって偉そうに考えてしまいました。 仕事などとは全く関係ない事柄で、分かったからといってそれによって収入が増えるわけでもありませんが、こういうハッとする経験、今までと違った風景が見えてくる(というと大げさですが)経験は、お金にはかえられない貴重な体験だと感じました。例えその解釈が間違っていたとしても、そんなことはどうでもいいような気がします。いろいろな意見を拝聴し、自分のポンコツの頭で考えてみることに価値があるのかな、と思いました。ありがとうございました。 また、三島の発言も大変興味をひかれました。もし、その出所がわかるようでしたら、教えていただけるとありがたいのですが....。
門外漢だとは思いますが、「こういうことかな?」ということで、提示された文章を自分なりに「翻訳」 してみました。 「安部公房が格闘して、乗り越えなければならなかっ たものは、物を見えない世界から光の中に引き出して顕わにするのではなく、 逆に、顕わであるはずのものに覆いをかけて隠してしまうという「言葉の習性」そのものであった。 (表現する、つまり描こうとしているもの、伝えようとしていることを「あらわ」して、人々がともに同じ広場に立って、認めることのできる状態にするための《道具》であるはずの 「言語」が、逆に表現しようとする対象を「かくし」てしまうとはどういうことなのか?) (そのことに関連するが) 文学における言葉について、たとえばM.ブランショは、「カフカと文学」の中で言っている。 <人々が言語表現ということによって、コミュニケートできるのは、言語が何もかもを表してしまうからではなく、むしろ、言い表したい大きなことがあっても 、言語そのものは対象を「限定する」ということそのことによってまさに「言語」であるからである。つまり、言語が何もない空間に「物」を引っ張り出してくるのではなく、 語られぬものをも含む何もかもある空間(まだ名づけられていない世界、あるいはまだ呼ばれていない世界)の、 ほかの広大な部分を隠すことによって、その小さなかけらを「あらわ」すのであり、 これが、言語の不可能性が言語を可能にしているということの意味の、ひとつの説明なのだ。 > (「言語が不可能であろうとする」の「あろうとする」というのは、言語表現をしようとする者にたいして、言葉が、表そうとするものを逆に隠したり、隠そうとしているものをあらわしてしまったりする、 その表現者にとって「思い通りにならぬ」抵抗感のことではないかと、私は思います。卑近なたとえをするなら、かなづちは重くて動こうとしないから慣れない者は、いや、慣れている者でさえ、ある程度かなづちに振り回されるが、 その動こうとしない質量ゆえに仕事をすることができるというように。) 言語表現に常に存在するこの状況というものは、日本の戦後文学が直面していた状況にも、やはり、例外ではなく、ぴたりと当てはまる。語りえない世界、つまり、 言語によって表現しようとすることそのことによって、逆に隠されてしまう「語りえない世界」というものに、いかにして気づき、新たなアプローチをしていくかということが、 言語表現の、あるいは文学表現というものに通低する主題として、ここでも問われたのである。」 どうでしょうか? 一笑に付してもらって結構なんです。 言葉と『語りえない世界』という関係について思い浮かんだことは、二つあります。 ひとつは『能面』。『面』は、素顔を「おおいかくす」ことによってすべてを現します。 われわれのようなまったくの素人が、もし、『面』をつけてみたら、逆にその人のすべてが、こわいぐらいに見えてしまうでしょう。 『隠す』事によって『あらわ』れてしまうし、演者は『隠す』事によって『あらわ』すのです。 もうひとつは、『箱庭療法』について。 本や放送大学の講座で話を聞いたに過ぎませんが、 クライエントは、『言葉』によって伝えたいことを表現できない、という状況をまさに、端的に担っていると思わざるを得ません。 その理由はさまざまですが、言葉にできない、ということは誰もが接している世界なのだと思います。 そのまだ名づけられていない世界を、ほかの人に伝えられる形に導くひとつの技法として、発見されているのではないかと思いました。 文字になるまえのもうひとつの言語として。 ながながと、失礼いたしました。
お礼
fieldsさん貴重なご意見本当にありがとうございました。 一笑に付すなんてとんでもないです。 例えも非常にわかりやすかったです。 いくつか回答をいただいてまた考えてみました。うまく言えませんが、 皆さんが仰っているのは、言語の目的は何か、と言うと例えばある状況を伝達する、何がどうした(昨日大きな犬にかみつかれた、とか)というようなことを伝えることだとすると、そのかみついた犬を「犬」という抽象的な言葉に置き換えて伝える。そうすると、結果的に本来の目的である完全なその状況の伝達を言語は不可能にしてしまうわけですが、しかし言語はそういう性質によって可能になるということかな、と。
補足
>言語表現に常に存在するこの状況というものは、日本の戦後文学が直面していた状況にも、やはり、例外ではなく、ぴたりと当てはまる。語りえない世界、つまり、言語によって表現しようとすることそのことによって、逆に隠されてしまう「語りえない世界」というものに、いかにして気づき、新たなアプローチをしていくかということが、言語表現の、あるいは文学表現というものに通低する主題として、ここでも問われたのである。 と言う部分を読んで安部さんのエッセイで 「そうは言っても、小説は言語の世界であり、言語はあくまでもデジタルな記号だ。音楽や美術が最終的にアナログな表現をとるのと、完全に対照的である。小説を音楽や美術と区別し、芸術に含めない立場も、たぶんその辺によりどころがあるのだろう。デジタル表示は論理の構築に適しているから、むしろ評論などと重なりあう部分も多くなる。しかし小説が評論と異質なものであることも否定できない。 つまり小説もその発想の段階では、きわめてアナログなのである。デジタル表記である言語を、アナログ的に処理することで、最終的にはもういちどアナログ的なイメージに引き返さなければならない。この二重性こそ小説の小説たるゆえんだろう。たしかに小説のなかのデジタル的な要素は説明も出来るし解釈も可能である。だがアナログ的要素のせいで、解釈しつくすことは不可能だ」 という部分を思い出しました。「日本の戦後文学が直面していた状況にもあてはまる。語りえない世界をどのようにして文学がひきうけるのかが問われたのである。」となにかしら関わってこないですかね?ちょっと無理がありますか?
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
ご質問文の『新潮日本文学アルバム』読んでみました。 引用されている前のパラグラフ 「安部公房の作品は、現実をたんに描くのではない。それを破壊するための仮説と実験の空間である。意識の描写によってではなく、物の構成によって、描かれていくのである」 という部分があります。 この部分は安部の拠って立つ位置を明確にした文章だと思います。 「現実」をなぞって現実の雛形を作品の中に再構成して見せるのではない、というのは、いわゆる一般の描写、というよりも、かつて日本文学の中心を占めた自然主義文学に対する批判であると思います。 一方に作者という主体があり、環境や自然、人物を、客体としてそこに「写す」。 写されたものが、客体と似ていれば似ているほどよい、という考え方が、自然主義文学という形で戦前の日本にはあったのです。 それをどう突破していくか。 戦後の文学者にとって、自然主義文学を乗り越えていく、というのは大きな課題としてあったのでしょう。 安部はここで「客体をありのままに描写する」ことをしない。 破壊するのは、「現実を描写する」という方法なのでしょう。 どのように破壊するのか。それは「仮説と実験の空間」によって。確かに、安部の作品にそれを描こうとしたものだ。仮説と実験の空間は、人間の観念の内に存在するものではなく、物と人間の新たな関係のうちに見出されるべきだ、と安部は考えたのでしょう。 「感性と科学的思考」によって、安部は「物との直接の交渉によって世界との関係をあたらしく発見しようと」した。 そのために、新たな言語が模索されたのです。 その言語に対する模索は、ブランショとほぼ同じ方向性を持っていたと考えることができる。 ただ、一点を除いて。 ブランショは従来の言語の突破の方向を、マラルメ流の詩的言語に求めた(それはシュルレアリスムにもつながっていきます)。 それに対して、安部は、あくまでも論理的な追求によって、物との具体的な関係の中において見出そうとした。 少なくとも私はこの部分をこのように読みました。
お礼
何度も回答をいただきありがとうございました。 しばらく時間がとれなくてお礼を書くのが遅れてしまいました。 今回の回答を読み直し、紹介していただいた本を読んで、じっくり考えてみたいと思います。 その中でまた新たな疑問が湧いてきましたら、再度質問をすることがあるかもしれません。 ghostbusterさん、質問を見かけることがありましたらまたよろしくお願いいたします。 なお、紹介いただいた本のうち、 ソシュールを読む、ブランショのカフカ論とマラルメ論、言葉と無意識、の4冊は注文いたしました。 文学部唯野教授は明日本屋に行って探そうと思います。 来るべき書物、文学とは何か、の2冊はちょっと高いので余裕ができたら買いたいと思います。 どうもお世話になりました。
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
示唆に富む引用、ありがとうございました。 これはぜひ読んでみなければ。 >名づけ、言語の秩序の中にくりいれることで、人間は外部の存在を服従させ、安全なものにし、家畜化することができたのである 確かにこの部分は、ブランショがいっていることと重なりますね。さらに丸山圭三郎のいう「言分け」にもつながっていく。 >だから一般に考えられているような教科書的な、これはいい日本語だというモデルはない。自分でそれをつくり出さなければいけない。しかも言葉ですから、誰にでも通用する共通したものでなければならないという、非常にむずかしい操作をするわけです 安部はここで「コップが光る」表現を例にとっていますが、おそらくこの部分は、単なる文章表現の技術をもんだいにしているのではないのだろうと思います。 むしろここでいう表現とは、丸山圭三郎が言っている内容に近いのではないか。 「そもそも表現というものと内容は分離できない存在である、これがソシュールの言語観の根本です。…私たちはともすれば、表現とは思考なり情念の衣だとかその翻訳であるように考えがちですが、実は思考というものが、その言語表現を見出す以前に一種のテクストとして存在しているのではありません。文学作品の場合でも、作者自身、自分の書いたものと比較対照しうるようないかなるテクストを前もって所有していたわけではない。つまり表現というものは、それ以前には存在しなかったその内容自体をはじめて存在せしめるという考え方です」(『ソシュールを読む』) だからこそ、安部は「たった一度しかないコップの光り方」の表現に、そこまで腐心したのだと思います。 丸山圭三郎は『ソシュールを読む』の方から引用しましたが、ソシュールの言語学にそれほど興味がなかったら、講談社現代新書の『言葉と無意識』の方が、内容が幅広いぶん、いいかもしれません。 ブランショはいまほとんど絶版になってて、手に入りにくいですけど、読む価値のある人だと思っています。 あと、安部公房は実存主義、とくにハイデッガーの影響を受けた、とよく書いてありますよね。もし哲学の知識をまったくお持ちでなければ、筒井康隆の『文学部唯野教授』がよくまとまっています。これ読んだら、ヨーロッパの文学と哲学とは、すごく密接なものなんだな、ということがよくわかります。 これのタネ本と言われているのが『文学とは何か』(テリー・イーグルトン 岩波書店)。 安部公房、私も読んでみますね。 読んでみて、全然的外れのことを言っている、と青くなるかも……。
補足
ghostbusterさん紹介ありがとうございます。紹介いただいた本は入手可能であれば余程高額でない限り手に入れ読んでみます。古本の検索サイトで探せば大概の本は入手可能だと思いますので。 ちなみに先日ご紹介しました、本は「死に急ぐ鯨たち」以外は古本でないと購入できないかもしれません。前回のドナルド・キーンさんとの対談集は「反劇的人間」です。 古本の購入を私は以下のページで行っています。 http://www.murasakishikibu.co.jp/oldbook/sgenji.html ためしに今検索しましたらすべて購入可でした。 そんなに高くありませんでしたよ。どれもおすすめです。発想の周辺の三島との対談は何度読んでもあきません。言葉の問題について非常に興味深いことを語っています。
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お礼
追加ですが、 作品に使われる象徴的な「もの」について、作者が語っているところとして、安部さんが亡くなって(1993)から数年して、NHKが「テレビが記録した知性たち」というシリーズものをやりまして、そこで1985年に放送された「訪問インタビュー 安部公房」を編集して放送していました。それを録画したものを持っているのですが、そこで 「安部さんの作品を読んでると、メビウスの輪のような世界に入っていくような気がするんですが」 という聞き手の問いに対して 「僕が、箱とかいろいろな「もの」に還元するのは、いろいろな意味でメビウスの輪を提供してるんですよ。つまり、僕がね、例えば箱ってものを捕らえるときにその箱が小説のなかで変形していくプロセスをたどるとちょうどメビウスの輪みたいになってくるんです。それはね、外の世界を箱というものにうつして見せているわけですよね。そうすると、箱が箱を越えてしまう。すると読者は挑戦をうけるでしょ。どうやって読者はそれをデジタル化してホッと安心できるのか?まあ、多分できないと思いますが、無限にその挑戦を受けると、というところで、作品と読者の交流がうまれるのでしょう。」 とおっしゃっています。 紹介していただいた「言葉と無意識」を今読んでいます。関心がある事柄について書かれているだけに大変面白く読ませていただいています。まだ、30、40ページ程度ですが、電車は人間か人形か?の体験談や、「言霊の力」のエジプト神話の本名を知られてしまったがために、力を奪われるラーの話やユイン族の名前を隠す話は、ホント面白いですね。先を読むのが楽しみです。ご紹介いただきありがとうございました。
補足
ghostbusterさんどうも回答ありがとうございました。 ghostbusterでふと思い出したんですが、「砂漠の思想」のなかの「枯尾花の時代」というエッセイがあって、 「トーマス・マンのなにかの小説に、人間の精神活動とは、未知なものに「名前」をあたえることだと言うようなことが書いてあり、たいそう感心させられた記憶がある。 つまり、たとえば、ライオンにまだ名前があたえられていなかったとき、それはまったく得体の知れない怪物であり、人間はそれに対して闘うすべもなく、ただおびえる以外になかったのだが、一度それにライオンという名前がつけられてしまうと、ライオンもけっきょくはライオンにしかすぎず、いくら手強い相手だとは言え、いずれは撃ちたおすことの可能な獲物になってしまうと言うわけだ。 たしかに鋭い指摘だと思う。もし、ライオンにライオンという名前があたえられず、現れる一頭ごとが、いつまでもわけの分からぬそれにとどまっているような状態だったとしたら….当然、人間も、まだ人間として自覚されることなく、現れる一人ごとに、何かわけの分からぬそれにすぎなかっただろうし….さらには、樹木や石ころでさえ、何かわけの分からぬそれとして、つねに人間をおびやかしつづけていたに違いないのである。 言ってみればこれは、幽霊ばかりがいて、枯尾花の存在しない、狂人の世界にほかなるまい。名づけるという行為は、すなわち、幽霊どもを次々と枯尾花におきかえていく作業以外のなにものでもなかったのである。」 という部分を思い出しました。人間は不安を取り除くために言葉を武器に幽霊退治をしてきたんですね。 そして、この文章の最後の方で 「もし、他人がつくり上げた概念の城の片隅に、欲得もなく安住していようと言うのならともかく、わずかでもその外に目をむけたことのある者になら、まだ登録されていない新大陸、名づけられていないライオン、枯尾花の正体をあらわしていない幽霊どもが、うようよしていることに、気づかずにはいられないはずである。だからこそ、芸術などという、概念でおきかえてしまうことの出来ない怪しげなものが、この理性の時代にあっても、なお死刑宣告をまぬがれていられるというものだ。芸術とは、その未登録の大陸に踏み入れ、無名のライオンにおびえ、幽鬼の群れにおののき、そしてそれらすべてを、名づけないままに、受けとめる作業にほかならないのである。 そう、名づけるほうの仕事は、批評や、科学にでもまかせておけばいい。すくなくも、ここでは、名づけたいという自然の行動にさからってでも、無名の幽鬼たちを、そのありのままの姿で、受け入れてやらなければならないのだ。」 とあります。 >死んだ有機物から/生きている無機物へ の解釈ですが、大変面白く読ませていただきました。ブランショの引用もそうですが完全には理解できていません(涙)。でも、何かがある、という感じはありますので、おばあちゃんがセンベイ食べるように、口のなかでふやかしながらでも、弱いアゴですがすこしづつ噛み砕きながら、栄養にしていきたいと思います。 いつもありがとうございます。