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言語が不可能であろうとするとは

安部公房に関する本の中で、次のような文章がありました。 「安部公房が突破しなければならなかったのは、物をおおいかくしてしまう言葉の慣性であったといえよう。文学の言葉について、たとえばM・ブランショは、「カフカと文学」で<言語を可能にするのは、言語が不可能であろうとするからである>と述べた。そのことは、日本の戦後文学が直面していた状況にもあてはまる。語りえない世界をどのようにして文学がひきうけるのかが問われたのである。」 ここで以前から引っかかっていたのが、<言語を可能と~>の部分です。どのように考えればいいのでしょうか? 言語、不可能と聞いて浮かんだのはヴィトゲンシュタインの言語の論理性については限界があるということです(見当違いかもしれませんが(汗))。言語表現に限界があるということは理解できるのですが、それが<>内の意味とどう関わるのか(関わってないかもしれませんが)分かりません。 また、言語が「不可能である」のではなくて「不可能であろうとする」とはどういうことなのか?それによって(はじめて?)「言語が可能」となるとはどういうことなのか?分かりません。 どなたか、ご意見をお聞かせください。ひょっとしてこういうことかな程度でもいいですので、ご意見を寄せていただけるとありがたいです。理解の助けになります。よろしくおねがいいたします。

みんなの回答

回答No.3

補足欄拝見しました。 おもしろそうなタイトルの本をたくさんあげていただいて、感謝しています。 安部公房は高校生の頃、よくわからないなりに『他人の顔』や『箱男』『砂の女』など、異世界であるはずなのに、頭がクラクラするほど濃密でリアルでエロティックな作品世界に圧倒されながら読んだことを思いだします。それ以来ずっと遠ざかっていたので、この機会にぜひまた読んでみたいと思います。 >名付けるという行為は、存在せぬことが出来る存在にのみ与えられた。 「存在せぬことが出来る存在」というのは、ヘーゲルが言う主奴論の、死んでもいいから自分の尊厳を守ろう、相手に自分を承認させよう、とする側です。 ヘーゲルばっかりじゃなくて、カントにしたってそうなんだけど、18世紀から19世紀はじめのヨーロッパ人は、自由=(動物的)本能や自然環境から自由であること、と考えてたんです。自由であるのは、この地上ではただ人間だけである(だから人間は自然を征服してもいいんだ、っていう考え方にもつながっていくんだけど)。 ヘーゲルはこの考え方を押し進めて、唯一の存在である人間は、その尊厳を承認してもらいたい、という欲求を根源的にもっている、と考えた。そこで他の人間に出会うと、暴力的な闘いが始まる。 ここらへんはホッブスの考え方を引き継いでますね。 ブランショは言葉を使う側、さらには創作する側というのはは、こうした闘争に勝ち残った側であると考えているわけです。 名付けるとは、単純にものに名前を付ける行為であるだけでなく、たとえばある感情をとりあげて、言葉にする。あるいは、あるできごとをとりあげて記述する。こうしたものまでも含んでいます。 >「文学作品のなかに、言語が、そこではまだ、何の力も持たぬ関係であるような場所を、いっさいの主人性や隷属性と無縁な裸形の関係の言語であるような場所....」 これは具体的にはわかりません。ブランショが理想とする詩であり文学である、ということだけしか。 念頭にあるのはマラルメであり、カフカであり、そのほか、彼が取り上げているヘンリ・ジェイムズやボルヘス、ムージルらの作家なのでしょう。 ブランショはニーチェの「だが、芸術は、或るおそるべき厳粛さでできている!……われわれは、君たちを戦慄させるようなイメージで君たちを包むだろう。われわれにはそういう力がある!」という言葉を批判的に引用し、これを主人的な言葉、としています。 書き手が読み手に与える、という一方通行の関係ではない、読者に向かって開かれた書物。 読者の側からすれば、読むことを通じて、主体的に解釈し、そのことによって書き手とともに新しいテクストを創り上げていけるような書物。 その意味で、ブランショの評論は説明的なものではなく、読み手の側が主体的に解釈していかなければ何を言おうとしているのかよくわからないものです。 こうしたテクストの読みについて、直接には関係ないんですが、私は丸山圭三郎の文章を思いだします。 「鑑賞とか批評とかいうものも、作品の背後に客観的な作者の意図が神様の意志のように存在していて、それをあぶり出す行為ではない。作品ばかりでなく私たちを取りまいている世界自身が、見られ、読まれ、聞かれる存在です。つまり絵であれ、文学であれ、哲学の論文であれ、音楽であれ、あるいは文化現実であれ、また文化現実に分節される以前の〈カオス〉であれ、読みとられる行為によって生命をもつというか、新しい生を生きるのではないか」(『ソシュールを読む』 岩波書店) ブランショはあえて「理想とする言葉」を、分かりやすい形では明らかにしなかった。 そうすることによって、それは「主人の言葉」になってしまうからです。 その分かりにくさは、誰もが同じ結論に到達するような安易な読みを拒否し、読み手に「これはどういうことだと思う?これについてどう考える?」と問い続けるがゆえの分かりにくさなのだと思います。 やはりカフカの作品がそうであり、安部公房の作品がそうであるように、こうした作品は「読みとられる行為によって生命をもつ」ものなのだろうと思います。

piyopiyopiyo
質問者

補足

ghostbusterさんたびたびありがとうございます。 昨日今日と考えてみたことを羅列してみます。 安部さんのエッセイで「(人間が)名づけ、言語の秩序の中にくりいれることで、人間は外部の存在を服従させ、安全なものにし、家畜化することができたのである。たとえば、棒に棒という名前をあたえ、棒として認識することで、個々の棒ではない、抽象的な棒一般(無限個数の棒)を手に入れることができた。すなわち、道具の使用が可能になったわけである。猿も棒をつかう。しかし猿のつかう棒は、棒一般ではない。」という部分がありました。「言語によるコミュニケーションは、言葉が示す具体的なものを消し、個人的な要素を排除する(#2)」がそれにより人間は言葉から多くの恩恵を受けたんでしょうが、その見返りとして、われわれが言語を獲得する以前の、ものとのエキサイティングな接触ができなく(もちろん言語を介しない接触は非常に不安なものでしょうが)なってしまっているのかな、と。同じ犬に出会うにしても言語を介さなければその都度得体の知れない何かとの遭遇として、そのもの自体から強い衝撃をうけますよね。そういう1回1回の初対面性を失わせることになるのかな、と。現に今、目の前にあるもの、それ自体を見ているつもりでも、言葉により「名付けられたものを遠ざけて(#2)」しまう、しらすしらずのうちにものを疎外してしまっているというのは非常によくわかります。言葉により裸の付き合いができなくなっているんでしょうか。それにより失ったものがあるんですよね。 またまた引用ですがドナルド・キーンさんとの対談で「たとえば、「ガラスのコップがキラッと光った」って、よく大衆作家は書きますね。しかし、コップは決して二回おなじ光り方はしない。必ずそのときの光り方、一回だけの表現があるわけですよ。それを一生懸命になって探す。~略~たとえば数学なんかの場合だったら、これは光の波長を数字で表せばいいわけです。だけど文学の場合には、固有性があると思う。その固有性をどう正確に表そうか、形容詞に頼るのでは危険ですね。「非常に美しく光った」というと、これは中性的で駄目。どのように美しく光ったというのも、やはり総体的すぎて駄目。そうじゃなくて、ただひとつの表現を探すわけです。~略~だから一般に考えられているような教科書的な、これはいい日本語だというモデルはない。自分でそれをつくり出さなければいけない。しかも言葉ですから、誰にでも通用する共通したものでなければならないという、非常にむずかしい操作をするわけです。~」 この部分が、「文学作品のなかに、言語が、そこではまだ、何の力も持たぬ関係であるような場所を、いっさいの主人性や隷属性と無縁な裸形の関係の言語であるような場所を、回復すべく試みなければならぬ(#2)」となにか結びついてくれないか今考えています。 まったくまとまりのない文章ですけど昨日今日で頭に浮かんだことを書いてみました。 それから、回答にあったって引用していただいた本以外に何か理解の手がかりとなりそうな本がありましたら、紹介していただけると助かります。お願いいたします。

回答No.2

ブランショのカフカ論は読んだことがなかったので、ちょっと文献を探していたのですが、手に入らなかったので、マラルメ論、『来るべき書物』等で展開されている、ブランショの言語観から考えてみたいと思います。 ><言語を可能にするのは、言語が不可能であろうとするからである> ブランショは『マラルメの経験』の中で、マラルメの書簡を引用します。 「私が〈花〉と言う。すると私の声がいかなる輪郭も閉じこめていない忘却の彼方から、よく知られた萼とは別の資格で、優にやさしい観念そのものが、あらゆる花束の不在が、音楽的に浮かび上がってくる」(『マラルメ論』からの孫引用 筑摩叢書) これはどういうことかというと、たとえば人が「花」と言う。 聞いた人は、その「花」という言語から、意味するところを受け取るけれども、そこには花そのものもなければ、その人が描いている花のイメージも、花の思い出もない。そうした一切とは別に、「花」という抽象的な意味だけが与えられるのです。 ところが言語表現というのは、そのように話者の思いにこめられた個人的な感情を一切切り捨てて、抽象的な「花」を提示するから伝達できる、という側面があります。 私の「花」とあなたの「花」の意味するところがもし違っていたら、言語は成り立たない。 言語によるコミュニケーションは、言葉が示す具体的なものを消し、個人的な要素を排除することによってのみ可能となっている。 「不可能であろうとする」のは、発話のたびにそうした運動がおこなわれるからです。 さらにブランショは、言語がもつ具体的なものを排除しよう、個人的な要素を取り除こうとする傾向の中に、暴力的なものを見ます。 「言語は、この世においては、何よりもまず、能力である。語る者は、力を備えたものであり、暴力をふるう者である。名付けるとは、名付けられたものを遠ざけて、それをひとつの名前という便宜的なかたちで所有する暴力的な行為である」(『来るべき書物』筑摩書房) ここはご質問にあった引用の部分に関連してくるかと思うので、もう少し引用をつづけます。 「名付けるという行為は、存在せぬことが出来る存在にのみ与えられた。…かくて、言語は、われわれをあの主人と奴隷の弁証法のなかに投げこみ、われわれは、この弁証法に終始つきまとわれるのである。主人は、死の危険をおかして、最後までその道を辿ったがゆえに、言葉を口にする権利をえた。かくて、ただ主人だけが、命令にほかならぬ言葉として、語るのである。奴隷は、つねにただ聞くだけである。聞くことしか出来ぬ人間は、語られる言葉に左右されるわけだから、つねに二次的な存在にすぎない。だが、聞くことというこの従属的で二次的なめぐまれぬ側面が、結局最後には、能力の場であり真の主人性の原理たるおのれの姿を明らかにするのである」 これはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を下敷きにした部分です。 二人の人間が会い、たがいに相手に人間としての承認を求めて、命がけで闘う。死んでも自分を守ろうとした側が主人になり、死に怯えて闘うのをやめた方が奴隷となって主人に仕える。 ところが主人は相手を奴隷にしてしまったために、対等な相手からの承認を得ることはできない。 一方奴隷は、主人のために働くことを強いられるけれども、労働を通じて、自立して生きるようになる。 主人は奴隷の労働に依存しているので、実は自立した存在ではなくなっている。 ここでふたりの位置は逆転し、主人は奴隷に依存した奴隷となり、奴隷は主人に仕えながら、主人の主人となる。 「話す―聞く」の関係も、この主奴論の弁証法のなかにあるのではないか。 けれどもブランショは、芸術や文学の言葉はこのようなものであってはならない、と言います。 「文学作品のなかに、言語が、そこではまだ、何の力も持たぬ関係であるような場所を、いっさいの主人性や隷属性と無縁な裸形の関係の言語であるような場所を、回復すべく試みなければならぬ」 おそらく質問者さんが引用された文章が指しているのは、ブランショのこうした思想を言っているのだと思います。 ※この安部公房批評の論者とタイトル、わからなかったんで教えてください。なんだかおもしろそうなので、私も読んでみたいと思います。

piyopiyopiyo
質問者

補足

長文ありがとうございます。非常に興味深く読ませていただきました。部分的にまだよく理解できていないところもありますが、何歩も前進できたような気がします。 具体的に分からないところをあげますと、 「名付けるという行為は、存在せぬことが出来る存在にのみ与えられた。」と 「文学作品のなかに、言語が、そこではまだ、何の力も持たぬ関係であるような場所を、いっさいの主人性や隷属性と無縁な裸形の関係の言語であるような場所....」というところです。 私はどうも頭が悪いもんで....。 ところで、この文章の出所ですが新潮社から出ている「新潮日本文学アルバム51 安部公房」です。高野斗志美さんが解説をしています。P21にありました。私は安部公房のファンで安部さんを通じて芸術に開眼しました。芸術について考えれば考えるほど言語の問題にぶつかってしまいますね。安部さんが折に触れ取り上げている問題です。おたずねとはズレますが、私が繰り返し読んでいる安部さんの本は、 「砂漠の思想」講談社(セッセイ集) 「死に急ぐ鯨たち」新潮社(対談など) 「都市への回路」中央公論社(対談集) 「発想の周辺」新潮社(対談集) などです。常に言語の問題が出てきてどれを読んでも裏切られることはないと思います。参考になるといいのですが....。

noname#15943
noname#15943
回答No.1

 <>の部分のあとに、“日本の戦後文学が……”とあり、その次に、  「語りえない世界をどのようにして文学がひきうけるのかが問われたのである。」となっていますね。  これとブランショの<>と関連づけてみると、  語りえない世界 = 言語が不可能であろうとするコト │ └を 文学がひきうけるコト = 言語を可能にするコト   という関係になりますね。  言語表現には限界があります。どんな限界か。言葉の慣性は物(=ものごと と考えてもいいでしょう)をおおいかくしてしまう。未知の事態の前では往々にしてコトバを失わざるをえない。習慣的であることは言語の宿命といえるでしょう。これが、言語が《どこかそれ自身の意志でそうするかのように》不可能であろうとする、ということですよ。  では<言語を可能にするのは、>ですが、ここはむしろ<言語が可能になるのは、>ととったほうがわかりやすいと思います。(どんな原文をこのように訳したか調べないと不確実ですが。)ちょっと日本語とは違った構文法なのかも。  ともかく、もともと言語が不可能であろうとしているようなものだからこそ、語りえない世界をなんとかしてひきうけようと(人間は)する。そういうとき、もしかして言語ってちょっと可能になってるんじゃない? 慣性を突破できてしまっているんじゃない?  こういうことです。  ウィトゲンシュタインにくらべると、この評論のようなものの言語性はずいぶん<文学>的ですね。

piyopiyopiyo
質問者

お礼

tzzzyさん回答ありがとうございました。 そして、お礼が遅れてごめんなさい。

piyopiyopiyo
質問者

補足

>習慣的であることは言語の宿命といえるでしょう。これが、言語が《どこかそれ自身の意志でそうするかのように》不可能であろうとする、ということですよ。 この文章を読んで浮かんだのは、安部さんのエッセイで「もともと芸術的創造とは、言語と現実との癒着状態―言語という壁にとりまかれた、ステロタイプの安全地帯―にメスをいれ、異質な言語体系つくり出す(それはむろん同時に新しい現実の発見でもある)ものであはずだ。」という箇所です。言語の壁は、想像以上に堅固なもので、その堅固な言語体系を破壊(し再構築)するのは並大抵のことではないというようなことを言っていたように思います。言語体系が堅固だということは、あるものに対する見方が固定(確定?)しているということで、それはある意味新しい解釈(視点?)を拒むということなのかな思います。その辺が「言葉が不可能であろうとする」=新しい解釈を拒む(一旦構築された言語体系の破壊を回避しようとする)ということと結びついてくるのかなあ、と思いました。また「言葉の慣性」というのも、関連してくるのかな?もちろんそのような言語の性質は必ず(多分)われわれが生き延びる上で有効に作用しているのでしょうが...。  もう少し自分でも考えてみます。

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