一橋家の上屋敷だけ田安家、清水家から離れていた理由

このQ&Aのポイント
  • 一橋徳川家の上屋敷が田安徳川家、清水徳川家の上屋敷から離れた理由は何か
  • 一橋家が田安家と喧嘩を避けるために上屋敷の位置を離した可能性がある
  • 清水家は一橋家の上屋敷の隣しか場所がなかったため、そこに立地した
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一橋家の上屋敷だけ田安家、清水家から離れていた理由

何故、一橋徳川家の上屋敷だけが同じ御三卿の田安徳川家、清水徳川家の上屋敷から離れたところに立地していたのでしょうか? 御三卿のうちの二つ、田安家と清水家の上屋敷は隣に立地していました。 しかし、同じ御三卿の残りの一つである一橋家の上屋敷のみが、田安家、清水家の上屋敷から離れた場所に立地していました。 これは何故なのでしょうか? 一橋家ができた時、既にできていた田安家と喧嘩にならないようにするために、上屋敷の位置を離したのでしょうか? その時、清水家はまだできていなかったので、清水家の上屋敷をどこにするかという事は考えていなかったという事で、後に清水家をつくる事が決まった時に、田安家の隣しか場所がなかったので、そこに清水家の上屋敷をつくったという事でしょうか?

noname#224079
noname#224079
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回答No.2

徳川実紀などを読んでみても、御三卿の邸地選定についての記録はありません。なので想像するしかありません。 一橋邸が成立したとき、後の清水邸は明地でした。ですから一橋邸を田安邸と並べて置くことは可能だったわけです。だいたい一橋邸のあった大手町1丁目周辺は低地であり、近所には将門の首塚があるような土地柄です。にもかかわらず一橋邸を一橋門に置いたからにはそれなりの理由があるはずです。 当時の人々の思想というか発想の根幹には陰陽道が深く関わっていました。 田安邸は本丸御殿の北側、一橋邸は北東側に位置します。 陰陽道において北(子の方向)は子孫繁栄の象徴です。子沢山の田安宗武に求められたのは文字通り、将軍家後嗣無き場合のバックアッパーであったろうと想像できます。 一方、一橋邸のある北東とは鬼門です。江戸城の鬼門には上野寛永寺、日光東照宮があるように、徳川家を守護する防衛施設が置かれています。武芸に秀でていた一橋宗尹に求められたことは将軍家のバックアッパーというより、将軍家を難事より守ることが主眼だったのではないでしょうか。 清水家については、おそらく家重が偉大なる父の顰に倣って作ったものと想像します。ゆえに、吉宗が最初に田安邸を設けた場所の隣に清水邸を置いたのではないでしょうか。都合よく明地でもあったわけですし。

noname#224079
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 陰陽道に関わるものだったのですか。 北側に邸がある田安宗武に求められたのは、将軍家後嗣無き場合のバックアッパーで、 北東側に邸のある一橋宗尹に求められたのは、一橋宗尹自身が武芸に秀でていた事もあって、将軍家を難事より守る事だったのですか。 ありがとうございました。

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  • ithi
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回答No.1

aydjtw さん、こんばんは。 そこまで、ちゃんとした意見があったとは思いませんが、広い場所が一橋御門内にあるので、ここに屋敷を作ったというのが真相でしょう。  

noname#224079
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

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