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徳川吉宗が将軍就任後に誕生し元服できた吉宗の子は?

徳川吉宗の将軍就任後に、無事に誕生・出生し、ある程度まで育つ事ができた徳川吉宗の子供は、徳川(一橋)宗尹だけでしょうか? 徳川吉宗が将軍に就任した後に、無事に誕生・出生し、ある程度まで育つ事ができた徳川吉宗の子供は、後に一橋徳川家の祖となる徳川宗尹だけなのかどうかを教えてください。

noname#235016
noname#235016
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  • bakansky
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回答No.1

吉宗の将軍就任は享保元年 (1716) ですが、その年に次男の宗武が生まれています。ただし、吉宗の将軍就任の数か月前なので、長男の家重とこの人はご呈示の条件からはずれます。側室の梅の産んだ三男の源蔵は早世されたようで、この方も除外。宗尹は吉宗が将軍位を得てから数年後に生まれた方ですね (この方を産んだのも側室の梅)。他に側室の久免の産んだ芳姫という女子があり、他は養子であるとのことです。ということは、男子に限れば、ご質問の条件に適う方は、ご指摘のとおりで 徳川宗尹だけ ということになろうかと思います。

noname#235016
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 男子に限れば、徳川宗尹だけ でよいのですね。 (↓)このページによれば、芳姫(正雲院)も夭折してしまったみたいですね。 覚樹院 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%A8%B9%E9%99%A2 紀州藩士稲葉定清の娘として生まれる。吉宗の紀州藩主時代からの側室であるお梅の方、お古牟の方が立て続けに亡くなると、和歌山城で吉宗の生母である浄円院の世話をしていた久免が側室として迎えられた。 吉宗が将軍となって後、享保6年(1721年)に芳姫(正雲院)を出産するが、翌享保7年(1722年)に夭折した。寛延4年(1751年)、吉宗の没後に出家し、覚樹院と号する。 安永6年(1777年)11月28日、81歳で死去する(82歳であったという説もある)。戒名は覚樹院曜譽光記智仙大禅定尼、後に教樹院曜譽光託智仙大禅定尼と改めた。墓所は小石川伝通院。

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