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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう)

イエスの哲学――存在論と宗教の卒業――

このQ&Aのポイント
  • イエスの哲学は《存在》論であり、宗教を卒業することを提唱しています。
  • アブラハムやモーセ、イザヤなどの先人たちの存在論の系譜を引き継ぎ、実現を待つと述べています。
  • イエスの存在論は彼自身の生涯や死後の信仰者たちの言動を通じて実証されることを伝えられています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ponyo7
  • ベストアンサー率18% (130/712)
回答No.17

<ご批判をどうぞ 批判ではありませんが、神もイエスも知識ではなく感じるものです。 知識に偏向してまうと知識論争になってしまい、神を感じることがなくなってきます。 また、私は自分を聖人、あるいは神の使いという人を信用していません。 本当に聖なる領域に近い人は私の知っている人では2人だけです。 一人はキリスト教で一人は神道です。共通しているのは目が青みがかっているということです。では外人が全てそうかといわれると反論できませんが・・・。 科学では説明できないことも多く経験し、科学で説明できないことがこの世にはあると思っています。 手を頬に近づけると温かいです。温かい、つまり放熱です。熱はエネルギーです。もしこのエネルギーを増幅出来れば大きな力となります。これがイエスの力となって聖書に記されています。 神を知らない者にとっては、西行法師の「何人のおわしますか知らねどもありがたさに涙あふるる」の心境です。 また神は雄弁ではありません。ほとんど語らないと言ってもいいでしょう。 また神は無であり、神と接触できるのは我々が生きている間だけです。生きている間しか神と接触できません。 神と話すのではなく神を感じるのです。言葉で説明できるものではありません。 あなたは私なんかよりよほど真剣に求道されている方かと存じますが、知識だけでなく感じるようにしてください。体が温かくなり、涙が自然と流れてくるようになります。 もうあなたと会話することもありませんが、レベルが違うと無知として扱われるかもわかりませんがどうかあなたに祝福ありますように・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  もう一回 そうですね。  まづは ご回答をありがとうございます。  あめんほてぷ氏のほかに やっとまともなご投稿を得ました。  そうですね。  まづは わたしは いぢわる人間ですので エラーの訂正です。  ○ なにごとの おはしますかは 知らねども    かたじけなさに なみだこぼるる  ですね。  汲めども尽きぬ泉の水の湧くごとく あなたの心に 乾いたと思ったら いつもみづみづしさがあふれ出て来ます。  それゆえに われら《神を感じる》やからは 神について なるべく合理的に説明するつとめがある。わたしは こう思っています。  一隅を照らすといった・ひとつのつとめは なるほど 思いやりや助け合いをつうじて そのあたたかさに触れ得るならば 光を見たと感じることが出来ます。  あるいは 医学といった科学のちからで なお光を見させることが出来るようになって来ています。  これらは ただし 人間の能力と努力とで見ることのできるひかりです。  ところが さきほど泉の水の湧くごとくと言いましたが ひとの心を照らすというよりは おのれの心の中でそのこころの燈心がともされるということ。あかあかと ただし燠の火のように ゆっくりとチロチロといった風に燃えるともしび。  神を感じるというのは そういうあり方の成ることを言うのではありませんか?  なぜなら 科学やひとの思いやりといった人間のチカラだけでは そうは成らないと考えられるからです。  もし:  ★ 体が温かくな  ☆ っていらっしゃるということでしたら そのとき・そこから:  ★ 涙が自然と流れてくるようになります。  ☆ だけではなく・また 涙はこぼれるにまかせて そうではなくそのあなたの心のありさまを しっかりと言葉にしてひとに伝えるようにして欲しい。  これが わたしたちのつとめです。  神は 神そのものを:  ★ 言葉で説明できるものではありません。  ☆ ということでしょうが 神を感じるありさまについては 伝えることが出来るはずです。  ただ かたじけない ありがたい と言っているだけでは ダメです。  わたしは へそ曲がりですから   ★ 祝福  ☆ も要りません。こうやって《放火》のつとめをおこなっています。それだけです。

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その他の回答 (16)

回答No.6

Bragelonneさん こんにちは。 修行の途中で忙しく、回答は控えようと思っていましたが、一言、回答します。 Bragelonneの質問内容を読んでいると、bragelonneさんは「律法学者」ではないかと思うことがあります。 聖書の一字一句を解釈するとどうなるか。出エジプト記に下記のような一節があります。 死に値する罪 「女呪術師を生かしておいてはならない」 出エジプト記22章17節 この聖書に書かれた一節が、もとになり、中世の16世紀17世紀に「魔女狩り」が行われ、10万人から20万人の人が裁判にかけられ、4万人から6万人が処刑され、約8割は女性だったそうです。 17世紀にキリスト教のカトリックとプロテストにおける30年戦争(1618~1648)が起こりましたが、この戦争でドイツでは人口の4分の1から3分の1が失われたそうです。 キリスト教の神の真理が「愛」であるとしたら、上述のことは神が望んでいるところでしょうか? 私は、キリスト教がローマ帝国において国教となり、権力と結びついたことによる歴史の中の腐敗の出来事であると思います。 では、仏教はどうかと言えば、お釈迦様の入滅後、100年たらずで、戒律を重んじるか、どうかで、上座部(テーラヴァータ)と大衆部(マハーサンギカ)の「根本分裂」が起きています。 このような分裂はお釈迦様は望んだことでしょうか? この哲学カテゴリで指摘がありますが、イエスも仏陀も書物は一切残していません。 その考えを律法学者のような、真理ではなく権力に重きを置く人間により勝手解釈されると、上記のような事態がおきます。 Bragelonneさんも読まれたかもしれませんが、キリスト教の聖人アウグスティヌスは著書「キリスト教の教え」の第7章において「知恵」に至る「上昇の7段階」を説いています。 1) 神への畏れ 2) 敬虔 3) 知識(隣人愛の認識) 4) 正義 5) あわれみ(隣人愛による自己完成) 6) 目そのものを清める 7) 知恵 この7番目の「知恵」について、某大学の神学科の名誉教授に尋ねたところ、「神の知恵」と解釈できるのではないかとおっしゃっていました。 しかし、それでは、人間が神になるという、最も重い傲慢の罪を犯すことになるのではないか、聖書の福音書でイエスが、またパウロも度々、「完全なものになりなさい」と説いていますが、この「完全なもの」とは「神」ですか?と尋ねたところ、 イエスが説いているのは「愛において完全になりなさい」という意味だ、と教授してくださいました。 Bragelonneさんが、自身の哲学において、キリスト教や仏教を勝手解釈するのは、自由ですが、私は「愛」と「慈悲」は真理と思っています。Bragelonneさんが単に「知識」の受け売りする「律法学者」でなく「知恵」として昇華されることを望みます。 では、修行に戻ります。またいつか。

bragelonne
質問者

お礼

 宗教――つまりは オシヘつまりは 律法 そして律法主義――から卒業しようと言ってるんですよ。  よく読んでよ。  キリストを待望していた時代は オシヘを鵜呑みにする律法主義ではなかったと見るとしても アタマにキリストという概念を 絶対的な命題として持っていたかと思われます。(まぁ ダヰデ以降でしょうが)。  イエスがキリストとして登場したからには もうその《キリスト待望史観》は 要らなくなったわけです。  文字通り 宗教は 消えました。  (わづかに キリスト・イエスのことを伝えるという仕事はあった。だから パウロの言うには《宣教という愚かな手段》を用いて そのつとめは果たされた。それでもう 宗教は消えました。理論じょう)。  こういう見解です。  ご回答をありがとうございます。

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  • jnujun
  • ベストアンサー率8% (1/12)
回答No.5

という投稿は 寄せるにあたいしますか」←値するかどうか・・よりも 聖書は「比喩と喩えの」書物・・ 比喩を解読しないと解からない様になってるが あなたは 少しも解読出来ていない・・ これでは 話に ならない・・ アベルとカインの供え物の受け取り・・ノアの箱舟の意味・・アブラハムが 何故 息子を供え物にしなければならなかったのか?・・等・・・全て解き明かしてこそ 解かる書物です・・

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ 解かっているのなら その内容を説明し 批判すべきところは批判してください。  ってったって できるわけないのは 分かっている。  

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  • akiye2
  • ベストアンサー率27% (160/573)
回答No.4

質問者様も私も死ぬ日は遠くない。 実践もせずに、いつまで思考に留まっているのですか。 それとダヰデって誰。 キリストの死後二百年以上経ってできた福音書にこだわり過ぎ。 共観福音書の元となったQ資料が発見されれば状況は変わりますが。 死後五十年にはできていた使徒行伝やパウロの書簡のが、 キリストや教えに関して正確である。 以上

bragelonne
質問者

お礼

 で お考えの内容は?  ご回答をありがとうございます。

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  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.3

>中身としての説明がありません。  中身とは何の事ですか?  貴方の考えは仮定に基づいた空想ばかりで中身が無いので、中身としての説明など必要ないではありませんか。

bragelonne
質問者

補足

 それでは   おまえのかあちゃん でべそ!  のたぐいのののしりです。

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  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.2

 その様な考えは貴方の個人的な仮定に基づいた考えに過ぎず、万人に当てはまる様なものでは全くない。  それ故、その結論も正しいものという事は永遠に出来はしない。  従って、貴方のその考えは只の妄想と同レベルのものに過ぎないのであるから、その様な事に関する話を続ける事は無駄以外のなものでもない。  貴方はその事を自覚し、その様な無駄話から卒業しよう。

bragelonne
質問者

補足

 中身としての説明がありません。  無駄な投稿は 遠慮なさってください。

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  • jnujun
  • ベストアンサー率8% (1/12)
回答No.1

ご批判をどうぞ」←批判はありません・・ あなたの思う様に・・ あなたが思ってる事はあなたのもの・・ イエスも アブラハムもヤコブもイサクも モーセも・・・そして 神も・・誰もあなたの思う事を咎めない・・

bragelonne
質問者

お礼

 という投稿は 寄せるにあたいしますか?

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    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

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     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には   ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~~~~~~~~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。      *(註) 《聖書に書いてあるとおり》 について次のようであるようです。:   ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。   ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~   わたしは乾いている地に水を注ぎ   乾いた土地に流れを与える。   あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ   あなたの末にわたしの祝福を与える。   ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるというだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての研究やその成果 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じ普遍神であるということ。そのときには 信仰として《非思考の庭》なるかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  (γ) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  ・普遍神とわれとの関係なる信仰の類型としては:    梵我一如ないし霊霊一如(これが 非思考の庭)すなわち     梵:ブラフマン神(神の霊):マクロコスモス     我:アートマン(霊我):ミクロコスモス  ・宗教の揚棄・解体については:        神道方式すなわち     ブラフマンやヤハヱ―やアッラーフや     アミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ(大日如来)や      また《無い神》や何やかやの名にいっさいこだわらない。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

  • 宗教の歴史

    世界の宗教の発生の歴史や相違について、宗教学の専門書でなく、 判り易い本がありましたら教えて下さい。 「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教」と「仏教・ヒンズー教」の どちらか一方のグループだけについて書かれた本でも構いません。 一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神で、宗教の違いは、 預言者の違い(モーセ・イエス・ムハマンド)と聞いています。 イスラム教の5大預言者はモーセ・ノア・アブラハム・イエス・ムハマンドで、 悪魔サタンはイスラム教でシャイターンとか、 仏教のお釈迦様はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身とか。 どうぞ宜しくお願い致します。

  • イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も・・・

     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。

  • キリスト史観は 終えられて あたらしい世界へと。

     1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。   ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~    はじめに ことばがあった。   ことばは かみとともにあった。   ことばは かみであった。   このことばは はじめにかみとともにあった。   すべてのものは ことばによって成った。   成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。   ことばの内に いのちがあった。   いのちは 人を照らすひかりであった。   ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。   くらやみは ひかりをとらえ得なかった。   ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~   16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。    あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。   17:はっきり言っておく。    多くの預言者や正しい人たちは、    あなたがたが見ているものを見たかったが、    見ることができず、    あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、    聞けなかったのである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    2. つまり ヨハネ福音のほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  3. これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハム(=《預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。    4. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちでここでは扱います。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たと見るひとつの主題です。  5. すなわち キリスト・イエスを俟ちのぞみつづけた歴史。これをメシアを待望するという恰好のキリスト史観と名づけます。    6. さて そのアブラハムからの二千年ほどの歴史は 別の質問で取り上げていますので措いておきますが たとえばイエスの時代において ペテロを初めとする弟子たちも イエスがメシアだとは分からなかった。という問題があります。  7. イエスが十字架上に去って行ったあと初めて かれがキリスト・イエスだと分かった。イエスが捕らえられたときには 自分たちは逃げ去ったほどでした。  8. 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。口では言っていたが 《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。この問題です。  9. それは 次の聖句を引き合いに出して説明されるようです。   ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~   21: 更に、主は言われた。     「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。     あなたはその岩のそばに立ちなさい。   22: わが栄光が通り過ぎるとき、     わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、     わたしが通り過ぎるまで、     わたしの手であなたを覆う。   23: わたしが手を離すとき、     あなたはわたしの後ろを見るが、     わたしの顔は見えない。」   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. つまり 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――神なる真理そのもの――》は 見えない。と。      11. でも キリスト史観は 成就した。と――言うなれば《ことばの民》なる民族にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移するというかのように――捉えられているものと考えられます。    12. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  13. ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?   13-1. たぶん 辻褄は合っている。か。   13-2. 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとな        まれたと言われても こたえようがない。か。  14. といった問題もさることながら――つまり 一応そう触れておいた上で―― ここでは このキリスト史観について それが成就した途端にもうその使命を終えたという見方を持ちます。  15. そうして そのことによって 世界のすべての人びとにとって あたらしい世界を用意した。と考えます。キリスト史観がです。  16. あたらしい世界とは 何か?   17. あえてこの質問ではたたき台を必ずしも用意せず みなさんからいろんな見解をお聞きしたい。否定的な見解もありましょうが どうでしょう?  18. 質問者のひとつの焦点は キリストの背面を人間は見ることが出来たとするのならば そのような《神のうしろ姿》とは どういうことか? です。  19. 神の正面の姿を見ることができる(出来た)と説くシュウキョウの問題もあるかと思いますが・そして質問者としてはそういうふざけた自己表現はもう論外としたいと考えていますが いづれにしましても どうでしょうか?

  • 宗教学に詳しい方おしえてくだい。

    宗教学に詳しい方おしえてくだい。 モーセの十戒に、唯一神であること、偶像崇拝禁止などが含まれています。モーセはイスラエルの民を引き連れ、エジプトを脱出し、新たに十戒を設けたと思うのですが、多神教の教義の問題点(多数の神々、偶像崇拝)を考慮した結果に思われます。 (1) 多神教においての多数の神々を崇拝する事においての問題点はなんですか? (2) 偶像崇拝を禁止した理由はなんですか? (3) その様な記述はありませんか?また、宗教学者の見解はありませんか? また、創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されていますが、 (4) アブラハムの時代の教義(古代イスラエルの民)には既に偶像崇拝禁止、一神教の概念があったのでしょうか? (5) それとも創世記の内容自体、モーセ以降の時代の人間が、先代から聞いてきた内容を踏まえ、旧約聖書に織り込んだのでしょうか ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるいわゆる聖典の民は、いずれも唯一神がアブラハムを人類救済のために選んだ預言者として尊敬し、祝福する傾向が強いとウィキペディアにありますが、 要約しますと (6) モーセが、何故、唯一神、偶像崇拝を禁止にしたのか・・・その理由 (7) アブラハムの教義には、既に、唯一神、偶像崇拝禁止の概念があったのか (8) アブラハムの生まれた時代には、その周辺の教義は主に何だったのか 以上、宜しくお願い致します。

  • なぜ、イエスは神なの!?

    今、キリストについて学んでいます。 神がいて、神を人間と似たてイエスという人間の身体として他の人間に神の愛をつたえたのですよね? しかし、わからないことがあります。 どうしてイエスは‘私たちの罪のために十字架に担がれ殺されてしまった‘のですか?? これが‘私たちのに対する愛とするならばなぜ殺されることが愛なんですか??‘イエスは神なんですか??‘