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徳川家康の大坂夏の陣での討ち死に説の真相
大阪府堺市の南宋寺というお寺には、「徳川家康が大阪夏の陣で討ち死にした。」という話が伝わっているそうです。 そこで疑問に思ったのですが、 今までに、南宋寺以外の場所での徳川家康についての伝わっている伝説等で、徳川家康が大阪夏の陣で討ち死にした、という話を聞いた事がありません。 南宋寺以外の場所に伝わっている話等で、徳川家康が大阪夏の陣で討ち死にした、という伝説等はあるのでしょうか?
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E5%BD%B1%E6%AD%A6%E8%80%85%E8%AA%AC に、徳川秀吉の影武者説というのがいろいろ載っているが、夏の陣では、伝説的なものとしては、南宋寺説ぐらいだろうね。真田幸村に追われ、駕籠で逃げるところを後藤基次にやるで突き刺され、南宋寺で死んだと。南宋寺には家康の墓があるとされるため、南宋寺に伝わる伝説となってるだけです。 最も有名なのは、今川義元が死んですぐに死んでしまい、入れ替わったという説だけど。
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- tknkk7
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有ります”影武者複数いられた伝説が、無数です。真実は闇でしょう。・・・
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御回答ありがとうございました。
- tzd78886
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ドラマになったものとしては、 「関ヶ原の戦いの時に家康は討ち死にし、影武者と入れ替わった」というのがあります。それまで家康の側室にはある程度の年齢が行った女性が多かったのに対し、その後は急に若い女性を増やしたなど女性の好みが変わったというのが理由だそうです。この戦い後の各武将の報酬などの決定に時間がかかったのはそのためだという説もあります。 逆に、関ケ原の戦いに赴く途中に秀忠が真田親子との戦いに手小づり、間に合わなかったことは知られていますが、実は戦死して双子の弟と入れ替わったという説もあります。それまで温厚な性格だった秀忠がその後は急に強攻策をとるようになり、遂には娘の嫁ぎ先である豊臣家を滅ぼしてしまったのがその理由だそうです。
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御回答ありがとうございました。 もし、関ヶ原の戦いで徳川家康が討ち死にしていたとしたら、 義直・頼宣・頼房は誰の息子なのでしょうか? 特に、頼宣の孫は後に8代将軍になっています。 8代以降の将軍は、家康の影武者の子孫なのでしょうか? ありがとうございました。
お礼
御回答ありがとうございました。 やはり、南宋寺だけで、他の場所にはそういう話は伝わっていないのですね。 南宋寺以外にそういう話が伝わっていないという事は、 徳川家康は大阪夏の陣で討ち死にしていないと思います。 ありがとうございました。