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陸蒸気に乗った女性客は。

Kittynoteの回答

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回答No.5

またまた断片情報ですが、二つ追加です。 当初、津田梅子氏は候補に有りましたが、仮開業前の渡米ゆえ、 除外したのが間違いのもととの反省から、 改めて編者タイトルに惑わされず、明治六年の見直しをしました。 〇『新聞集成明治編年史.第二卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940』 ・明治六年二月(皇紀二五三三/西曆一八七三) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/31 <31/317>(13頁2-5段目) 〔二・一八、東京日日〕府下下谷池の端七軒町林某なる者、妻子を伴ひ、 本月二日午後第五時汽車に乘らんとして、新橋ステーシヨンに至る、 時既に發車の期也、札を求めて遽しく神奈川下等の室に入たり。 然るに二才六ヶ月の小兒見へず、あはやと云へる間に走車鳥の翔るがごとし。 車中の母姉涕泣燃るがごとし、林氏之を説諭し、一息間にして品川に着し、 下乘してステーシヨンの官員に就て、前顯を告げ、其所置を請ふ。 官員之を諾ひ、衆員爲に盡力し、直に電線を以て新橋に通ず。新橋此信を得 て左右を尋ね、遂に番小屋に於て之を見當り、其報一瞬間に品川へ通ず。 其父母手の舞、足の踏所を不知、立て次車の至るを待のみ。 然るに次車至れば靜岡縣の士族寺田某、小兒を介抱し來つて林氏に授く、 親子再生に逢ふの歡びを爲せりと。…(後略)… ・明治六年六月(皇紀二五三三/西曆一八七三) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/51 <51/317>(52頁3-4段目) 〔六・─、新聞雜誌一〇四〕頃日橫濱ヨリ一婦人小兒ヲ寢サセ、 蒸氣車ニ乘テ東京品川質渡世三浦屋方エ來リ、 事調フテ歸濱セルニ漸ク二時間ヲ過ギズ、小兒未ダ目ヲ覺サズト云。 No.1-5投稿で ・明治4年11月10日、品川・横浜駅間乗車、女子留学生五人(岩倉視察団)。 ・明治5年11-12月~明治6年1月頃、?・新橋駅間乗車、古市静子・本田つね。 ・明治6年2月2日、新橋午後5時発・品川駅間、林氏、妻子(母・姉)、小児。 ・明治6年月日不詳、横浜・新橋駅間乗車、国司チカ等工女一行(30名?)。 ・明治6年5-6月頃、横浜・品川駅間往復、一婦人。 ・明治6年12月17-18日、新橋・横浜駅間往復、両陛下・高倉壽子以下六名。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 本来質問者の私が、『新聞集成明治編年史』を丹念に調べなければならないのですが、 Kittynote様が調べて下さって、真にありがとうございます。 私も読み始めてはいたのですが、次々と興味ある記事が続出するので、全く進みません。 今回の情報は、私が期待していたズバリの内容でした。 有名人は記録に残りますが、一般人は、個人の日記でも世に出ない限り、汽車に乗ったというようなことは、記録の対象になりません。 年間140万人の利用者があったわけですから、少なく見積もっても半数以上は一般乗客だと思います。 「府下下谷池の端七軒町林某なる者、妻子を伴ひ…」の、妻子を連れての汽車の旅?用事?は貴重な例です。 見出しが「汽車よりも早い電信のお蔭で 瞬時にして迷子が戻る文明の難有さ」ですから、電信の記事だと思ってしまうところです。 下谷池の端七軒町を調べると、幸い、大正2年の詳細な地図を見つけました。 ちょっと年月が離れていますが、「林善○郎」という人がいました。 ただ、それだけですが、実感しました。 「頃日橫濱ヨリ一婦人小兒ヲ寢サセ」。 「頃日」「婦人」という言葉から明治だな、と感じました。 大店のおかみさんが急な商用で、という感じです。 いろんな人がいろんな目的で利用していたことがよく分かりました。 枝葉末節にこだわった質問でしたが、開業当時の客車内部の様子、両陛下の横須賀造船所行幸、米国への女子留学生、富岡製糸場ほか、広く、深く明治初期の歴史を復習することができました。 有意義な多くの資料を教えてくださったので、暫くは再読します。

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