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陸蒸気に乗った女性客は。

Kittynoteの回答

  • Kittynote
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回答No.4

断片情報で度々失礼致しますm(_"_)m 下記によれば、人数と日付は?ですが、富岡製糸場の工女になるため、 山口県の国司チカなど一行(30名?)は、横浜から 「前年開通した汽車で東京新橋に着し」とのことで、明治六年の乗車。 ・『産業研究 47(1)/高崎経済大学/2011-09-30』(27-44頁) 〇「昭憲皇太后と富岡製糸工女のエートス/山崎益吉」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110009326809 <12/18>(38頁2-9行目) …山口県の国司チカは「第一回の三十名は多く士族の娘で、 17才から30才までで…、一同は…山口に集まり…三田尻港まで取り揃って 参り…蒸気船琴平丸で出発…神戸で一泊、米国船ニューヨーク丸に便乗し、 横浜へ参りました。私達一行に井上馨の姪二人がいられましたので、 横浜に着いたら井上馨様が出迎えられました。 前年開通した汽車で東京新橋に着し、日本橋馬喰町山代屋に宿をとりました。 それから数日高輪毛利邸や東京見物に費し、上州富岡に参りました。 その時は付添人などを加え40人が40両の人力車に乗り上州街道を春風の中を 進んだので沿道のものはみな外に出てきて、私達一行を珍しげにみていまし た」[※29]。… ※29『富岡製糸場誌 上/富岡製糸場誌編さん委員会/昭和52年』(326頁)。 これで4回目の投稿になりますが、私なりに判った事は下記程度に過ぎず、 ・明治4年11月10日、品川・横浜駅間乗車、女子留学生五人(岩倉視察団)。 ・明治5年11-12月~明治6年1月頃、?・新橋駅間乗車、古市静子・本田つね。 ・明治6年月日不詳、横浜・新橋駅間乗車、国司チカ等工女一行(30名?)。 ・明治6年12月17-18日、新橋・横浜駅間往復、両陛下・高倉壽子以下六名。 明治4-6年の間では公用・団体利用以外では「古市静子・本田つね」のみ、 ほかに一般女性の姿が見つかりません(><) 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 「工女」ですか!! 教科書には出てこない用語ですね。 私は、初耳です。 しかし、「こうじょ」で変換すれば出てきました。 官営富岡製糸場については、建物の歴史的価値や保存された機械類のことばかり注目されてきたようですが、工女たちには気づきませんでした。 工女たちこそ主役じゃないですか! 野麦峠の「女工哀史」と同じだろうと言う先入観がありました。反省。 以下、独り言ですから無視してください。(次々、疑問が出てくるのです) なぜ、そんな遠い山口県から応募してきたのだろう? 汽車に乗ったり人力車に乗ったりした費用は、誰が負担したのだろう? 創業時、何人くらいの工女がいて、どんな方法で募集し、どこから応募してきたのだろう? 無試験で採用されたみたいですが、“成り手”がいなかったのだろうか? 本題に戻って、明治6年に工女たちが汽車を利用したということ、いろんな人びとが、いろんな理由で利用したということが分かりました。 貴重な事実です。感謝申し上げます。

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