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天災、自然災害。被災者たちの再起。

今回の熊本地震を含めて、近年多発する自然災害は、規模や復旧期間を含めて年々大きなものとなっている印象があります。 東日本大震災は、想定をはるかに超えた津波による被害は想像を絶し、原発事故による放射能汚染は住民から全てを奪い去ってしまいました。 こうした状況を報道で知るたびに思うことは、格差の問題です。 多くの人たちを困難に追い込む自然災害という避けられない事態に際して、その後の問題として、個人として初めから再起可能な層と再起不能に陥る層とに完全に分離されてしまうのではないだろうかという問題です。 自由主義の中で、能力とは全く別の問題として発生する自然災害に対する対応能力に、異常なほどの差が生じる可能性がある現在の格差をどのようにお考えでしょうか? 今も揺れ続ける被災者の心の中にも、既に再起の分離が進んでいる筈ですが。

みんなの回答

noname#224207
noname#224207
回答No.3

災害という言葉自体が人間社会が被災したときにだけ使われている、ということに御注意下さい。 温暖化で北極海が災害を受けたとは表現されません。 地震や津波などの自然災害の被災には、物質的被災と社会的被災、心的被災の三つに分けて考える必要があります。 ご指摘の問題も単に経済的な物質的被災とだけ受け取りますと答えが迷走してしまいます。 先般の東北地方での地震と津波の災害からの復旧で問題になっているのが社会的な被災です。 根本的には、日本の都市や村落などの共同体の在り方です。 従来は個人→家→村落→都道府県→国 というパターンで考えることが可能でした。 個人が立ち直り、家(家族。家屋)を建て直せば、村落が復帰しやがて都道府県や国の復旧となりましたが、最近は逆のパターンになってきてしまっているということです。 現在は、生活を支えるインフラ(水、電気、道路etc)が整備され、商店、学校、医院などが整備されないと村落が復帰しません。(住人が復帰しません) 住人が復帰しない以上は個々の家も復帰しません。 家が復帰しなければ、個人が受けた心的被災がいやされません。 コンビニやスーパーが復帰するのは、チエーンの元締(中央)の意向(経営方針)に依存します。 学校、医院の場合は、教職員、医師、看護師を復帰させる必要があります。 これには都道府県や国の施政が深く関わってきます。 つまり、現代社会は社会的な被災から復帰するのは、被災地のことだけを解決するだけでは解決ができない事態になっているということです。 被災地で六次産業などを起こしても、たちまち全国、場合によっては世界中の市場競争にさらされます。 これをバックアップするには行政が関与する必要があります。 行政は金を投入することになりますが、公金=税を投入するということです。 現在の都道府県や市町村は地方交付税に依存しています。 地方交付税は国庫からの支給ですので全国の納税者の了解が必要となります。 特定の地域に税を投入するのか、であるなら、少子高齢化による全国の限界集落をどうするのか、保育園はどうするのか、尖閣諸島問題など国防はどうするのか、という問題が必然的に起きてきます。 特に地域への税の投入には、限界集落と比較され易く、被災した方が得だ、という理論に紛れ込んでしまいます。 つまり、ご指摘の問題は、従来パターンで考えて個々の経済処置だけでは問題は解決しないということです。 もしご質問の点を解決するのであれば、日本の社会システムを変更する必要がある、ということです。 現状のままである以上は、自由主義経済ですので淘汰が起きて格差が生じることを容認せざるを得ません。 蛇足 江戸時代を含めそれ以前の時代は、村落という共同社会が基本となっていました。 課税も村落単位で、個人に課税するようになったのは明治以降です。 土地の所有権も個人の所有権と村落などの共同体として所有権の二重の所有権がありました。 入会地などがその典型です。 田畑の売却も共同体の了解が必要でした。 現在でも山村地帯へ行くとこの入会地の概念は生きています。 江戸、大阪などの都市部でも基本的には変わりがありませんでした。 このような社会を復帰させるか、という問題が生じます。 プライバシーの尊重を犠牲にするのか、という問題を内包しています。

nekosuke16
質問者

お礼

村社会や共同体は、今も名残こそあれ、昔のシステムです。また、一方で広範囲に及ぶ災害は、地域社会の基盤としてのあらゆるインフラにダメージを与え、個人の力量だけでは生活再建には至らないということも事実です。 ただ、そうした全体像ではなくて、低所得者や生活困窮者などにとっては、もっと単純に、例えば、ローンを抱えた車が水没しただけで、生活が一変してしまうほどの影響を受けてしまう可能性があるということです。 低所得者には、経済的な余力がありません。 彼らは生活再建の遥か手前に存在しているということです。 たった一度の大災害の前に、全てを失ってしまうということです。 もう少しの余力が必要だと思いますが。 どうも、ご丁寧にありがとうございました。

noname#235638
noname#235638
回答No.2

おいおいflorioよ、それは違うぞ!な回答をさせてください。 年齢・家族構成が違います。 年をとればとるほど、やっぱりモチベーションが下がります。 災害は、誰にでも平等です。 しかし、それを受ける私たちは老若男女。 個人として初めから再起可能な層、もいれば 家族としての層、組織の一員としての層・その組織も大小さまざま。 私たちは、災害ありきで生きていません。 もちろん心の準備は別です。 災害の最大の不平等は、その起きる時期。

nekosuke16
質問者

お礼

本来、災害と格差問題は全く別な問題です。 ただ、時と所を選ばずに突然訪れるのが、自然災害です。 そして、自然災害は、その地域に、ある意味平等に被害をもたらします。 地震による家屋の倒壊。津波や河川の氾濫による家屋の消失。また、広範囲に及ぶ被害地域に立ち上る火災の傷跡。 ある日、突然訪れる大規模な自然災害に対する個人の対応力には、限界があります。 ただ、格差社会の中で、日常的に余力を残すことが儘ならない底辺の人々にとっては、一度の被災で全てを失ってしまう可能性が非常に大きい。 倒壊した家屋を自力で再建する傍らで、低所得者達は、行き場を完全に失ってしまう。 格差は資本主義社会では、当たり前のことです。しかし、現在のような極端な格差は、大規模な自然災害の前に、低所得者達に一切の為す術を与えない。災害は平等に訪れますが、再建は平等という訳にはいかない。 自然災害が格差をさらに助長する可能性を思うとき、もう少し底辺に寄り添う政策が必要と思いますが。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11129/34638)
回答No.1

諸外国に比べれば、日本ははるかにマシだと思います。アメリカなんかの場合だとニューオーリンズが大型台風カトリーナによって甚大な被害を被りましたが、「アメリカ人全体で支えよう」という動きにはなりませんでした。ニューオーリンズは南部で黒人が多くジャズや娯楽が盛んな街でもあったので、旧約聖書のソドムとゴモラになぞらえて「神の怒りに触れた自業自得」とするアメリカ人も少なくなかったのです。 「自由主義によって格差が生じる」ことに根本的な疑問符をつけるのであれば、社会主義国家にするしかないと思いますね。「金持ちと貧乏人に分かれるなら、全員貧乏人のほうがまだマシだ」とね。

nekosuke16
質問者

お礼

カトリーヌ台風でしたか?思い出しますね。 あのときのニューオリンズは、ジャズの故郷としても有名な街でしたが、たしかに完全に見捨てられましたね。 力のある者だけが許される世界、救われる世界があるのでしょうね。

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