- ベストアンサー
《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。
- 《主の家(キュリアコン > キルへ;チャーチ)》は 言わば――《主》が普遍神であるなら――全世界を言っている。そしてことさらそう言う(唱える)こともない。
- なぜなら 主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たちもいるのだから。
- 言わば《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。これを認めずばなるまいゆえ。
- みんなの回答 (40)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。私の一つ前の回答no.40について、お礼コメントにて、下から5行目に、単純に考えてもらってだいじょうぶだと思います。とあります。 ということは、質問者様は、私は難しく考えている。と思ってらっしゃいます。 誤解を解きたいです。私は意図して難しく考えているのでありません。精確に考えたいと思っていますし精確に考えたいという思いは変えられません。単純に考えられるかどうかは、質問次第なので、どうにもできません。 質問本文について、文脈、筋の通らない点を回答no.32にてひとつ。回答no.40にてひとつの合計2点指摘いたしました。通らないという点があることはわかっていただけたと思います。 1点づつならば、読者で個別訂正可能ですが、2点ありますと、全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正しなければなりません。全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正できるのは、質問者様だけです。 新しく読む人はみんな、《教会》は要らない。という件名の主張から、本文、39件の回答とお礼コメントを辿って、最後に問題は オシへにかかわる人びとの集まりにあります。それが 要らないと言っています。にたどり着くことになります。 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? みんなで考えやすくなると思います。
その他の回答 (39)
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>オシへ無しで(つまりは オシへをまなぶのは 趣味同好の集まりとしてのみに限定して) キョウカイをつづければいいぢゃないですか。 つまり、神についての概念が正しく伝わらなくなっても構わない、即ち、《普遍神とわれとの関係》が異なるそれぞれ「異なる神」を持てば良いという御考えなのですね。 それならば、そもそも神を《有る神》として受け容れる派の中ですら、 >互いに同じ普遍神にかかわると認め合って などいないのですから、 >《有る神》派と《無い神》派とが――互いに同じ普遍神にかかわると認め合っているからには―― 両派こそが互いに同じひとつの《集まり》のもとにある。 >《神を受け容れるか拒むか》で分かれたかたちをその一方の側の人びとの固有の集まりとしての教会〔が有るか無いか〕によって さらに現わすということは マチガヒだと考え などと言う考えなど元々成り立つ筈もありませんから、 >《教会》は要らない。 などという教会の要不要を問う考えを持つ事自体無用な話という事ですね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ つまり、神についての概念が正しく伝わらなくなっても構わない、即ち、《普遍神とわれとの関係》が異なるそれぞれ「異なる神」を持てば良いという御考えなのですね。 ☆ 誤解です。 問題は 初めに《オシヘは要らない〔人間および社会の段階ないし情況になった〕》という前提が来ます。 だったら 《神についての概念が正しく伝わ》る・伝わらないということは 問題にならないのです。(問題にする人がいても それは自由です。しかも 大勢に影響しません)。 ★ 《普遍神とわれとの関係》が異なるそれぞれ「異なる神」 ☆ だという判断を下すのは――自由ですが―― あなたの主観の問題です。大勢に影響しません。 《普遍神》に《異なる》という概念はありません。あり得ません。人間の主観によっては――表現の自由のもとにあるからには―― そう見る(つまり これとこれとは異なっているではないかと見る)向きが出て来ることは あり得ます。問題にはなりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~ >互いに同じ普遍神にかかわると認め合って などいない ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それは 人間としてのあなたの判断です。 《普遍神》は 人間の誰がみとめて誰がみとめないということがあっても 何の影響も受けません。 だれがその神をほめたたえようが誰がけなそうが 神は痛くも痒くもないのです。 あなたは 普遍神が嫌いだいやだと言っているだけのことです。ご自由に。 あとのご議論も けっきょく普遍神をみとめたくないと言っているだけのことです。 エレミヤ書=へブル書の《あたらしい契約》をないがしろにしている。だけのことです。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>今回の問題点も けっきょくはエレミヤ書31:31以降(それは へブル書8章に承け継がれている)をどう読んだか・つまりは その内容を受け取っているかどうか。ここに行き着くようです。 いいえ、エレミヤ書31には教会は要らないなどという事は一言も書かれておりませんので、本件とは全く関係の無い話に過ぎません。 >(あ) オシへは要らない。 という事であれば、この世には何故、異なる複数の宗教が存在するのでしょうか? 異なる宗教が存在しているという事一つを取って見ても、教えや教会が必要である事は明らかな事です。 前回の回答で私はこう書きました。 >地球世界が存在していさえすれば教会は要らないとでも仰るのですか? >それで誰が神が存在してるという事や、その神はどの様な神であるのかという事、聖書の内容、教義、各種儀式のやり方等々を伝えるのですか? >どこに神はどの様な神であるのかという事、聖書の内容、教義、各種儀式のやり方等々の記録を保存しておくのですか? >地球世界が存在しているだけでは、その宗教を知らない人間にその宗教が正しく伝わらない恐れが非常に高いのですから、教会は必要という事になります。 質問者様の話は、この事実を無視しているに過ぎません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 オシへ無しで(つまりは オシへをまなぶのは 趣味同好の集まりとしてのみに限定して) キョウカイをつづければいいぢゃないですか。 そして それぞれのオシへ如何にかかわらず 《神とわれとの関係》としては 世界の中で《梵我一如》の信仰類型ひとつしかないとすでに示しました。 ★ 質問者様の話は、この事実(* 引用を省略)を無視しているに過ぎません。 ☆ 好きな人たちが――まぁ 考古学においてでも――研究すればよいということです。 中で: ★ 地球世界が存在していさえすれば教会は要らないとでも仰るのですか? ☆ この問いには誤解があります。 《地球世界を神の家と呼ぶことに不都合はない。ただし ことさらそう唱えることもない》と言っているだけですから 話の筋が違っています。 チャーチと呼ぶ教会についてのあたらしい見解を述べています。 エクレシアという表現による教会は この話にはかかわっていません。 よく読んでくださいね。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>こちらの趣旨は こうです。: >○ 地球世界がそのまま神の家であるということは マチガヒではなく そう言ってもよい。しかもそれをことさら唱える必要もない。 >☆ これだけのことですが? 地球世界が存在していさえすれば教会は要らないとでも仰るのですか? それで誰が神が存在してるという事や、その神はどの様な神であるのかという事、聖書の内容、教義、各種儀式のやり方等々を伝えるのですか? どこに神はどの様な神であるのかという事、聖書の内容、教義、各種儀式のやり方等々の記録を保存しておくのですか? 地球世界が存在しているだけでは、その宗教を知らない人間にその宗教が正しく伝わらない恐れが非常に高いのですから、教会は必要という事になります。 キリスト教が解禁になった明治になって、海外の宣教師が日本にやって来た際に、日本のキリシタンに口伝で伝わっているキリスト教と、ヨーロッパの教会で記録に基づいて伝えられて来た本来のキリスト教の間に乖離があったため、日本のキリシタンが本来のキリスト教を拒否したのは有名な話です。 >★ 「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」が存在している事は厳然とした事実です。それを隠す必要は全くありません。 >☆ 隠すのではなく そうではなく両者は 《普遍神とわれとの関係》として その捉え方についての表現こそ違っていても まったく同じであると言っています。 「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」という相反する二者をもしも「まったく同じである」と言えるとすれば、「教会に行く者」と「教会に行かない者」もまた「まったく同じである」と言える事になりますから、同じである以上違いは無いと見做さねばなりませんので、教会の有無によって「教会に行く者」と「教会に行かない者」の違いが >さらに現わすということ になるとは言えません。 >☆ というふうにしか《普遍神〔とわれとの関係〕》の問題を捉えることが出来ないという問題だと思います。 それを仰るのなら、「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」の違いが教会の有無によって明らかになるというふうにしか捉えることが出来ないと考える事こそ問題だと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 あなたとはすでに――きちんと――話し合いを持ちましたね。 今回の問題点も けっきょくはエレミヤ書31:31以降(それは へブル書8章に承け継がれている)をどう読んだか・つまりは その内容を受け取っているかどうか。ここに行き着くようです。 (あ) オシへは要らない。ゆえに見方を替えて言いかえるなら 神は普遍神であることがそのまま潜在性から顕在した。 (い) 罪という罪はゆるされた。いわゆる原罪の問題だとすれば じんるいにとっての贖罪である。つまりは そこにおいて――イエス・キリストの十字架じょうの死による贖罪において―― 普遍神が指し示された。 この二点を言っているはずですが それを受け留めたかどうかに問題は帰着すると考えます。 つまりたとえば 同好の人びとがこれまでの教会にあつまってももちろん自由ですが それはあくまで《同好の士たちの趣味の話》に過ぎないということです。 《有る神》派と《無い神》派とが 普遍神のもとに同じ信仰類型を成すということも すでに示しました。 地球世界を《神の家》と呼んでも マチガヒではない と同時に ことさらそれを唱えることもない。なぜなら 普遍神であるのだから。――この問題も重ねて述べてあります。 ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~ もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の 余地はなかったでしょう。 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。 見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、 新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。 それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、 エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。 それらの日の後、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこれである ――と、主は言われる。 すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、 彼らの心にそれを書きつけよう。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 彼らはそれぞれ自分の同胞に、 それぞれ自分の兄弟に、 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり、 わたしは、彼らの不義を赦し、 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。 (エレミヤ書 31:31-34) 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言 されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。 ~~~~~~~~~~~~
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
いつも言いたがっているこの手の主張は理解できるけどね、古代の文明の遺跡を調査する時、最も重点的に調査されるのは神殿と信仰心の性質だ。このように社会を営むにあたってその社会の共通項として神殿なり祭壇なりが付いてくる。 この人間と名乗るに値する社会性と共存の精神の確立を無視して個人を主張したら、間違った結論だと思うよ。日本の哲学の伝統は人間の探究だから特にね。 神との和解という言葉の内容は、社会との和解かもしれないしね。 ポケモンたちは神社の祭壇としての機能が便利らしく、どこでもドア的な駅として現実との接点として活用しているよ。この事は別の話だけどね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 たとえばわたしの幼かったころは お寺の境内が――かなり広かったのですが――腕白坊主たちの遊び場でした。 木が植わっていたから ボール遊びのたぐいはあまりできなかったけれど 走り回ることも出来たし。 そういうコミュニティ―・センターではあった。ただし 子どものためのでした。 昔は昔。いまは今。あたらしくつくればよいのではないでしょうか? それに もうこれからは 宗旨も宗派も関係なくなります。仮りに宗教とその施設が残ったとしてもです。 コミュニティーセンターも 神社でなくても 社会としてのやしろでしょう。そういう役割りをになうようになるでしょう。 どうでしょうか。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
>☆ これは まさに《1》としての教会 すなわち《主の家(キュリアコン > その意味でのチャーチ》は ことさら唱えることもない。 >ということですから おっしゃるように《唱えてもよい》となります。 いいえ、良い事にはなりません。 その論理で言えば「『教会は必要不可欠である』とことさら唱えることもない」のですから、「教会は必要不可欠である」という事にもなります。 つまり、質問者様の1の論理は何らかの結論を出す際の根拠には全くならないという事です。 >《神を受け容れるか拒むか》で分かれたかたちをその一方の側の人びとの固有の集まりとしての教会〔が有るか無いか〕によって さらに現わすということは マチガヒだと考えます。 何も間違いではありません。「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」が存在している事は厳然とした事実です。それを隠す必要は全くありません。 また、教会の無い地域にも「神を受け容れている者」と「受け容れない者」の双方がいる事もまた事実なのですから、教会の存在が「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」を分けているという事にはなりません。 >教会員とその外の者とで あたかも神が違うと言っているようなものだからです。 「神を受け容れている者」の神と「神を受け容れない者」の神は当然異なっていますので、何の問題もありません。 >《有る神》派と《無い神》派とが――互いに同じ普遍神にかかわると認め合っているからには 《無い神》派は普遍神と認めてはいないのですから、《有る神》派が普遍神と見做している存在と、《無い神》派の言っている神とは別の存在であり、 >互いに同じ普遍神にかかわると認め合って などはいません。 >ここでの問題は 社会の基本としてのお話です。 いいえ、宗教は個人の自由に属する問題であって、「社会の基本としてのお話」などではありません。 従って、個人がどう考えるかが重要になります。 >すでに初めにいま上に述べた《普遍神とわれとの関係》についての基礎理論を共有して欲しい。という世界観のもんだいだと思います。 それは、質問者様の個人的な世界観に過ぎず、一般的なものとは言えませんから、共有する必要は御座いませんし、質問者様のお話は根拠も無く結論だけを出しているだけのものに過ぎませんので、神や教会に関する基礎理論どころか、理論と呼べる様なものですらありません。 >教会の外の人たちと自分たちとを最初に分離してしまってはならない。という条件がつくでしょうね。 教会の門は常に開かれていますから、条件を付けずとも、分離してしまう様な事には最初からなりません。 分離する事があるとすれば、その原因は教会の存在にあるのではなく、「神を受け容れている者」の中に「神の教えを受け入れていない者」が存在している事にあります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 1. その論理で言えば「『教会は必要不可欠である』とことさら唱えることもない」のですから、「教会は必要不可欠である」という事にもなります。 ☆ よく飲み込めないのですが こちらの趣旨は こうです。: ○ 地球世界がそのまま神の家であるということは マチガヒではなく そう言ってもよい。しかもそれをことさら唱える必要もない。 ☆ これだけのことですが? ★ 「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」が存在している事は厳然とした事実です。それを隠す必要は全くありません。 ☆ 隠すのではなく そうではなく両者は 《普遍神とわれとの関係》として その捉え方についての表現こそ違っていても まったく同じであると言っています。 ○ 神を《有る神》として受け容れる派 と 《無い神》として受け容れる派とですから。 ○ 《神などは信じない》というのは 《無い神を信じる》というのと同じです。 ○ 有る神も無い神もそれぞれともに普遍神のことを――人間の言葉で多様性のもとに――表わしています。 ☆☆【Q:《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 】~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9151492.html ○ 梵我一如なる類型。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《基本》について ★ 個人がどう考えるかが重要になります。 ★ 分離する事があるとすれば、その原因は教会の存在にあるのではなく、「神を受け容れている者」の中に「神の教えを受け入れていない者」が存在している事にあります。 ☆ というふうにしか《普遍神〔とわれとの関係〕》の問題を捉えることが出来ないという問題だと思います。 さきほどの質問の趣旨説明を参照してくださると有り難いです。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
1. >ことさらそう言う(唱える)こともない。 ということは、つまり、 >《教会》は要らない。 とも言っていないという事。 2. 拒む人にとっては、教会がいらないというだけの事に過ぎず、あった処で困る訳ではない。 そして、主なる神を――自由に自然に人間的に――受け入れる人たちもいる。 3. それは一部の「主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たち」の自由意思に基づく主張に過ぎず、「『主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たち』以外の人たち」にまで普遍的に成り立つ様な事実などではない。 4. 自治体には市役所などの様にその自治体を纏める仕事を行うための場所が必要となる。 5. 要るか要らないかは個人によって異なる事であり、精神的支柱として教会を必要としている人間もいる以上、 >《教会》は 要らない。 と言う事は出来ない。 6. 教会の中においても、 >おのおのわが心の深くそなわった庭である。それをとおして互いに通い合う という事は十分可能な事であり、教会はその妨げにはならない。 7. 実質的に教会はコミュニティーセンターの一種でもあると思いますが?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 1. >ことさらそう言う(唱える)こともない。 ということは、つまり、 >《教会》は要らない。 とも言っていないという事。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは まさに《1》としての教会 すなわち《主の家(キュリアコン > その意味でのチャーチ》は ことさら唱えることもない。 ――ということですから おっしゃるように《唱えてもよい》となります。 つまり これは 《全世界あるいは地球世界 としての〈主の家=教会〉》ならそう言ってもよい場合がある。ということです。 つまり その場合には 建物も何かの組織もいっさいない場合です。 したがってそうではなく 《民会としての・あるいは要するに町に建物を建て聖職者がその職務をそこでつとめるかたちの教会》は 要らない。と言っています。矛盾していないはずです。 ★ ~~~~~~~~~~ 2. 拒む人にとっては、教会がいらないというだけの事に過ぎず、あった処で困る訳ではない。 そして、主なる神を――自由に自然に人間的に――受け入れる人たちもいる。 ~~~~~~~~~~~ ☆ いえ。そうは成りません。なぜなら そのように《神を受け容れるか拒むか》で分かれたかたちをその一方の側の人びとの固有の集まりとしての教会〔が有るか無いか〕によって さらに現わすということは マチガヒだと考えます。 すなわち それだと 教会員とその外の者とで あたかも神が違うと言っているようなものだからです。 言いかえると 《教会》と言おうがコミュニティーセンタと言おうがその名前は別に考えるとしても 《有る神》派と《無い神》派とが――互いに同じ普遍神にかかわると認め合っているからには―― 両派こそが互いに同じひとつの《集まり》のもとにある。そういうかたちを基本として採っていることが 肝心である。のではないでしょうか? 個別に趣味として同好会などを持つのは これとは別の話です。 ですから ここでの問題は 社会の基本としてのお話です。 すなわち: ★ 3. 「『主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たち』以外の人たち」 ☆ というのは その《こばむ人たち》にとっての神と同じ神を受け容れている。ということです。 《有る》と表現するか《無い》と表わすか。それだけの違いだという基礎に立とうという趣旨です。 ちなみに 《有る神》派にしても その神の名を ヤハヱ―と言おうがブラフマンと呼ぼうがアッラーフと言おうがすべて 名前の違いだけであってすべては 同じひとつの普遍神である。という基礎のことです。 ★ 5. 精神的支柱として教会を必要としている人間 ☆ の方々も すでに初めにいま上に述べた《普遍神とわれとの関係》についての基礎理論を共有して欲しい。という世界観のもんだいだと思います。 (その上で 個別に同好会などとして違いを表現して行くことは 自由でありとうといことだと捉えられます)。 ★ 6. 教会はその妨げにはならない。 ☆ ようなかたち(および中身)というのは 教会の外の人たちと自分たちとを最初に分離してしまってはならない。という条件がつくでしょうね。 建物や聖職者の組織――あるいはオシへも問題になりましょうか――によって最初に 内と外とを分けてしまっては 大きな問題になるでしょうね。つまりは 自分たちは 普遍神ではなく 自分たちだけの狭い神を信奉していると無理を言っていることになるからです。 ★ 7. 実質的に教会はコミュニティーセンターの一種でもあると思いますが? ☆ その教会の内なる人たちにとっては 間違いなくそうなのでしょうね。
- akiye2
- ベストアンサー率27% (160/573)
精神世界の入り口としての教会は必要でしょう。 そこで徹底的に学び絶対は無いと気付く。 そして所属は別として、教会や教義に縛られない生き方を選択する。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 精神世界の入り口としての教会は必要でしょう。 ☆ 精神世界も身体世界(?)も その入り口は つねに身の周りの家族であり社会である。のではありませんか? 精神世界だけを取り出すというのも わたしにはしっくり行きません。 そうだとしたら おそらくそれは《あこがれ》のようなものではないか? わるく言えば おのれが天使にでもなった気分のことではないか。その気分を夢見ているのではないだろうかと。 ★ そこで徹底的に学び絶対は無いと気付く。 ☆ つまり 世の中にあって先輩・同僚そして後輩にもまなぶ。のは ふつうのことだと考えます。その世俗とそして〔もしそれがあるとすればその〕精神世界とは つねに――つねにです つねに――共にあると思うからです。決して別々のものではないのではないかと。 《伝統》たる教会があるからこそ 《聖と俗 浄と穢 精神と肉体》といった二項を――おそらく わざと――分離させさらには互いに対立するものとして人びとは捉えなければならなかった。のではないのでしょうか? マチガヒです。と断言します。 ★ そして所属は別として、教会や教義に縛られない生き方を選択する。 ☆ ですよね? つまり 《オシヘが 善良な人びとを縛って来た》のですよね? 反省・ざんげすべきなのではないでしょうか? 聖職者たちがです。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
いい考えです。おかげで僕がなぜ神社、お寺、教会に行かないのかわかりました。
お礼
あぁ それは それは。 誰にとってもまったく自由な《普遍神》 これを全世界に《押し売り》したいほどです。 ご回答をありがとうございます。
「教会は要らない」←・・の 意味を あなたが 間違えて捉えてるだけ・・
お礼
意味不明です。あしからず。 ご投稿をありがとうございます。
お礼
そうですか。 つまり 初めに《教会》というふうに 二重カッコ(ギュイメ)でくくりました。 これは オシへを信じなさいという問題にかかわっている従来の教会のことです。 そしてそのように宗教にかかわるかぎりで 教会という教会は 要らない。という意味でも言っています。 ややこしかったのは わたしが従来の教会には なつかしさを感じる人びとがいるのではないかと ふと思ったことにあります。 もしその郷愁の感じについて代わるものが必要だとするのならば ひとつに生活共同のコミュニティーセンターなどを代替施設としてくださいと言ったこと。 そしてさらにその郷愁感の部分では 心の奥の心としての庭が 人びとの集まりにとってのみなもとになるはずだとも言ったこと。 こういう入り組んだ言い方をしたことにややこしさがあったと思います。 宗教関係の教会はすべて 要らない。ということ。 そして 人びとのふつうの集まりとしてなら 代替施設は あたらしく用意すればよい。 これが 骨子でした。どうでしょう。 ★★(回答No.32) ~~~~~~~ 〔* 宗教関係の〕《教会》をとおして互いに通い合うのは おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。 おのおのわが心の深くそなわった庭(それ)をとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。 と続けて書きたかったのではないでしょうか? だとすると、質問者様の主張の筋がとおって、私は気持ちがいいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃるとおりです。わかっていただけると思って 別様に説明を重ねました。 (あ) 宗教関係の教会は だめ。 (い) そのほかの普通の集まりなら OK。 こういった内容です。宗教関係のそれには 《教会》としてカッコをつけたほうがよいですかね。 ★★(回答No.40) 《教会》と教会は要らない。という主張はもうすでに、質問本文で7段落に分けて書かれています。しかしながら、上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなるように、書き直すことはできませんか? ☆ たしかに オシへは要らないのですから 名前をつけるにも《教》の字は要らないですね。 もし ★ 《教会》と教会は要らなくなる ☆ という言い方をしたときには どちらも《オシへをあたかも神のごとく戴きこれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説く宗教の信徒たちの集まり》であり 前者の《教会》は キリスト教関係の従来のそれです。後者の 教会 は それ以外にも宗教関係の信徒の集まりについて――いくら新しいものであっても 宗教関係であるならば――これも ダメと言っているかたちです。 こういうふうに整理してみました。 ★ 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? / みんなで考えやすくなると思います。 ☆ これは そうですね。つまり この質問にかんしましては ここまでなんです。教会についてだけ 問題にしました。 広く宗教あるいは聖書についてなら なおまだいくつか問題点はあると思っています。 そしてその内いくらかの主題については かがくすきさんとのやり取りの中で触れているかと思います。 ただ ひとつのスレッドにはひとつの主題というふうにしようかと思いますので 取りあえず拡散しないかたちにしたいと思うのですが いかがでしょう。 (う) とにかく 誰もが・いつでも(ほとんど24時間)気軽に自由に入って行けて 集まって話ができたり 自由に時間を過ごしたりすることが出来る家が 町内にひとつくらいあるといいんではないでしょうか? ご回答をありがとうございます。