《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。

このQ&Aのポイント
  • 《主の家(キュリアコン > キルへ;チャーチ)》は 言わば――《主》が普遍神であるなら――全世界を言っている。そしてことさらそう言う(唱える)こともない。
  • なぜなら 主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たちもいるのだから。
  • 言わば《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。これを認めずばなるまいゆえ。
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《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。

 1. 《主の家(キュリアコン > キルへ;チャーチ)》は 言わば――《主》が普遍神であるなら――全世界を言っている。そしてことさらそう言う(唱える)こともない。  2. なぜなら 主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たちもいるのだから。  3. 言わば《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。これを認めずばなるまいゆえ。  4. 《民会(エクレシア > エグリーズ;イグレシア;キエーザ)》は そのまま《世界たるチャーチ(または 〈無いチャーチ〉)》の支所である。一般に自治体のことである。そのまた分室である。  5. 《教会》は 要らない。――表現の自由また結社の自由のもとに存続したとしても。  6. 《教会》とは おのおのわが心の深くそなわった庭である。それをとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。  7. 教会は要らない。一般のコミュニティーセンターだけでよい。(図書館・文化芸術センターをもつけて)。  みなさん どんなもんでしょう?

質問者が選んだベストアンサー

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  • sunabo
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回答No.41

こんにちは。私の一つ前の回答no.40について、お礼コメントにて、下から5行目に、単純に考えてもらってだいじょうぶだと思います。とあります。 ということは、質問者様は、私は難しく考えている。と思ってらっしゃいます。 誤解を解きたいです。私は意図して難しく考えているのでありません。精確に考えたいと思っていますし精確に考えたいという思いは変えられません。単純に考えられるかどうかは、質問次第なので、どうにもできません。 質問本文について、文脈、筋の通らない点を回答no.32にてひとつ。回答no.40にてひとつの合計2点指摘いたしました。通らないという点があることはわかっていただけたと思います。 1点づつならば、読者で個別訂正可能ですが、2点ありますと、全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正しなければなりません。全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正できるのは、質問者様だけです。 新しく読む人はみんな、《教会》は要らない。という件名の主張から、本文、39件の回答とお礼コメントを辿って、最後に問題は オシへにかかわる人びとの集まりにあります。それが 要らないと言っています。にたどり着くことになります。 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? みんなで考えやすくなると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  つまり 初めに《教会》というふうに 二重カッコ(ギュイメ)でくくりました。  これは オシへを信じなさいという問題にかかわっている従来の教会のことです。  そしてそのように宗教にかかわるかぎりで 教会という教会は 要らない。という意味でも言っています。  ややこしかったのは わたしが従来の教会には なつかしさを感じる人びとがいるのではないかと ふと思ったことにあります。  もしその郷愁の感じについて代わるものが必要だとするのならば ひとつに生活共同のコミュニティーセンターなどを代替施設としてくださいと言ったこと。  そしてさらにその郷愁感の部分では 心の奥の心としての庭が 人びとの集まりにとってのみなもとになるはずだとも言ったこと。  こういう入り組んだ言い方をしたことにややこしさがあったと思います。    宗教関係の教会はすべて 要らない。ということ。  そして 人びとのふつうの集まりとしてなら 代替施設は あたらしく用意すればよい。  これが 骨子でした。どうでしょう。  ★★(回答No.32) ~~~~~~~  〔* 宗教関係の〕《教会》をとおして互いに通い合うのは おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。  おのおのわが心の深くそなわった庭(それ)をとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。  と続けて書きたかったのではないでしょうか?  だとすると、質問者様の主張の筋がとおって、私は気持ちがいいです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりです。わかっていただけると思って 別様に説明を重ねました。  (あ) 宗教関係の教会は だめ。  (い) そのほかの普通の集まりなら OK。  こういった内容です。宗教関係のそれには 《教会》としてカッコをつけたほうがよいですかね。  ★★(回答No.40) 《教会》と教会は要らない。という主張はもうすでに、質問本文で7段落に分けて書かれています。しかしながら、上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなるように、書き直すことはできませんか?  ☆ たしかに オシへは要らないのですから 名前をつけるにも《教》の字は要らないですね。  もし  ★ 《教会》と教会は要らなくなる  ☆ という言い方をしたときには どちらも《オシへをあたかも神のごとく戴きこれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説く宗教の信徒たちの集まり》であり 前者の《教会》は キリスト教関係の従来のそれです。後者の 教会 は それ以外にも宗教関係の信徒の集まりについて――いくら新しいものであっても 宗教関係であるならば――これも ダメと言っているかたちです。  こういうふうに整理してみました。  ★ 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? / みんなで考えやすくなると思います。  ☆ これは そうですね。つまり この質問にかんしましては ここまでなんです。教会についてだけ 問題にしました。  広く宗教あるいは聖書についてなら なおまだいくつか問題点はあると思っています。  そしてその内いくらかの主題については かがくすきさんとのやり取りの中で触れているかと思います。  ただ ひとつのスレッドにはひとつの主題というふうにしようかと思いますので 取りあえず拡散しないかたちにしたいと思うのですが いかがでしょう。  (う) とにかく 誰もが・いつでも(ほとんど24時間)気軽に自由に入って行けて 集まって話ができたり 自由に時間を過ごしたりすることが出来る家が 町内にひとつくらいあるといいんではないでしょうか?  ご回答をありがとうございます。

その他の回答 (39)

  • kagakusuki
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回答No.12

>オシへ無しで(つまりは オシへをまなぶのは 趣味同好の集まりとしてのみに限定して) キョウカイをつづければいいぢゃないですか。  つまり、神についての概念が正しく伝わらなくなっても構わない、即ち、《普遍神とわれとの関係》が異なるそれぞれ「異なる神」を持てば良いという御考えなのですね。  それならば、そもそも神を《有る神》として受け容れる派の中ですら、 >互いに同じ普遍神にかかわると認め合って などいないのですから、 >《有る神》派と《無い神》派とが――互いに同じ普遍神にかかわると認め合っているからには―― 両派こそが互いに同じひとつの《集まり》のもとにある。 >《神を受け容れるか拒むか》で分かれたかたちをその一方の側の人びとの固有の集まりとしての教会〔が有るか無いか〕によって さらに現わすということは マチガヒだと考え などと言う考えなど元々成り立つ筈もありませんから、 >《教会》は要らない。 などという教会の要不要を問う考えを持つ事自体無用な話という事ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ つまり、神についての概念が正しく伝わらなくなっても構わない、即ち、《普遍神とわれとの関係》が異なるそれぞれ「異なる神」を持てば良いという御考えなのですね。  ☆ 誤解です。  問題は 初めに《オシヘは要らない〔人間および社会の段階ないし情況になった〕》という前提が来ます。  だったら 《神についての概念が正しく伝わ》る・伝わらないということは 問題にならないのです。(問題にする人がいても それは自由です。しかも 大勢に影響しません)。  ★ 《普遍神とわれとの関係》が異なるそれぞれ「異なる神」  ☆ だという判断を下すのは――自由ですが―― あなたの主観の問題です。大勢に影響しません。  《普遍神》に《異なる》という概念はありません。あり得ません。人間の主観によっては――表現の自由のもとにあるからには―― そう見る(つまり これとこれとは異なっているではないかと見る)向きが出て来ることは あり得ます。問題にはなりません。  ★ ~~~~~~~~~~~~   >互いに同じ普遍神にかかわると認め合って  などいない  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それは 人間としてのあなたの判断です。  《普遍神》は 人間の誰がみとめて誰がみとめないということがあっても 何の影響も受けません。  だれがその神をほめたたえようが誰がけなそうが 神は痛くも痒くもないのです。  あなたは 普遍神が嫌いだいやだと言っているだけのことです。ご自由に。  あとのご議論も けっきょく普遍神をみとめたくないと言っているだけのことです。  エレミヤ書=へブル書の《あたらしい契約》をないがしろにしている。だけのことです。    

  • kagakusuki
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回答No.11

>今回の問題点も けっきょくはエレミヤ書31:31以降(それは へブル書8章に承け継がれている)をどう読んだか・つまりは その内容を受け取っているかどうか。ここに行き着くようです。  いいえ、エレミヤ書31には教会は要らないなどという事は一言も書かれておりませんので、本件とは全く関係の無い話に過ぎません。 >(あ) オシへは要らない。 という事であれば、この世には何故、異なる複数の宗教が存在するのでしょうか?  異なる宗教が存在しているという事一つを取って見ても、教えや教会が必要である事は明らかな事です。  前回の回答で私はこう書きました。 >地球世界が存在していさえすれば教会は要らないとでも仰るのですか? >それで誰が神が存在してるという事や、その神はどの様な神であるのかという事、聖書の内容、教義、各種儀式のやり方等々を伝えるのですか? >どこに神はどの様な神であるのかという事、聖書の内容、教義、各種儀式のやり方等々の記録を保存しておくのですか? >地球世界が存在しているだけでは、その宗教を知らない人間にその宗教が正しく伝わらない恐れが非常に高いのですから、教会は必要という事になります。  質問者様の話は、この事実を無視しているに過ぎません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  オシへ無しで(つまりは オシへをまなぶのは 趣味同好の集まりとしてのみに限定して) キョウカイをつづければいいぢゃないですか。  そして それぞれのオシへ如何にかかわらず 《神とわれとの関係》としては 世界の中で《梵我一如》の信仰類型ひとつしかないとすでに示しました。  ★ 質問者様の話は、この事実(* 引用を省略)を無視しているに過ぎません。  ☆ 好きな人たちが――まぁ 考古学においてでも――研究すればよいということです。  中で:  ★ 地球世界が存在していさえすれば教会は要らないとでも仰るのですか?  ☆ この問いには誤解があります。  《地球世界を神の家と呼ぶことに不都合はない。ただし ことさらそう唱えることもない》と言っているだけですから 話の筋が違っています。  チャーチと呼ぶ教会についてのあたらしい見解を述べています。  エクレシアという表現による教会は この話にはかかわっていません。  よく読んでくださいね。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.10

>こちらの趣旨は こうです。: >○ 地球世界がそのまま神の家であるということは マチガヒではなく そう言ってもよい。しかもそれをことさら唱える必要もない。 >☆ これだけのことですが?  地球世界が存在していさえすれば教会は要らないとでも仰るのですか?  それで誰が神が存在してるという事や、その神はどの様な神であるのかという事、聖書の内容、教義、各種儀式のやり方等々を伝えるのですか?  どこに神はどの様な神であるのかという事、聖書の内容、教義、各種儀式のやり方等々の記録を保存しておくのですか?  地球世界が存在しているだけでは、その宗教を知らない人間にその宗教が正しく伝わらない恐れが非常に高いのですから、教会は必要という事になります。  キリスト教が解禁になった明治になって、海外の宣教師が日本にやって来た際に、日本のキリシタンに口伝で伝わっているキリスト教と、ヨーロッパの教会で記録に基づいて伝えられて来た本来のキリスト教の間に乖離があったため、日本のキリシタンが本来のキリスト教を拒否したのは有名な話です。 >★ 「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」が存在している事は厳然とした事実です。それを隠す必要は全くありません。 >☆ 隠すのではなく そうではなく両者は 《普遍神とわれとの関係》として その捉え方についての表現こそ違っていても まったく同じであると言っています。  「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」という相反する二者をもしも「まったく同じである」と言えるとすれば、「教会に行く者」と「教会に行かない者」もまた「まったく同じである」と言える事になりますから、同じである以上違いは無いと見做さねばなりませんので、教会の有無によって「教会に行く者」と「教会に行かない者」の違いが >さらに現わすということ になるとは言えません。 >☆ というふうにしか《普遍神〔とわれとの関係〕》の問題を捉えることが出来ないという問題だと思います。  それを仰るのなら、「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」の違いが教会の有無によって明らかになるというふうにしか捉えることが出来ないと考える事こそ問題だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  あなたとはすでに――きちんと――話し合いを持ちましたね。  今回の問題点も けっきょくはエレミヤ書31:31以降(それは へブル書8章に承け継がれている)をどう読んだか・つまりは その内容を受け取っているかどうか。ここに行き着くようです。  (あ) オシへは要らない。ゆえに見方を替えて言いかえるなら 神は普遍神であることがそのまま潜在性から顕在した。  (い) 罪という罪はゆるされた。いわゆる原罪の問題だとすれば じんるいにとっての贖罪である。つまりは そこにおいて――イエス・キリストの十字架じょうの死による贖罪において―― 普遍神が指し示された。  この二点を言っているはずですが それを受け留めたかどうかに問題は帰着すると考えます。  つまりたとえば 同好の人びとがこれまでの教会にあつまってももちろん自由ですが それはあくまで《同好の士たちの趣味の話》に過ぎないということです。  《有る神》派と《無い神》派とが 普遍神のもとに同じ信仰類型を成すということも すでに示しました。  地球世界を《神の家》と呼んでも マチガヒではない と同時に ことさらそれを唱えることもない。なぜなら 普遍神であるのだから。――この問題も重ねて述べてあります。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~   もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の  余地はなかったでしょう。   事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。       (エレミヤ書 31:31-34)   神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言  されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  

回答No.9

いつも言いたがっているこの手の主張は理解できるけどね、古代の文明の遺跡を調査する時、最も重点的に調査されるのは神殿と信仰心の性質だ。このように社会を営むにあたってその社会の共通項として神殿なり祭壇なりが付いてくる。 この人間と名乗るに値する社会性と共存の精神の確立を無視して個人を主張したら、間違った結論だと思うよ。日本の哲学の伝統は人間の探究だから特にね。 神との和解という言葉の内容は、社会との和解かもしれないしね。 ポケモンたちは神社の祭壇としての機能が便利らしく、どこでもドア的な駅として現実との接点として活用しているよ。この事は別の話だけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  たとえばわたしの幼かったころは お寺の境内が――かなり広かったのですが――腕白坊主たちの遊び場でした。  木が植わっていたから ボール遊びのたぐいはあまりできなかったけれど 走り回ることも出来たし。  そういうコミュニティ―・センターではあった。ただし 子どものためのでした。  昔は昔。いまは今。あたらしくつくればよいのではないでしょうか?  それに もうこれからは 宗旨も宗派も関係なくなります。仮りに宗教とその施設が残ったとしてもです。  コミュニティーセンターも 神社でなくても 社会としてのやしろでしょう。そういう役割りをになうようになるでしょう。  どうでしょうか。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.7

>☆ これは まさに《1》としての教会 すなわち《主の家(キュリアコン > その意味でのチャーチ》は ことさら唱えることもない。 >ということですから おっしゃるように《唱えてもよい》となります。  いいえ、良い事にはなりません。  その論理で言えば「『教会は必要不可欠である』とことさら唱えることもない」のですから、「教会は必要不可欠である」という事にもなります。  つまり、質問者様の1の論理は何らかの結論を出す際の根拠には全くならないという事です。 >《神を受け容れるか拒むか》で分かれたかたちをその一方の側の人びとの固有の集まりとしての教会〔が有るか無いか〕によって さらに現わすということは マチガヒだと考えます。  何も間違いではありません。「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」が存在している事は厳然とした事実です。それを隠す必要は全くありません。  また、教会の無い地域にも「神を受け容れている者」と「受け容れない者」の双方がいる事もまた事実なのですから、教会の存在が「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」を分けているという事にはなりません。 >教会員とその外の者とで あたかも神が違うと言っているようなものだからです。  「神を受け容れている者」の神と「神を受け容れない者」の神は当然異なっていますので、何の問題もありません。 >《有る神》派と《無い神》派とが――互いに同じ普遍神にかかわると認め合っているからには  《無い神》派は普遍神と認めてはいないのですから、《有る神》派が普遍神と見做している存在と、《無い神》派の言っている神とは別の存在であり、 >互いに同じ普遍神にかかわると認め合って などはいません。 >ここでの問題は 社会の基本としてのお話です。  いいえ、宗教は個人の自由に属する問題であって、「社会の基本としてのお話」などではありません。  従って、個人がどう考えるかが重要になります。 >すでに初めにいま上に述べた《普遍神とわれとの関係》についての基礎理論を共有して欲しい。という世界観のもんだいだと思います。  それは、質問者様の個人的な世界観に過ぎず、一般的なものとは言えませんから、共有する必要は御座いませんし、質問者様のお話は根拠も無く結論だけを出しているだけのものに過ぎませんので、神や教会に関する基礎理論どころか、理論と呼べる様なものですらありません。 >教会の外の人たちと自分たちとを最初に分離してしまってはならない。という条件がつくでしょうね。  教会の門は常に開かれていますから、条件を付けずとも、分離してしまう様な事には最初からなりません。  分離する事があるとすれば、その原因は教会の存在にあるのではなく、「神を受け容れている者」の中に「神の教えを受け入れていない者」が存在している事にあります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 1. その論理で言えば「『教会は必要不可欠である』とことさら唱えることもない」のですから、「教会は必要不可欠である」という事にもなります。  ☆ よく飲み込めないのですが こちらの趣旨は こうです。:  ○ 地球世界がそのまま神の家であるということは マチガヒではなく そう言ってもよい。しかもそれをことさら唱える必要もない。  ☆ これだけのことですが?    ★ 「神を受け容れている者」と「神を受け容れない者」が存在している事は厳然とした事実です。それを隠す必要は全くありません。  ☆ 隠すのではなく そうではなく両者は 《普遍神とわれとの関係》として その捉え方についての表現こそ違っていても まったく同じであると言っています。  ○ 神を《有る神》として受け容れる派 と 《無い神》として受け容れる派とですから。  ○ 《神などは信じない》というのは 《無い神を信じる》というのと同じです。  ○ 有る神も無い神もそれぞれともに普遍神のことを――人間の言葉で多様性のもとに――表わしています。  ☆☆【Q:《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 】~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9151492.html  ○ 梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《基本》について  ★ 個人がどう考えるかが重要になります。  ★  分離する事があるとすれば、その原因は教会の存在にあるのではなく、「神を受け容れている者」の中に「神の教えを受け入れていない者」が存在している事にあります。  ☆ というふうにしか《普遍神〔とわれとの関係〕》の問題を捉えることが出来ないという問題だと思います。    さきほどの質問の趣旨説明を参照してくださると有り難いです。  

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.4

1. >ことさらそう言う(唱える)こともない。 ということは、つまり、 >《教会》は要らない。 とも言っていないという事。 2.  拒む人にとっては、教会がいらないというだけの事に過ぎず、あった処で困る訳ではない。  そして、主なる神を――自由に自然に人間的に――受け入れる人たちもいる。 3.  それは一部の「主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たち」の自由意思に基づく主張に過ぎず、「『主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たち』以外の人たち」にまで普遍的に成り立つ様な事実などではない。 4.  自治体には市役所などの様にその自治体を纏める仕事を行うための場所が必要となる。 5.  要るか要らないかは個人によって異なる事であり、精神的支柱として教会を必要としている人間もいる以上、 >《教会》は 要らない。 と言う事は出来ない。 6.  教会の中においても、 >おのおのわが心の深くそなわった庭である。それをとおして互いに通い合う という事は十分可能な事であり、教会はその妨げにはならない。 7.  実質的に教会はコミュニティーセンターの一種でもあると思いますが?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  1.   >ことさらそう言う(唱える)こともない。  ということは、つまり、   >《教会》は要らない。  とも言っていないという事。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは まさに《1》としての教会 すなわち《主の家(キュリアコン > その意味でのチャーチ》は ことさら唱えることもない。  ――ということですから おっしゃるように《唱えてもよい》となります。  つまり これは 《全世界あるいは地球世界 としての〈主の家=教会〉》ならそう言ってもよい場合がある。ということです。  つまり その場合には 建物も何かの組織もいっさいない場合です。  したがってそうではなく 《民会としての・あるいは要するに町に建物を建て聖職者がその職務をそこでつとめるかたちの教会》は 要らない。と言っています。矛盾していないはずです。  ★ ~~~~~~~~~~  2.  拒む人にとっては、教会がいらないというだけの事に過ぎず、あった処で困る訳ではない。  そして、主なる神を――自由に自然に人間的に――受け入れる人たちもいる。  ~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。そうは成りません。なぜなら そのように《神を受け容れるか拒むか》で分かれたかたちをその一方の側の人びとの固有の集まりとしての教会〔が有るか無いか〕によって さらに現わすということは マチガヒだと考えます。  すなわち それだと 教会員とその外の者とで あたかも神が違うと言っているようなものだからです。  言いかえると 《教会》と言おうがコミュニティーセンタと言おうがその名前は別に考えるとしても 《有る神》派と《無い神》派とが――互いに同じ普遍神にかかわると認め合っているからには―― 両派こそが互いに同じひとつの《集まり》のもとにある。そういうかたちを基本として採っていることが 肝心である。のではないでしょうか?  個別に趣味として同好会などを持つのは これとは別の話です。  ですから ここでの問題は 社会の基本としてのお話です。  すなわち:  ★ 3. 「『主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たち』以外の人たち」  ☆ というのは その《こばむ人たち》にとっての神と同じ神を受け容れている。ということです。  《有る》と表現するか《無い》と表わすか。それだけの違いだという基礎に立とうという趣旨です。  ちなみに 《有る神》派にしても その神の名を ヤハヱ―と言おうがブラフマンと呼ぼうがアッラーフと言おうがすべて 名前の違いだけであってすべては 同じひとつの普遍神である。という基礎のことです。  ★ 5. 精神的支柱として教会を必要としている人間  ☆ の方々も すでに初めにいま上に述べた《普遍神とわれとの関係》についての基礎理論を共有して欲しい。という世界観のもんだいだと思います。  (その上で 個別に同好会などとして違いを表現して行くことは 自由でありとうといことだと捉えられます)。  ★ 6. 教会はその妨げにはならない。  ☆ ようなかたち(および中身)というのは 教会の外の人たちと自分たちとを最初に分離してしまってはならない。という条件がつくでしょうね。  建物や聖職者の組織――あるいはオシへも問題になりましょうか――によって最初に 内と外とを分けてしまっては 大きな問題になるでしょうね。つまりは 自分たちは 普遍神ではなく 自分たちだけの狭い神を信奉していると無理を言っていることになるからです。  ★ 7. 実質的に教会はコミュニティーセンターの一種でもあると思いますが?  ☆ その教会の内なる人たちにとっては 間違いなくそうなのでしょうね。

  • akiye2
  • ベストアンサー率27% (160/573)
回答No.3

精神世界の入り口としての教会は必要でしょう。 そこで徹底的に学び絶対は無いと気付く。 そして所属は別として、教会や教義に縛られない生き方を選択する。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 精神世界の入り口としての教会は必要でしょう。  ☆ 精神世界も身体世界(?)も その入り口は つねに身の周りの家族であり社会である。のではありませんか?  精神世界だけを取り出すというのも わたしにはしっくり行きません。  そうだとしたら おそらくそれは《あこがれ》のようなものではないか?  わるく言えば おのれが天使にでもなった気分のことではないか。その気分を夢見ているのではないだろうかと。  ★ そこで徹底的に学び絶対は無いと気付く。  ☆ つまり 世の中にあって先輩・同僚そして後輩にもまなぶ。のは ふつうのことだと考えます。その世俗とそして〔もしそれがあるとすればその〕精神世界とは つねに――つねにです つねに――共にあると思うからです。決して別々のものではないのではないかと。  《伝統》たる教会があるからこそ 《聖と俗 浄と穢 精神と肉体》といった二項を――おそらく わざと――分離させさらには互いに対立するものとして人びとは捉えなければならなかった。のではないのでしょうか? マチガヒです。と断言します。  ★ そして所属は別として、教会や教義に縛られない生き方を選択する。  ☆ ですよね? つまり 《オシヘが 善良な人びとを縛って来た》のですよね? 反省・ざんげすべきなのではないでしょうか? 聖職者たちがです。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.2

 いい考えです。おかげで僕がなぜ神社、お寺、教会に行かないのかわかりました。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ それは それは。  誰にとってもまったく自由な《普遍神》 これを全世界に《押し売り》したいほどです。  ご回答をありがとうございます。

noname#217197
noname#217197
回答No.1

「教会は要らない」←・・の 意味を あなたが 間違えて捉えてるだけ・・

bragelonne
質問者

お礼

 意味不明です。あしからず。  ご投稿をありがとうございます。

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    はじめまして。 私は最近知り合ったブラジル人の方に教会に誘われ、以前から興味があったので、 最近礼拝へ行くようになりました。 ちなみにプロテスタントです。  これまで教会という所には行った事がなく、その教会はブラジル人が多く集まる 「ミサオアポイオ(確かこんな名前でした)」という看板がありました。 私は教会に対してオルガンで静かな讃美歌を歌い、胸の前で手を合わせ、 厳粛な雰囲気をイメージしていましたが、そこではギターやベース等を使って、明るい感じの歌を歌い、 手を叩いてリズムに合わせて踊っている人も沢山いて、殆どの方がお祈りする時に、 手を合わせるのではなく、両手を天に向かって広げる祈り方をしていました。 何故?と聞いたら、神様は天におられるのだから、私のイメージしてたように 静かに手を合わせて祈らなければならない、という決まりはないし、 例えば良い事があり感謝の祈りの場合も、何かに悩んで助けを求める場合も、主を賛美する場合も、 天におられる神に向かって行うのだから、だけど決まりはないですよ。 ただ私達の殆どはその方が天におられる神に通じると思うからそうした祈り方をするだけで、 手を合わせて下を向いて祈ろうが祈りは祈りだから祈り方は自由です、 もし私達の祈り方に違和感があるなら、それに合わせる必要もないのですよ、と言われました。 聖書を頂いたのですが、聖書自体勉強になりますし、教会へ行く事も楽しいです。 天に向かって手を広げて祈ったり、ギター等を用いた明るい感じの歌は ブラジル人とかラテン系クリスチャン(カナダ人等もいますが)の特有のものなのでしょうか? それとも、プロテスタントの教会では珍しくないのでしょうか? どなたか教えてください。 長文失礼致しました。

  • 教会の週報にて

    教会には、週報というものがあります。 4月10日 以下抜粋です。(個人名、宗教的な箇所は極力省いています。) 今日は知事選挙の日です。震災の影響もあってか、私たちの住む町の大切な首長選挙です。主のみこころがこの町に示されるよう祈りつつ投票に臨みたいものです。教会として特定の候補者を支持することはありませんが、私個人としては現職再選という結果にだけはなってほしくないと思っています。XX新聞では今回の選挙の争点としてXX市場の移転、XXX銀行の存続、XX招致の是非などが挙げられていますが、これまでの×政の継続を願うのかどうか、リーダーの資質面での問題などもきちんと見極める必要があるでしょう。少なくとも、教育現場における日の丸・君が代強制やアジア周辺諸国の人々へのあからさまな蔑視、社会的弱者に対する差別発言や今回の地震・津波に対する爆弾発言などは、どれ一つとっても決して見過ごすことのできない重大な問題をはらんでします。 確かにその知事に問題発言はあったと思いますが、牧師という職業である以上、人の悪口(に近い)は慎むべきでしょう。 思うのは自由だと思いますが、公でいう発言ではないでしょう。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 特殊絶対性仮説をデザートにどうぞ

     一般および個別絶対性なる理論に立つなら どういう実践ないし現実の生活となるのか?   これにこたえる必要があります。  普遍神〔とわれとの関係〕は 言葉や概念・理念の問題ではなく ちからの問題である。  これを明らかにするのが 特殊絶対性仮説です。  要するに:   ・名前の異なる神もみな 普遍神のシルシの違いに過ぎない      ・有る神のほかに無い神を 普遍神のシルシとする場合もある。互いに同等である。      ・普遍神とわれとの関係なるわが非思考の庭――つまり信仰――は そこから得ら    れる観想をオシヘとして・しかも――あろうことか――そのオシヘを信じなさいと他    人に説く宗教 この宗教とは〔信仰は〕 何の関係もない。  さしづめこれらの一般および個別絶対性についての説明内容に立つ信仰は その実践において 元気が出るということ。無根拠にあって元気が出るということ。  ――これが 特殊絶対性仮説です。実践ないし現実の生活の問題として 元気が出る これが その根幹としての内容です。  非思考ゆえ 無根拠においてです。  これが 基本として説明のすべてです。  ご批判を自由にどうぞ。

  • 一般および個別絶対性理論 (神論です)

    一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 存在を想定してなお模索する。ご検証を。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒7‐B。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本的に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒(#0) 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。  経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)   可知(認識しうるものごと)     既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)     未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)   不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得るが)  非経験の場(絶対性)   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心) --------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)       / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。         * 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2.シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。

  • 水による洗礼は 要らないのではないか

      1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. 《要る》の根拠は 《すくいは水と霊による》などの記述とそして神秘的なものであって おそらくはサクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  3. ユダヤ民族の初めには 基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとっての規範である律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  4. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらそれぞれの信仰の中の神にもどった。  5. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  6. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  7. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  8. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 宗教に関係なく 同じである。と成ったのではないだろうか?  9. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学についてそれらは有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  10. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるかも知れない。  11. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。  自由なスサノヲ人間語によるスサノヲ世界市民のまったき自由にもとづく見解を 思う存分あきらかにして ご教授ください。  なぜ 水によるバプテスマが まだなくならないのか? どうして必要か?

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。