《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。

このQ&Aのポイント
  • 《主の家(キュリアコン > キルへ;チャーチ)》は 言わば――《主》が普遍神であるなら――全世界を言っている。そしてことさらそう言う(唱える)こともない。
  • なぜなら 主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たちもいるのだから。
  • 言わば《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。これを認めずばなるまいゆえ。
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《教会》は要らない。心の内なる教会としてのみ。

 1. 《主の家(キュリアコン > キルへ;チャーチ)》は 言わば――《主》が普遍神であるなら――全世界を言っている。そしてことさらそう言う(唱える)こともない。  2. なぜなら 主なる神を――自由に自然に人間的に――こばむ人たちもいるのだから。  3. 言わば《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。これを認めずばなるまいゆえ。  4. 《民会(エクレシア > エグリーズ;イグレシア;キエーザ)》は そのまま《世界たるチャーチ(または 〈無いチャーチ〉)》の支所である。一般に自治体のことである。そのまた分室である。  5. 《教会》は 要らない。――表現の自由また結社の自由のもとに存続したとしても。  6. 《教会》とは おのおのわが心の深くそなわった庭である。それをとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。  7. 教会は要らない。一般のコミュニティーセンターだけでよい。(図書館・文化芸術センターをもつけて)。  みなさん どんなもんでしょう?

質問者が選んだベストアンサー

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  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.41

こんにちは。私の一つ前の回答no.40について、お礼コメントにて、下から5行目に、単純に考えてもらってだいじょうぶだと思います。とあります。 ということは、質問者様は、私は難しく考えている。と思ってらっしゃいます。 誤解を解きたいです。私は意図して難しく考えているのでありません。精確に考えたいと思っていますし精確に考えたいという思いは変えられません。単純に考えられるかどうかは、質問次第なので、どうにもできません。 質問本文について、文脈、筋の通らない点を回答no.32にてひとつ。回答no.40にてひとつの合計2点指摘いたしました。通らないという点があることはわかっていただけたと思います。 1点づつならば、読者で個別訂正可能ですが、2点ありますと、全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正しなければなりません。全体の文脈、筋を保ちながら、2点同時に訂正できるのは、質問者様だけです。 新しく読む人はみんな、《教会》は要らない。という件名の主張から、本文、39件の回答とお礼コメントを辿って、最後に問題は オシへにかかわる人びとの集まりにあります。それが 要らないと言っています。にたどり着くことになります。 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? みんなで考えやすくなると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  つまり 初めに《教会》というふうに 二重カッコ(ギュイメ)でくくりました。  これは オシへを信じなさいという問題にかかわっている従来の教会のことです。  そしてそのように宗教にかかわるかぎりで 教会という教会は 要らない。という意味でも言っています。  ややこしかったのは わたしが従来の教会には なつかしさを感じる人びとがいるのではないかと ふと思ったことにあります。  もしその郷愁の感じについて代わるものが必要だとするのならば ひとつに生活共同のコミュニティーセンターなどを代替施設としてくださいと言ったこと。  そしてさらにその郷愁感の部分では 心の奥の心としての庭が 人びとの集まりにとってのみなもとになるはずだとも言ったこと。  こういう入り組んだ言い方をしたことにややこしさがあったと思います。    宗教関係の教会はすべて 要らない。ということ。  そして 人びとのふつうの集まりとしてなら 代替施設は あたらしく用意すればよい。  これが 骨子でした。どうでしょう。  ★★(回答No.32) ~~~~~~~  〔* 宗教関係の〕《教会》をとおして互いに通い合うのは おかしい。(普遍神をいだくことにはならない)。  おのおのわが心の深くそなわった庭(それ)をとおして互いに通い合うのでなければ おかしい。  と続けて書きたかったのではないでしょうか?  だとすると、質問者様の主張の筋がとおって、私は気持ちがいいです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりです。わかっていただけると思って 別様に説明を重ねました。  (あ) 宗教関係の教会は だめ。  (い) そのほかの普通の集まりなら OK。  こういった内容です。宗教関係のそれには 《教会》としてカッコをつけたほうがよいですかね。  ★★(回答No.40) 《教会》と教会は要らない。という主張はもうすでに、質問本文で7段落に分けて書かれています。しかしながら、上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなるように、書き直すことはできませんか?  ☆ たしかに オシへは要らないのですから 名前をつけるにも《教》の字は要らないですね。  もし  ★ 《教会》と教会は要らなくなる  ☆ という言い方をしたときには どちらも《オシへをあたかも神のごとく戴きこれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説く宗教の信徒たちの集まり》であり 前者の《教会》は キリスト教関係の従来のそれです。後者の 教会 は それ以外にも宗教関係の信徒の集まりについて――いくら新しいものであっても 宗教関係であるならば――これも ダメと言っているかたちです。  こういうふうに整理してみました。  ★ 39件の回答とお礼コメントを経たあとの質問者様の考え示してみてはいかがでしょうか? / みんなで考えやすくなると思います。  ☆ これは そうですね。つまり この質問にかんしましては ここまでなんです。教会についてだけ 問題にしました。  広く宗教あるいは聖書についてなら なおまだいくつか問題点はあると思っています。  そしてその内いくらかの主題については かがくすきさんとのやり取りの中で触れているかと思います。  ただ ひとつのスレッドにはひとつの主題というふうにしようかと思いますので 取りあえず拡散しないかたちにしたいと思うのですが いかがでしょう。  (う) とにかく 誰もが・いつでも(ほとんど24時間)気軽に自由に入って行けて 集まって話ができたり 自由に時間を過ごしたりすることが出来る家が 町内にひとつくらいあるといいんではないでしょうか?  ご回答をありがとうございます。

その他の回答 (39)

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.43

>なんで 普通名詞の《かみ》が オシへのひとつなんですか。  では質問者様は《かみ》という言葉には「神という者はどの様な存在なのか」という概念が付随していないとでも思っておられるのですか?  信仰の対象とされているものに関する知識は、信仰に関する知識なのですから、それは須らく「教え」なのです。 >オシへにもとづく宗教としては そう扱う。というだけの話です。エレミヤ自身は やはりおのれと神との関係としての心の庭だけの問題です。そのヒラメキの内容を むろんはらからの人たちに伝えたわけですが。  それでは、質問者様は何故、エレミヤ書の預言などを根拠になどしておられるのです。  質問者様は御自身の考えをヒラメキによって得たものであるとして、《オシヘ》に拠らないものだとしていますが、もしそれが本当ならばそれは預言とどう違うというのです?  預言を受け取る事が出来たというのであれば、エレミヤ書など根拠にせずに、自らが神から直接受け取った預言を根拠にすべきではありませんか。  そうでなければ、神が質問者様に預言を授けた行為を蔑にしている事になります。  それにもかかわらず、エレミヤ書の預言を根拠としているという事は、質問者様もまた《オシヘ》によって預言を知ったという事に他ならないのですから、質問者様の考えはヒラメキだけでは成り立たつ事など無く、どうしても《オシヘ》が必要だったという事です。 >そのヒラメキの内容を むろんはらからの人たちに伝えたわけですが。  その行為こそが、 >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という状態とはかけ離れているので、エレミア書の預言が成就している事を前提としている質問者様の考えを否定していると言っているのですよ。 >☆ ウソこけ! どこにもない。それに 《マチガヒだ》と言っている。《「未だ成就していない状態」にある》ということをみとめた形跡は ない。  エレミヤ書の内容を理解していない事と言い、質問者様は読解力が相当不足しておられる様ですね。  ちゃんと >「皆、わたし(主)を知るように」はなっておらず、「その隣とその兄弟に >>主を知れと言っておしえる >人」が未だに居る以上、その預言はまだ成就されてなどいない事は自明の理ではありませんか。 と申し上げておりますよ。  それを《マチガヒだ》などと何処で言っているというのです? >☆ ウソこけ! とはこちらの台詞です。  いくら現実を見つめる事が嫌だからと言ってウソはいけませんよ。 >《預言が成就する》ということにかんして 百パーセント文字どおりに現実が実現するという解釈に立つかぎり 話は物別れです。  おやおや、預言が百パーセント実現していなければ成り立たない >《オシヘは要らない》 という状態が"実現している事"を前提とした考えをしていながら、そんな事を言い出すのですか?  それならば、質問者様の考えは最初から矛盾していて成り立たない考えだったという事ですね。 >ぜんぶマチガヒだというのなら エレミヤ預言をどう処理したのか。  何を訳の解らない事をw  私がいつどこでエレミヤ預言が >ぜんぶマチガヒだ などと言ったというのです?  質問者様の考えが間違いだと言っているだけですよ。  エレミヤ書の預言の処理?  何故、預言を処理などしなければならないのですか?  預言がまだ成就していない以上、処理するしないにかかわらず、何の問題も発生しないではありませんか。  質問者様の方こそ、質問者様御自身がここでこの様に神に関する事を語っている事が、 >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 というエレミヤ書の預言が成就した状態とはかけ離れた事である事を、どう処理するつもりなのですか?  貴方は自らエレミヤ書の預言を蔑にしているというのに、他人が同じ預言を蔑にしているのが問題だと、ありもしない事を問題視しています。  それは傲慢な考えで、ダブルスタンダードというものですよ。 >神懸かりの宗教としてのオシへまたはその神 こういうマボロシは 霧が晴れるように徐々に薄れて来ています。社会は 民主制になって来ています。そのような歴史の推移が 預言と関係あるわけです。 という事は、質問者様の考えも >すでに得られている信仰ゆえに・そのヒラメキをとおして・ということは ここで実際には経験思想の問題として そのように見解を述べているに過ぎません。 という神懸かりによるものなのですから、マボロシと見做すべきですね。  又、質問者様が根拠にしておられるエレミヤ書の預言も質問者様の考えで言えばマボロシなのですから、質問者様は「自分の考えの根拠だとした事はマボロシだった」と仰っておられる訳ですね。  つまり、質問者様の考えは二重の意味でマボロシだという事です。 >ここから どうして・どのボタンをクリックしたら 次のような考えが出ているサイトに移るのか?  こちらが聞いても応えが無いので、 >では すべての人が キリスト者になっているか? そうではなく 理論上 キリスト者(つまりは普遍神をいだく人たち)になっているという意味に採るのがふつうなのです。 という話は話の筋とは関係のない話で、無視しても構わないものであると判断致します。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  第一パラグラフ――意味不明。  ★ エレミヤ書など根拠にせずに、  ☆ 相手の根拠――すなわち新旧の聖書――にかかわる問題を取り上げているのみ。  そんなこと わっかんないのかなぁ。  エレミヤは:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >そのヒラメキの内容を むろんはらからの人たちに伝えたわけですが。  その行為  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ は まだその預言じしんが 成就していなかった時である。  こんなことくらい どうして分からないのだろう。  ★ その預言はまだ成就されてなどいない  ☆ ぢゃあ 成就されつつあると認識しているのかという問題です。  そして 《理論じょう成就している》という説明を無視しています。  ★ 預言がまだ成就していない以上、処理するしないにかかわらず、何の問題も発生しないではありませんか。  ☆ どうしても意を汲んで話を返さなければならない。  つまり エレミヤ預言は イエスの時あるいはいま現在 どうなっていると捉えるのですか? そのことに触れなければ 意味がない。だから マチガヒだと認識していると こちらからは見られるのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  質問者様の方こそ、質問者様御自身がここでこの様に神に関する事を語っている事が、   >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。  というエレミヤ書の預言が成就した状態とはかけ離れた事である事を、どう処理するつもりなのですか?  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このわたしの振る舞いこそが 《理論じょう成就している》という意味です。現実においても・実践においても 成就する方向を言ったりおこなったりするという意味です。  こんなことは 大学一年生の問題です。  ★ 貴方は自らエレミヤ書の預言を蔑にしているというのに、他人が同じ預言を蔑にしているのが問題だと、ありもしない事を問題視しています。  ☆ いまちょうど例証し説明したように 《ありもしている》問題です。あなたが預言をないがしろにしているのです。自由ですが だとしたら そういう立ち場だと言って話をしてください。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  質問者様の考えも   >すでに得られている信仰ゆえに・そのヒラメキをとおして・ということは ここで実際には経験思想の問題として そのように見解を述べているに過ぎません。  という神懸かりによるものなのですから、マボロシと見做すべきですね。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 前回のやり取りでもそうだったことですが もうこれ以上つづけると 心が腐って来ます。同じクズ議論を繰り返すなどということは。  前回も すべてこちらに非があると申し出て 話を打ち切れるように持って行きました。  そうなんですよ。わたしこそが 神懸かりなんです。  よかったですね。    

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.42

>《かみ》という言葉は どの民族のどの言語にも持たれています。そのあと オシへをつくった。に過ぎない。  完全に勘違いをしていますね。  《かみ》という概念そのものも「預言」という概念そのものもまた《オシへ》の一つなのですよ。  従って、《オシへ》無くして質問者様の信仰心はないという事です。  又、質問者様が根拠にしておられるエレミア書の預言もまた《オシへ》の一つなのですよ。  従って、《オシへ》が無ければ質問者様がここで質問をしている事も無かったのですよ。 >《「未だ成就していない状態」にある》と答えているではありませんか。 >☆ いつ・どこで?  No.29です。 >最後の段落については 意味不明です。  質問者様が神について語っている事そのものが、 >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という状態とはかけ離れているので、質問者様が神に関して語る事自体がエレミア書の預言が成就していない事を証明していて、エレミア書の預言が成就している事を前提としている質問者様の考えを否定していると言っているのですよ。  それが判らないのは、質問者様が真実を受け入れる事が嫌だから真実から目を背けて逃げ回っているだけだからです。  そんなに真実を受け入れる事が嫌なら、もう神に関して他人と情報交換などしなければ良いではありませんか。  真実を知るのを嫌がっておられるというのに、何故、ここで質問などをしておられるのでしょうか?意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 >キリストの名は 世界のどこでもすでに知られています。  それが何か? >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 という状態になっている訳ではないのですから、エレミア書の預言が成就していない事は火を見るより明らかではありませんか。 >では すべての人が キリスト者になっているか? そうではなく 理論上 キリスト者(つまりは普遍神をいだく人たち)になっているという意味  では、質問者様が仰っておられる >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 >宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 という考えが成り立つのはあくまで「理論」という架空の話の中だけの話であって、実際にはその様な考えは成り立たたないので、「教えや教会は必要である」という事を御認めになるのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 《かみ》という概念そのものも「預言」という概念そのものもまた《オシへ》の一つなのですよ。  ☆ 《預言》は すでに人びとに共通の(共有される)《かみ》があってこそ現われるものでしょう。それは そうでしょう。つまり オシへにかかわっていましょう。  《かみ》という言葉が どうしてそのようなオシへのあとにしか現われなかったと考えるのでしょう?  あるいはつまり アブラハムにとっては モーセが神をオシへとして示したその事件より前の時代ですから その神は ただふつうに《かみ》であるものです。   《〈わたしはある〉。それが わたしである。エフイェー アシェル エフイェー。》  という名前を明かしたのは モーセに尋ねられたゆえのことです。《ヤハヱ―》は この《エフイェー もしくは エフヱ―》という言葉とかかわるもうひとつの名前です。  あるいはそして 普通名詞としては  《かみ:エル または エローホ(複数:エローヒーム)》です。  なんで 普通名詞の《かみ》が オシへのひとつなんですか。  アブラハムは おのれの心なる《非思考の庭》にて この《かみ》と相対していた。だけです。オシヘは やっとモーセのときに出来たのです。  ★ エレミア書の預言もまた《オシへ》の一つなのですよ。  ☆ オシへにもとづく宗教としては そう扱う。というだけの話です。エレミヤ自身は やはりおのれと神との関係としての心の庭だけの問題です。そのヒラメキの内容を むろんはらからの人たちに伝えたわけですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >《「未だ成就していない状態」にある》と答えているではありませんか。   >☆ いつ・どこで?  No.29です。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ウソこけ! どこにもない。それに 《マチガヒだ》と言っている。《「未だ成就していない状態」にある》ということをみとめた形跡は ない。  《預言が成就する》ということにかんして 百パーセント文字どおりに現実が実現するという解釈に立つかぎり 話は物別れです。  もし《「未だ成就していない状態」にある》というのであれば 少しは成就しているとなります。  ぜんぶマチガヒだというのなら エレミヤ預言をどう処理したのか。これを明らかにすべきだと 何度も言っています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。  という状態になっている訳ではないのですから、エレミア書の預言が成就していない事は火を見るより明らかではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神懸かりの宗教としてのオシへまたはその神 こういうマボロシは 霧が晴れるように徐々に薄れて来ています。社会は 民主制になって来ています。そのような歴史の推移が 預言と関係あるわけです。  (聖書じたいは 聖書が要らなくなることを目的として書かれたとも言えます。旧約の時代があったからには そのオシへまたはそのヤハヱ―という神を 外に開き普遍神という位置に揚げて棄てるという作業が必要でした。そのため 文書にもなっています)。  ここから どうして・どのボタンをクリックしたら 次のような考えが出ているサイトに移るのか?  ★ 成り立つのはあくまで「理論」という架空の話の中だけの話であって、実際にはその様な考えは成り立たたないので、「教えや教会は必要である」という事を御認めになるのですね。  

  • sunabo
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回答No.40

わたしが教会から《オシヘをあたかも神のごとく戴いてそれを信じなさい(心に受け容れなさい)と説くところ》を除くと、何が残りますか?とたずねたのは誤りでした。 質問本文に答えはすでに書いてありました。 一般のコミュニティーセンターと図書館と文化芸術センターが残ります。 本文を読めてませんでした。ごめんなさい。 もし、私が教会または《教会》ですでに結婚していた場合、 教会または《教会》で結婚式を挙げたいな。と思った場合、 教会が要らなくなっていると困ります。 質問本文4行目と5行目に 《無い神》をいだき この経験世界については 神という言葉をとおして認識したくないと言う。 とあります。 質問者様の分類ですと、私は《無い神》をいだいている人だと思います。 しかしながら、私は、《無い神》をいだいていると言えませんし、普遍神をいだいているとも言えません。 質問者様は¬AかAかのいづれかでなければならない。¬AかAかどちらとも言えないことを認めないと考えていますか? 本文12行目に 7. 教会は要らない。 とあります。でも、本当は 7. 《教会》は要らない。 と書きたかったのではないですか? タイトルから11行目まで《教会》について述べていたのが、12行目に突然《教会》ではなく、教会がでてくるので混乱します。《》をつけて強調している《教会》と教会がどう違うのか説明がいるはずです。 質問者様はタイトルも本文も《》をつけて強調している《教会》についてだけ述べようとしている、気がします。 《教会》と教会は要らない。という主張はもうすでに、質問本文で7段落に分けて書かれています。しかしながら、上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなるように、書き直すことはできませんか? たとえば、下記の6段階です。上から順に同意していけば、最終的に、《教会》と教会は要らなくなります。また、私は普遍神をいだくことは良いことかどうかわかりません。良いとも良くないとも言えません。 普遍神をいだくことは良いことである。 《教会》と教会は、普遍神をいだくことを邪魔する部分を含んでいる。 邪魔する部分とは、オシへをあたかも神のごとくに頂きこれを信じなさい(つまり 心に受け容れなさい)と説くこと。と、自分たち聖職者にみづからが権威や権限をあたえるかのごとく階層組織をつくっている。そのヒエラルキア。である。 《教会》と教会から邪魔する部分だけを除くことはできない。 一般のコミュニティーセンターと図書館と文化芸術センターとその他の《教会》と教会から邪魔する部分を除いた部分を作る。 《教会》と教会を要らなくする。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~  もし、私が教会または《教会》ですでに結婚していた場合、  教会または《教会》で結婚式を挙げたいな。と思った場合、  教会が要らなくなっていると困ります。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ひとつに 式場としての施設は いくらでもあります。  ひとつに さらにわたしたちの・これぞよきお祝いごとの式場であるという施設をあらたにつくればいいぢゃないですか。  ひとつに いづれにしても それぞれわが心の奥なるその心が キュリアコンおよびエクレシアなる庭なのですから 式場がどんな施設であったとしても だいじょうぶです。かがやいています。  神について:  ★ 質問者様は¬AかAかのいづれかでなければならない。¬AかAかどちらとも言えないことを認めないと考えていますか?  ☆ これは 《詭弁を弄しますが》 必ずしも経験的なものごととしての《 ¬AかAかのいづれか》という捉え方とは 別なのです。  普遍神は 《無限》という概念で――仮りに認識するために――説明されることがあります。  つまり 二で割っても三で割ってもその商は やはり元の無限である。という説明です。  こういう無限あるいは絶対である普遍神については 《¬AかAかのいづれか》あるいはつまり《有るか無いか》という認識は ほんとうにはなじまない。  《有るとも無いとも どちらとも人間が決めることは出来ないナゾ》 これが 神です。  《有ると言っても 無いと言っても どちらも 神には当てはまる》となっています。  ですから あとは人が好きなほうをえらんで 自分は《有る神》派だとか《無い神》派だと言っていればよい。  無い神をえらんだなら もう神のことは触れることはないのでしょう。そんなものは知らんと言っていれば済みます。  そしてそれは 絶対ないし無限として説明され得る普遍神だからそうなる。と捉えられるのではないでしょうか。  地震がある・無いの問題ではなく 何かがあっても無くても 神は――そのナゾとして想定しているなら――人間にかかわっています。  わたしは想定などしていないと言うときには では 《無限》とあなたの関係は どうなりますか? と問われます。無限については いやと言っても好きだと言っても そこに持たれています。絶対的な関係です。しかも 空気のようなものとしてのナゾです。  ★ 本文12行目に 7. 教会は要らない。 とあります。でも、本当は 7. 《教会》は要らない。 と書きたかったのではないですか?  ☆ そうですか。一貫していなかったですか。  問題は オシへにかかわる人びとの集まりにあります。それが 要らないと言っています。  極端なことを言えば もし仮りにあたらしい――いっさいオシヘにかかわらない――人びとの集まりの場を もういちど《きょうかい》と呼んだとしても 何の問題もありません。中身あるいは実質が たいせつです。単純に考えてもらってだいじょうぶだと思います。  あるいはつまり この質問の趣旨でわたしが述べた青写真いかんにかかわらず あたらしい集まりの場は あたらしい人が自分たちで自由に思い描きそのようにつくって行けばよいはずです。  すべて自由です。宗教の組織やオシへから自由であれば すべて自由です。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.39

>神は或る日或る時やって来て わが心の窓をノックする。 >《かみ》という言葉はそのときまでに 人びとが使っているのを見て知っていたゆえ そのノックは 神の――まぁ 霊としてのですが――おとづれであるかと捉えた。そこで これを・ということは神という名をわが心に 心としての領収証を発行して 受け容れた。  その人々が「《かみ》という言葉」を使っていたのも「教え」があったが故の事なのですから、《オシヘ》が無ければ質問者様が >人びとが使っているのを見て知って という事もある筈も無いのですから、質問者様が信仰を得る事も無かった訳です。  つまり、質問者様が信仰を得るためにも《オシヘ》が「要る」事に変わりはないのですよ。 >神はつまり普遍神は ナゾです。人間にとっては《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何ものか》です。  それならば、その神から与えられたエレミヤ書の預言も本当に成就するかどうかナゾという事になりますから、そのエレミヤ書の預言が成就する事を前提としている質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 >宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 という考えも成り立ちませんね。 >★ エレミヤ書の預言が無視されているという事実は存在してはいない >★ 預言が「成就した後の状態」と「未だ成就していない状態」を混同してはいけません。 >☆ ぢゃあ たとえばそのように《「未だ成就していない状態」にある》と この預言についてはこたえるべきです。いままでに何度も その問いはして来たのですから 答えているべきでした。  何を言ってんですか。既に何度も >《「未だ成就していない状態」にある》と 答えているではありませんか。 >こちらは 理論上すでに成就したと見るというひとつの見方を提出している。  それならば、そのエレミヤ書の預言は >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからである というものなのですから、質問者様はその預言通りに「神に関する事」について何も主張しなければ良いではありませんか。  つまり、預言が成就したのであれば、質問者様がそのような主張をする事は有り得ない事であり、質問者様御自身がここでそのような質問をしている事自体が預言が未だに成就していない事を証明しているのですよ。  従って、エレミヤ書の預言が成就した後である事を前提としなければ成り立たない質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 >宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 という考えがマチガヒである事はマチガヒない事なのです。

bragelonne
質問者

お礼

 《かみ》という言葉は どの民族のどの言語にも持たれています。そのあと オシへをつくった。に過ぎない。  預言は ヒラメキとして受け留めればよい。  この観想とも呼べるヒラメキを ふつうの経験事象にかかわる人間の言葉で表現したもの。そこから 人間と社会との命題を得た。そして 人びとはそれぞれにその解釈をも述べる。  ――何の問題もありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  既に何度も   >《「未だ成就していない状態」にある》と  答えているではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ いつ・どこで?  そのような考えであったなら わたしがエレミヤの預言を取り扱うことについてマチガヒだとは言わないはずです。  最後の段落については 意味不明です。あるいはつまり これまで何度も重ねて説明して来たことだと考えられます。振り返り読み返してください。  ちょっと感じたところでは  ★ >こちらは 理論上すでに成就したと見るというひとつの見方を提出している。  ☆ というときの《理論上》という意味合いを勘違いしている。のではないかと見られます。  キリストの名は 世界のどこでもすでに知られています。  では すべての人が キリスト者になっているか? そうではなく 理論上 キリスト者(つまりは普遍神をいだく人たち)になっているという意味に採るのがふつうなのです。  ご回答をありがとうございます。  これまでのやり取りをしっかりと読みなおしていただきたい。

  • kagakusuki
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回答No.38

>すでに得られている信仰 >信仰は神から与えられる >どこがどのように矛盾しているのでしょう。  そんな事も判らないのですか?明らかに矛盾しているではありませんか。  神が信仰を与えるのは、その神が存在していてどの様な神であるのかをある程度知っている人に対してだけなのですから、信仰を得るためには「教え」を教えてもらう事が前提となるのであり、質問者様の >すでに得られている信仰 とやらも《オシヘ》が無ければ成り立たないのですよ。  質問者様は「神」という言葉や、「信仰」という言葉を使っておられますが、それらの言葉はどうやって知ったというのですか?  「神」や「信仰」という概念や、 >信仰は神から与えられる という考えもまた《オシヘ》そのものの1つなのですから、 >《オシヘは要らない》 と言いながら、実際にはその《要らない》と言っている《オシヘ》に誰よりも囚われているのは質問者様御自身であり、その《オシヘ》を根拠として >《オシヘは要らない》 と主張しているのですから、これが矛盾と言わずに何と言うのでしょう。 >★  問題はありますよ。その問題とは、「質問者様自身が否定しておられる事」を「正しい事だと見做さなければ成り立たない」考えを質問者様が主張しておられるという点です。 >☆ そのように結論だけをボーンと投げ出すのではなく この点とこの点とが矛盾しているというふうに説明するのが ふつうの話し合いです。  1.~4.の様な「『教会が要るとする人』の『要る』理由」を否定する事には全くなっていない理由を挙げているだけで、いきなり >5. 《教会》は 要らない。――表現の自由また結社の自由のもとに存続したとしても。 という結論だけをボーンと投げ出している質問者様にその様な事を言われる筋合いは御座いません。 >現実に《教会はある》し《オシヘも語られている》。ならば それらが要らないと言っても その命題とそして現実とは 相容れないふたつのことであるではないかと。  何を頓珍漢な事を言っておられるのですか? 全く、質問者様は勘違いばかりをしておられるのですね。 >いったい どういう生活をしているのですか? そんなことで世の中で共同生活をすることなどは 出来っこないはずです。いったい どういう料簡なのでしょう。 とはこちらの台詞です。  「要らない」という事は「在ってはならない」という事ではないのだから、「要らない」という事は、他人に対して「『要らない』という考えを持て」と要求する理由には何らならなければ、「要らない」と殊更明らかにする理由にもならないのですよ。  つまり、 >意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 として、「意味のないことを言い続ける事」を問題にするのであれば、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という主張もまた、殊更明らかにする理由と呼べる様なものが無い事柄に過ぎず、「繰り返して言い続ける意味がないこと」なのですから、 >意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 と回答者を非難するのであれば、まず質問者様御自身が行っている「意味のないこと」をやめてからにすべきであり、それが出来ないのであれば、質問者様には回答者を非難する資格はないと申し上げているのですよ。 >これは もう人間の手に負えません。人間の考えではありません。成り立っていません。取り扱い不能です。 >《実在している》と判断していることが 問題なのです。  全く質問者様はご自分で何を言っているのかも理解どころか記憶すらしていないのですね。 >もう人間の手に負えません。人間の考えではありません。成り立っていません。取り扱い不能です。 とは質問者様の事です。  質問者様はエレミヤ書の預言という普遍神がもたらした預言が実現する事を前提とした考えを正しい考えであるとして主張し続けているのですから、質問者様は >《実在している》と判断している という事になります。  従って、 >《実在している》と判断していることが 問題なのです。 という事であれば、問題があるのは質問者様の方です。 >エレミヤ書すなわちへブル書8章について まったく無視しているのではないかという批判点を示しています。  エレミヤ書の預言が無視されているという事実は存在してはいないのですから、既に何度か申し上げた通り、その批判は筋違いです。  預言が「成就した後の状態」と「未だ成就していない状態」を混同してはいけません。

bragelonne
質問者

お礼

 何を言ってんですか。    神は或る日或る時やって来て わが心の窓をノックする。  《かみ》という言葉はそのときまでに 人びとが使っているのを見て知っていたゆえ そのノックは 神の――まぁ 霊としてのですが――おとづれであるかと捉えた。そこで これを・ということは神という名をわが心に 心としての領収証を発行して 受け容れた。  神という言葉を知っているだけでよい。オシへなどは 要らない。  オシヘにへばりつくようなそのオコゲみたいなこびりつきから自由になりなさい。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  質問者様はエレミヤ書の預言という普遍神がもたらした預言が実現する事を前提とした考えを正しい考えであるとして主張し続けているのですから、質問者様は   >《実在している》と判断している  という事になります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それが 思い込みです。  神はつまり普遍神は ナゾです。人間にとっては《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何ものか》です。  これは 《無限・絶対》としても 経験合理性にもとづき 説明されます。  《無限》は 二で割っても三で割ってもその商は やはり元の無限なのです。∞ ÷ 2 = ∞。  こんなものが どこに《実在している》のですか?   ★ エレミヤ書の預言が無視されているという事実は存在してはいない  ★ 預言が「成就した後の状態」と「未だ成就していない状態」を混同してはいけません。  ☆ ぢゃあ たとえばそのように《「未だ成就していない状態」にある》と この預言についてはこたえるべきです。いままでに何度も その問いはして来たのですから 答えているべきでした。  そして 成就がまだだというのなら 預言は 人間とその歴史に関わりを持っています。  こちらは 理論上すでに成就したと見るというひとつの見方を提出している。ということなのですから そのようにまづは受け留めその上で話をすすめなければならないはずです。  これまでの態度は いったい何だったんですか。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
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回答No.37

B様、こんばんは。 >「4. 《民会(エクレシア > エグリーズ;イグレシア;キエーザ)》は そのまま《世界たるチャーチ(または 〈無いチャーチ〉)》の支所である。一般に自治体のことである。そのまた分室である。」 >「7. 教会は要らない。一般のコミュニティーセンターだけでよい。(図書館・文化芸術センターをもつけて)。」 いずれも「税金に基づく」ということですか。 「税金に基づく」というのは、民主主義では「(他者の)信教の自由」を侵害出来ないですね。 (ゆえに?)「信教の自由」という観点からは、《教会》の存続意義は、あるのでは? ・・・(代わりに、税金で(やっちゃえ?))という議論よりは。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ いずれも「税金に基づく」ということですか。  ☆ 名前を《共同拠出金》に替えて それに基づきます。  ただし この基金によってつくる《コミュニティーセンター;図書館・文化芸術センター》は 宗教とはいっさいかかわりがありません。  もっともそこに参加する人びとについて 個人として取り上げしかもその心の内面だけを問題とすれば むろんそこにそれぞれが自由な信仰を持っているはずです。ですが この信仰も 人びとの集まるセンターとは 直接の関係はありません。  あと 宗教としての従来の教会は 表現の自由および結社の自由にもとづく限りで 当分は存続するでしょう。  むろん そこにも基金はかかわりを持ちません。

  • kagakusuki
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回答No.36

>☆ すでに得られている信仰ゆえに・そのヒラメキをとおして・ということは ここで実際には経験思想の問題として そのように見解を述べているに過ぎません。  それは質問者様が >信仰は 神からあたえられるものです。人間が自由にかたちづくるものではありません。 と述べて否定している事そのものではありませんか。  質問者様の考えは、質問者御自身がしてはならないとしている事を自ら犯している事が前提となっているのですから、その様な考えは成り立たないと申し上げているのです。 >それについて 誰もが自由に賛成したり反論したりすることがあります。  またもや勘違いをしておられますね。  私は「誰もが自由に賛成したり反論したりすること」をおかしがったり、否定したりなどしておりませんよ。  質問者様がその考えで否定している事を、質問者様御自身が犯さねば成り立たない主張をしておられるので、その様な主張をする事は「『要らない』事をしている」だけだと申し上げているだけです。  その様な矛盾した行為を繰り返さねば主張する事が出来ない考えなど、誰にとっても「要らない」ものに過ぎないという事です。 >☆ 何かのことでそれを主題として考えることに 何の問題もありません。意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。  問題はありますよ。その問題とは、「質問者様自身が否定しておられる事」を「正しい事だと見做さなければ成り立たない」考えを質問者様が主張しておられるという点です。  つまり質問者様の考えは最初から破綻していると申し上げているだけでなのですから、 >誰もが自由に賛成したり反論したりすること >何かのことでそれを主題として考えること を問題にしている事にはなりません。  従って、質問者様の仰る事は何の反論にもなっておません。  大体、 >何の問題もありません。意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 と仰るのであれば、「教会が存在する事」や「教えが語られる事」には何の問題も無いというのに、質問者様はそれを問題にしておられます。  質問者様はそんな意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。 >★ その無根拠である普遍神が実在している事を前提としておられる >☆ 《実在するもの》が どうして《無根拠》なのでしょう。ここまで来れば 精神錯乱でなくて何でしょう。  《無根拠》と言っているのは質問者様御自身ですよ。私は単にその事を否定しなかっただけの話に過ぎません。  従って、もしも《無根拠》と見做す事が精神錯乱ならば、質問者様が精神錯乱をしておられるという事です。 >無根拠を根拠として――ヒラメキをとおしてという意味です―― 経験的な事柄をめぐって問題を提起しそれについて 自分の考えを述べることに何の問題もありません。  それならば、教会や教えを必要なものとしている数多くの人々の考えもまた、「ヒラメキをとおして」得られたものである事に変わりはなく、その一方で >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはあくまで「要らない」という事しか意味しておらず、「在ってはならない」というものではないのですから、「『ヒラメキをとおして』得られた『教会や教えは必要である』という考え」がある以上、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒという事にマチガヒはない事になります。

bragelonne
質問者

お礼

 いったいどこが矛盾していると言うのでしょう?  どういう勘違いをすれば そんな考えになりましょうか。  ☆☆ すでに得られている信仰  ☆☆ 信仰は神から与えられる  ☆ どこがどのように矛盾しているのでしょう。  次の段落の《矛盾》も分かりません。どこで相反することを言っていますか?  ★  問題はありますよ。その問題とは、「質問者様自身が否定しておられる事」を「正しい事だと見做さなければ成り立たない」考えを質問者様が主張しておられるという点です。  ☆ そのように結論だけをボーンと投げ出すのではなく この点とこの点とが矛盾しているというふうに説明するのが ふつうの話し合いです。  ★ 「教会が存在する事」や「教えが語られる事」には何の問題も無いというのに、質問者様はそれを問題にしておられます。  ☆ ひょっとして 次のようなことを言っていますか?  つまり 現実に《教会はある》し《オシヘも語られている》。ならば それらが要らないと言っても その命題と そして現実とは 相容れないふたつのことであるではないかと。  開いた口が塞がらないとは このことです。  カトリックの教会の神父は――世界各地で複数において―― 児童の性的虐待を犯している。という現実がある。ならば それを批難しバチカンを批判しても 仕方がない。というようなあなたの反論内容です。  いったい どういう生活をしているのですか? そんなことで世の中で共同生活をすることなどは 出来っこないはずです。いったい どういう料簡なのでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >★ その無根拠である普遍神が実在している事を前提としておられる   >☆ 《実在するもの》が どうして《無根拠》なのでしょう。ここまで来れば 精神錯乱でなくて何でしょう。  《無根拠》と言っているのは質問者様御自身ですよ。私は単にその事を否定しなかっただけの話に過ぎません。  従って、もしも《無根拠》と見做す事が精神錯乱ならば、質問者様が精神錯乱をしておられるという事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは もう人間の手に負えません。人間の考えではありません。成り立っていません。取り扱い不能です。  《実在している》と判断していることが 問題なのです。  最後の段落は すでに何度も触れて来ています。  聖書を共通の要素と捉えるならば エレミヤ書すなわちへブル書8章について まったく無視しているのではないかという批判点を示しています。  いったい何度こちらの話を無視すれば気が済むのですか。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.35

>《神の行為はない》。 >そして 《〈これこれが神のおこなった行為である〉と言ったり他人に説いたりする人間はいる》ということです。  それで良いではありませんか。  そういった人間を必要としている人間が存在しているのですから、そういった人間のためにも教会や教えが必要であるのは間違いない事なのですから。  つまり、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒという事になります。 >☆ その預言の内容が 《狭い・神のオシヘに狭くかかずらわっていてはならない》と言っています。 などと仰っておられる事自体が、「狭い・神のオシヘに狭くかかずらわって」いる事に他ならないのですから、《狭い・神のオシヘに狭くかかずらわっていてはならない》としておられる以上、質問者様の考えがマチガヒという事はマチガヒないと申しているのです。 >★ それは宗教が信仰から出かけているのではなく、質問者様が神に対する信仰心を失いかけているという事です。 >それは 人間としてのあなたの判断です。 >《普遍神》は 人間の誰がみとめて誰がみとめないということがあっても 何の影響も受けません。  《普遍神》が人間に影響されるかどうかの話などしておりませんよ。  それにもかかわらず、私が質問者様の信仰心の有無に関して述べた事に対して、 >人間としてのあなたの判断です >《普遍神》は(人間の判断には)何の影響も受けません と仰っておられるという事は、質問者様は 「自分の信仰心が何かの影響を受けるという事は、《普遍神》が影響を受ける事だ」 と考えておられる事になります。  つまり、質問者様は御自身の事を《普遍神》であると見做して、「自分は普遍神なのだから、その自分が持っている信仰心も、回答者の判断になどには何の影響も受けない」と仰るのですね?  それはそれは傲慢極まりないお考えですね。 >☆ 信仰は 神からあたえられるものです。人間が自由にかたちづくるものではありません。  それならば、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 などと主張して、信仰を自由にかたちづくるのはマチガヒなのですから、止めて下さい。 >>世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 >滑稽な事を仰いますね。一体何のためにその様な事をする必要があるのですか? >宗教が《要らない》のであれば、その様な考えなど《要らない》ではありませんか。 >☆ 残念ながら 意味不明だと思います。  「宗教とそのオシへから自由」という事は、即ち、「宗教が《要らない》」という事であり、「宗教とそのオシへから自由」である以上、宗教に関する事でどうした方が良いとも、どうすると悪いとも考える必要はない(つまり「要らない」)という事です。只単に質問者様個人が、宗教に関わらずに過ごせば良いというだけの話です。  それにもかかわらず、ここでこうして宗教に関する事でああでもないこうでもないと散々拘っているのですから、 >世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 と主張している質問者様御自身が、最も「宗教から自由」ではなく、その上、キリスト教の考えとは異なる制限を質問者様御自身が勝手に設け、キリスト教の教義以上に御自分を縛ってしまっておられるのですから、滑稽だと申し上げているのです。  つまり、 >世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。 と主張している事自体が矛盾した行為であり、「『要らない』事をしている」だけに過ぎないのです。 >普遍神というのは 無根拠のことです。無根拠という根拠です。  質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えは、その無根拠である普遍神が実在している事を前提としておられるのですから、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えには根拠が無く、それ故、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 というなどは出来ないと申し上げているのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  意味を成さない文章ばかりです。  一例です。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~   >《オシヘは要らない》   >《教会》は要らない。  などと主張して、信仰を自由にかたちづくる  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ すでに得られている信仰ゆえに・そのヒラメキをとおして・ということは ここで実際には経験思想の問題として そのように見解を述べているに過ぎません。  信仰の成立について 順序が違います。  オシへは 経験思想です。人間の言葉で書かれたものですから。  それについて 誰もが自由に賛成したり反論したりすることがあります。  つまりそのようなことについておかしがるのは 何の意味をも成さない文章です。  ★ ここでこうして宗教に関する事でああでもないこうでもないと散々拘っている  ☆ 何かのことでそれを主題として考えることに 何の問題もありません。意味のないことをどうして そのように言い続けるのでしょう。  ★ その無根拠である普遍神が実在している事を前提としておられる  ☆ 《実在するもの》が どうして《無根拠》なのでしょう。ここまで来れば 精神錯乱でなくて何でしょう。  無根拠を根拠として――ヒラメキをとおしてという意味です―― 経験的な事柄をめぐって問題を提起しそれについて 自分の考えを述べることに何の問題もありません。  いったい何を食べたら そういう錯乱に落ち入るのでしょう。

  • kagakusuki
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回答No.34

>つまり神の《行為》は ありません。  つまり質問者様は、質問者様が仰る様な >エレミヤ書およびそれを承け継いだへブル書のしるすあたらしい契約 などはないと仰るのですね。  ぢゃあ >教会でも――教会は存続したとしても―― もう主を知ることに関するかぎりでのオシへについては いっさい触れない という事にはならないのですから、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒという事は論を待ちませんね。 >旧約やそのオシへやヤハヱ―神までもが揚棄されたのなら もう過去には用はないことになります。(ないがしろにするという意味ではありません)。  それならば、質問者様が根拠にしておられるエレミヤ書の預言に囚われて考える必要などない訳ですから、質問者様の >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えはマチガヒという事ですね。 >人びとよ 神という神またそのそれぞれのオシへに狭く固定されるのではなく  滑稽な事を仰いますね。  「エレミヤ書の預言」というたった一つの《オシへ》にのみ狭く固定されて考えて、それ以外の事に目を向けない考えを主張しておられるのは質問者様御自身ではありませんか。 >宗教は ワタシの信仰から外に出かけてしまっているのです。  それは宗教が信仰から出かけているのではなく、質問者様が神に対する信仰心を失いかけているという事です。 >世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。  滑稽な事を仰いますね。一体何のためにその様な事をする必要があるのですか?  宗教が《要らない》のであれば、その様な考えなど《要らない》ではありませんか。  質問者様は、御自身が根拠としていた事自体をも否定しておられるのですから、質問者様は何も根拠もないまま >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 と主張しているに過ぎないという事です。  従って、 >どうでしょうか という御質問に対しては 「何の根拠も示さずに只主張しているだけの妄言としか言えません」 というもの以外の答えが見つかりません。

bragelonne
質問者

お礼

 《神の行為はない》。  そして 《〈これこれが神のおこなった行為である〉と言ったり他人に説いたりする人間はいる》ということです。  ★ 「エレミヤ書の預言」というたった一つの《オシへ》にのみ狭く固定されて考えて  ☆ その預言の内容が 《狭い・神のオシヘに狭くかかずらわっていてはならない》と言っています。  ★ それは宗教が信仰から出かけているのではなく、質問者様が神に対する信仰心を失いかけているという事です。  ☆☆(No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~  それは 人間としてのあなたの判断です。  《普遍神》は 人間の誰がみとめて誰がみとめないということがあっても 何の影響も受けません。  だれがその神をほめたたえようが誰がけなそうが 神は痛くも痒くもないのです。  あなたは 普遍神が嫌いだいやだと言っているだけのことです。ご自由に。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 信仰は 神からあたえられるものです。人間が自由にかたちづくるものではありません。  神からわが心の窓をノックされたとき それについて受領証を発行して 受け容れますというこちらからの人間としての意志行為をおこないますが それはあくまで受け身において成り立ちます。  《神に対する信仰心》を人間が神からの音づれの何もない所でその自由意志によって持つとか それを捨てるとか そういう問題ではありません。  おのれの意識として《神を持った・捨てた》ということはあり得ますが それは・それが 普遍神ではなくただの人間がつくった神だという意味です。それが 宗教です。――普遍神の信仰とは 何の関係もありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~   >世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。  滑稽な事を仰いますね。一体何のためにその様な事をする必要があるのですか?  宗教が《要らない》のであれば、その様な考えなど《要らない》ではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 残念ながら 意味不明だと思います。  ★ 質問者様は何も根拠もないまま  ☆ 意味を取り違えるおそれはありますが 表現だけを取り上げて考えを述べるなら そのとおりですよ。  つまり 普遍神というのは 無根拠のことです。無根拠という根拠です。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.33

>漠然としていて 着実にすすんでいるといったかたちを見てとればよいのではないでしょうか。  滑稽な事を仰いますね。  もし仮に預言が成就していないにもかかわらず、その預言が「果たされつつある事を持って成就と見做せる」のであれば、預言に書かれている出来事が将来において起きる事は確定事項なのですから、未来においてエレミア書の預言通り >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになる のであれば、エレミヤ書の預言など無くとも、いやエレミヤが預言を授かるずっと以前、天地が創造される以前の内から「エレミヤ書の預言にある事柄」が、 >着実にすすんでいる という事に変わりはないのですから、エレミヤ書の預言が >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるから >人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。 というものである以上、アダムが創造された時から既に >彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになる という状態になる事が成就されていると見做さねばならないという事になり、全ての預言で語られている事は主に関する事である以上、「全ての預言で語られている事はその全てが全人類に知られつつある」という理由で、人類は預言が授けられる前にその内容を知っている事になってしまいますので、そもそも神が預言者に預言を授け、預言者は授かった預言を口外したり、書物に残したりする事は「要らない」事、即ち無意味な事という事になるのですから、預言と呼ばれるものは最初から存在している筈がないではありませんか。  しかし実際には様々な預言が伝えられています。  つまり、預言が成就した事と、成就していない事を同じものと見做す >そういったかたちでの約束の実現であり つまりあるいは預言の成就だと捉えます。 >漠然としていて 着実にすすんでいるといったかたちを見てとればよいのではないでしょうか。 という考え方は成り立たない、即ちマチガヒという事なのです。  そんな簡単な事まで態々説明しないといけないとは疲れますね。 >預言の内容が すべて自分の思うように・自分の思い描く姿のごとくに 実現しなければ気が済まないという心ですね。  何処をどう取ればその様な勘違いをしてしまうのか信じられない話ですが、全く違います。  質問者様の考え方は神の御言葉を不要のものと見做す事で、神の行為自体を否定しているにもかかわらず、御自身の考え方の事を宗教的に正しいと見做しているので、それは矛盾しているので成り立たないと申し上げているだけです。 >これこれの言葉・これこれの命題があるから 早くそのように成れ! と言い続ける。  一体誰がその様な事を言い続けていると仰るのですか?  質問者様お得意の架空の宗教ではその様に言い続けているのですか?  キリスト教では主の御心に適う生き方をする事が本人の幸いに繋がるとされているだけで、幸福になるのも、不幸になるのも自由ですよ。 >もしくは 神に指図する存在なのか?  つまり質問者様は、人間が >これこれの言葉・これこれの命題があるから 早くそのように成れ! という言葉に従う事によって、神の御計画が成就される時を早める事が出来る、即ち人間の行為が神の行動に影響を与える事が出来るので止めるべきだと考えておられるのですね。それはとても傲慢な考え方ですよ。 >わたしが去って行ったら 聖霊を送るからと言っていた。  主イエスは、「神の賜物のことを知り、また、私を知っている者は自分からその精霊を受け取る」という内容の事を仰って、その聖霊を受け取る事が出来るのは「私を知っている者」である事が条件である事を示した上で、その場にいる者に対してその場にいなかった者を自分の所に呼んで来る様に仰っておられます。  つまり、「イエスの事を教える」ための「教え」を知っている者が知らない者に対して教える必要がある事を、イエス御自身が説いておられます。  従って、 >《オシヘは要らない》 >《教会》は要らない。 という考えがマチガイである事にマチガヒはありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神の行為自体を否定  ☆ ここが 問題になります。  つまり神の《行為》は ありません。あっても人間には分からないものです。永遠にです。  信仰の心の庭にヒラメキ(インスピレーションですね)が得られて その内容を預言としてほかの人びとに公表することがあります。  つまり 神のことばが預言として告げられることとその預言が人類の歴史においてどのような出来事と関係しているかとは 直截につながっているかどうか。それは人間には分からない。という前提があります。  旧約聖書の時代は ユダヤ民族の中での預言と歴史の事件との関係でしたから 割り合い――と言ってもそれを比較するほかの民族の事例もあるとも思えませんが――分かりやすかった。  いわゆるバビロン捕囚という出来事がありました。ユダヤ人の国はほろびました。そういった事件が預言されていたとすれば その言葉と事件とをつなげて捉える。ということでした。    これまでわたしが言って来たことと矛盾するようなことを言いますと――なぜなら もとからそういう見方をしていたという告白になっているからなのですが―― イエスの登場する以前(つまり旧約の時代)は そのようの預言者も出たということで 人間と神とが 人びとの思いとしては 直接につながっていたとも言おうと思えば言える。  イエスの登場を境として この預言による神と人びととのつながりが 基本的になくなったという見方です。人びとが共有するような《神と人びととのつながり》はです。    言いかえると 旧約の時代は 神とわれとの関係としては すべて新約によって揚棄された。ヤハヱ―という 民族神も普遍神に揚げて棄てられた。わけです。  極端に言えば その歴史はなかったことになります。信仰という問題としてアブラハムのそれが はじめから新約の時代までつづいている。  信仰は 《非思考の庭》とわたしは呼んでいますが 要するに《わたし》の内なる世界であって 外とは・他者とは 直接のつながりはない。ということをも意味します。  イエスの指し示した普遍神が 世界の人びとに受け容れられるなら 神とのあいだの原罪であるとか(ふつう一般の罪についても 神によるさばきにかかわらせたその罪の扱いなど)あるいは いま問題にしている広い意味での・神にかかわるオシへであるとかは――エレミヤの預言がなかったとしても―― 公共の場では問題にならない。ということです。  すべて神とわれとの関係の問題は 信仰として《わたし》の内なる世界にとどまるということです。  このことが 《漠然としかし着実に世界に知られ それが現実となるようにわれわれは歴史を歩んで来ている》という見方の意味です。    ★ 「イエスの事を教える」ための「教え」  ☆ すべては イエスの指し示した《真理――それのもとに恩恵をも告げ知らせましたが――》としての普遍神のことに帰着し そしてそれですべてです。  ユダヤの旧約の歴史があるからには そこで人びとの拠りどころとされて来た神の言葉(その意味で聖書)について いろいろとイエスも説明しなければならなかった。というに過ぎないでしょう 《オシヘ》というものにかんする話としてはです。  人類の歴史と世界は ユダヤ民族の話に限定されるものではないわけですから 旧約やそのオシへやヤハヱ―神までもが揚棄されたのなら もう過去には用はないことになります。(ないがしろにするという意味ではありません)。  もっとかんたんに言いかえるなら この《教会は要らない》という命題は 人びとよ 神という神またそのそれぞれのオシへに狭く固定されるのではなく 普遍神に着き心を開き 信仰はその心の明けとしての《わたし》の内なる信仰にとどめましょう。――と言っています。どうでしょうかと言っています。  宗教は ワタシの信仰から外に出かけてしまっているのです。そのオシへは 信仰と何の関係もありません。その限りで 普遍神とも関係ありません。  世界の人びとよ 宗教とそのオシへから自由に 生活しそれぞれ互いにマジハリを持ちましょう。という趣旨です。

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  • 教会の週報にて

    教会には、週報というものがあります。 4月10日 以下抜粋です。(個人名、宗教的な箇所は極力省いています。) 今日は知事選挙の日です。震災の影響もあってか、私たちの住む町の大切な首長選挙です。主のみこころがこの町に示されるよう祈りつつ投票に臨みたいものです。教会として特定の候補者を支持することはありませんが、私個人としては現職再選という結果にだけはなってほしくないと思っています。XX新聞では今回の選挙の争点としてXX市場の移転、XXX銀行の存続、XX招致の是非などが挙げられていますが、これまでの×政の継続を願うのかどうか、リーダーの資質面での問題などもきちんと見極める必要があるでしょう。少なくとも、教育現場における日の丸・君が代強制やアジア周辺諸国の人々へのあからさまな蔑視、社会的弱者に対する差別発言や今回の地震・津波に対する爆弾発言などは、どれ一つとっても決して見過ごすことのできない重大な問題をはらんでします。 確かにその知事に問題発言はあったと思いますが、牧師という職業である以上、人の悪口(に近い)は慎むべきでしょう。 思うのは自由だと思いますが、公でいう発言ではないでしょう。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 特殊絶対性仮説をデザートにどうぞ

     一般および個別絶対性なる理論に立つなら どういう実践ないし現実の生活となるのか?   これにこたえる必要があります。  普遍神〔とわれとの関係〕は 言葉や概念・理念の問題ではなく ちからの問題である。  これを明らかにするのが 特殊絶対性仮説です。  要するに:   ・名前の異なる神もみな 普遍神のシルシの違いに過ぎない      ・有る神のほかに無い神を 普遍神のシルシとする場合もある。互いに同等である。      ・普遍神とわれとの関係なるわが非思考の庭――つまり信仰――は そこから得ら    れる観想をオシヘとして・しかも――あろうことか――そのオシヘを信じなさいと他    人に説く宗教 この宗教とは〔信仰は〕 何の関係もない。  さしづめこれらの一般および個別絶対性についての説明内容に立つ信仰は その実践において 元気が出るということ。無根拠にあって元気が出るということ。  ――これが 特殊絶対性仮説です。実践ないし現実の生活の問題として 元気が出る これが その根幹としての内容です。  非思考ゆえ 無根拠においてです。  これが 基本として説明のすべてです。  ご批判を自由にどうぞ。

  • 一般および個別絶対性理論 (神論です)

    一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 存在を想定してなお模索する。ご検証を。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒7‐B。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本的に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒(#0) 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。  経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)   可知(認識しうるものごと)     既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)     未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)   不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得るが)  非経験の場(絶対性)   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心) --------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)       / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。         * 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2.シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。

  • 水による洗礼は 要らないのではないか

      1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. 《要る》の根拠は 《すくいは水と霊による》などの記述とそして神秘的なものであって おそらくはサクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  3. ユダヤ民族の初めには 基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとっての規範である律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  4. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらそれぞれの信仰の中の神にもどった。  5. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  6. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  7. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  8. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 宗教に関係なく 同じである。と成ったのではないだろうか?  9. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学についてそれらは有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  10. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるかも知れない。  11. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。  自由なスサノヲ人間語によるスサノヲ世界市民のまったき自由にもとづく見解を 思う存分あきらかにして ご教授ください。  なぜ 水によるバプテスマが まだなくならないのか? どうして必要か?

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。