• 締切済み

聖書はマニュアルであった

  一つはっきりした事。 どうやら聖書とは公会議議事録を積み重ねて作成したマニュアルであったということ。 325年~787年の間に日本からは地球の反対側にある地にて度重なる公会議が開かれ、そこで神の定義、神のネーミング、神の教え方、奇跡の手ほどき、世界の終末について議論されたのであった。 その公会議での議論の結果、神の名はイエス・キリストと決定された。 また神の教え方、奇跡の手ほどき、世界の終末について一般向けマニュアルが作成された。 そのマニュアルを用いて免罪符が発行され、教会が建てられた。 そのマニュアルが現在の聖書である。 現在のネット社会にはマニュアルが氾濫しているが、マニュアルの元祖は聖書ということになる。 およそこのような理解で良いのではないか。    

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

soodann1様、こんばんは。 「「あまりに愚かだから、なんとかしよう」というのが趣旨であった」で良いのではないか

soodann1
質問者

お礼

「「あまりに愚かだから、なんとか騙そう」というのが趣旨であった」かもしれんよ。

  • KoalaGold
  • ベストアンサー率20% (2539/12476)
回答No.2

マニュアルであることは賛成ですが、人間が人間を統治するために作ったもので、その他神とか地球の反対側とかはどうでもいいです。 混沌の世の中に秩序を作りたいと各国が別々に規則を作り、地域ごとにはそれでいいのですが、すると国同士の縄張り争いと主義主張の違いが争点になるので(未だにそうです)、国境を超えたマニュアルを作ろうとしたのでしょう。 いわば多国籍企業で宣教師は突撃営業です。

soodann1
質問者

お礼

  >マニュアルであることは賛成ですが、人間が人間を統治するために作ったもので、その他神とか地球の反対側とかはどうでもいいです。 地球の反対側の地で作られた神とその教えを、そうやすやすと受け入れ信じて良いものなのか考えないのですかね。

回答No.1

マニュアルであろうと、神のネーミングであろうと、免罪符であろうと、教会であろうと 哲学であろうと、小さなことです。 要は人間としてのイエスの生き様を、少しでも模範として生きることだと思ってます。

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