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江戸時代後期から幕末。日中の生糸の品質。

Why-J-peopleの回答

回答No.3

日本の生糸輸出は太平天国の乱(1851-1864)による中国の生糸輸出の停滞と イタリアやフランスの蚕病(微粒子病)の流行(1860年頃)により急増した結果、 下記表の数値を一見する限りでは、中国と比肩と言えなくもありません。 ・京都学園大学>経済学部学会ホーム>論集>2011年度21巻2号 http://archive.kyotogakuen.ac.jp/~o_econ/society/treatises/index.php?ty=2011&tv=21&tn=2 ◇欧米で絹織物の経糸と緯糸に使用されたのは、 どのような生糸だったのか/大野彰 [4-6/53] ヨーロッパでは、蚕糸を売買する際に蚕糸検査所で検査を受けるよう請求する 場合があった。従って、蚕糸検査所の検査統計は、実際に行われた売買のうち の一定部分を反映していることになる。 ヨーロッパ最大の絹織物産地であったリヨン(フランス)の蚕糸検査所では、 オルガンジン(主として先染め絹織物の経糸として使用される絹撚糸)・トラム (たいていの先染め絹織物と多くの後染め絹織物の緯糸として使用される絹撚 糸)・無撚の生糸の3つに区分して検査量を公表していた。 これを徴すると、リヨン蚕糸検査所では、日本産生糸を原料として製したオル ガンジンが1862年には243俵(注;中国868俵)、1863年には687俵(注;中国561俵) だけ検査を受けていたことが判明する(表1)。 従って、開港後間もない1862年(文久2年)や1863年(文久3年)にも日本産生糸が ヨーロッパでも絹織物の経糸になっていたことは揺るがぬ事実であるといわな ければならない[9]。 1862年や1863年の段階では、日本にはまだヨーロッパの器械製糸技術は導入さ れていなかったから、この時にリヨン蚕糸検査所で検査を受けたのは手挽きや 座繰製糸によって生産された生糸であった。そうした生糸の中にもオルガンジ ンに加工されるものがあったということは、手挽きや座繰製糸であってもある 程度高い品質の生糸を作ることは可能だったということを示している。 [5/53] 表1 リヨン蚕糸検査所で検査を受けた蚕糸の内訳(単位:俵) /原産地/1862年/1863年/ ・オルガンジン/ 中国 / 868 / 561 /        / 日本 / 243 / 687 / ・トラム   / 中国 /5,877 /4,307 /        / 日本 /2,381 /3,284 / ・生糸    / 中国 /6,400 /3,793 /        / 日本 /6,352 /7,811 / (出所)Le Moniteur des Soies,Numéro90,6Février1864,p.1.より作成。 [6/53] 欄外注記 [9]もっとも、表1でオルガンジンの項とトラムの項を比較すると、日本産生糸 の多くはトラムに加工されていたように見えるから、オルガンジンに加工され て絹織物の経糸に回ったのは僅かであったことは否定できない。 これに対して特にイタリアのピエモンテ地方産生糸では、 そのほとんどがオルガンジン(注;1,370-1,253)に加工され、 トラム(注;186-216)に回っていたのは僅かであったことがわかる。 原則として経糸として使用されるのは品質が高い糸であるから、 ピエモンテ地方産生糸の品質は極めて高かったことになる。 ただし、上記数値とは別に日・中の品質となると、少なくとも幕末頃時点では、 下記各項目を読む限り、未だ中国に軍配と言わざるえないように思います。 ・京都学園大学>経済学部学会ホーム>論集>2014年度24巻1号 http://archive.kyotogakuen.ac.jp/~o_econ/society/treatises/index.php?ty=2014&tv=24&tn=1 ◇蚕品種に基づいて蚕糸業の間に成立したすみ分けについて ─1850年代から1920年代まで─/大野彰 [2-6/34] 2 吐糸の態様 A 日本の在来種 [7-9/34]         C 中国種 [9-13/34]3 セリシン含有量 上記ほか大野彰氏論文(2005年度15巻3号以降~PDF有)参考URL http://archive.kyotogakuen.ac.jp/~o_econ/society/treatises/index.php なお、ヨーロッパから黄繭種が導入されたことやセリシンの流亡を防ぐために 濁った繰り湯で生糸を挽くようになったことなどから日本産生糸の抱合度が全 般に向上したのは、1900年代に入ってからのようです。 また、下記では長崎で「最後に白糸が輸入されたのは1816年」とあります。 ◇日本産業革命に対する再考/吉田一郎 〔新潟経営大学紀要 14,105-114,2008-03-25〕 http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/handle/10623/22407 [8/11] 西陣への登せ糸の量は、しだいに増加し輸入品である白糸にかわって和糸が生 産されるようになった。しかし、いつごろ西陣で生糸が白糸から和糸へと転換 したかという詳しい研究は存在しない。 田代和生氏は西陣で使用される原料糸の国産品への切り換えの時期は、1710年 代から30年代の間に緩やかにおこなわれたと推定している。 田代氏は和糸の実際の増産時期は、輸入糸激減期からかなり後年にずれると考 えている。そして、輸入糸から和糸への切り換えには、約70~80年間の時期を 要していたと推定している。 長崎貿易に関して永積洋子氏が訳出された『唐船輸出入数量一覧』に現われる 白糸の量をみると1742年に65,314斤もまだ大量に白糸の輸入があり、翌43年も 24,366斤となっている。白糸の輸入が激減するのは18世紀後半であるようであ る。 [9/11] 『唐船輸出入品数量一覧』をみると、最後に白糸が輸入されたのは1816年であ る。 一方『吉田松陰の実学:世界を見据えた大和魂/木村幸比古/PHP新書/2005.5』 には、「京都西陣の問屋は西陣織の原料として、中国産の白糸を対馬藩から金 銭借りで輸入し、明治五年までつづいたが、その後、輸入は明治新政府に接収 された。」との記述もあるようで、 https://books.google.co.jp/books?id=8PVIBwAAQBAJ&pg=PT26&dq=%E8%A5%BF%E9%99%A3%E7%B9%94%E3%80%80%E7%99%BD%E7%B3%B8%E3%80%80%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E8%97%A9%E3%80%80&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%E8%A5%BF%E9%99%A3%E7%B9%94%E3%80%80%E7%99%BD%E7%B3%B8%E3%80%80%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E8%97%A9%E3%80%80&f=false 幕末の対馬藩の実態は(私には)謎のままです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

念入りに調べて下さって真にありがとうございます。 物凄く専門的ですね。 何回か読みましたが、とてもじゃないですが理解できません。 論文「欧米で絹織物の経糸と緯糸に使用されたのは、どのような生糸だったのか」の 「表1 リヨン蚕糸検査所で検査を受けた蚕糸の内訳(単位:俵)」を見ても、この表から日中の生糸の品質の差を導き出せるのか、知識がないのでよく分かりません。 そこで、リヨンの検査をキーワードに論文を探してみますと、ある論文で次のような一節を見つけました。 「1858年以来リヨンで実施されていた日本絹の試験的使用の結果が良好で、60年代の初頭からリヨン絹工業の日本絹への依存度が急増していった。それに伴って63年以後横浜に進出するフランス商人が顕著な増加を見せ、一方、中国へのフランス商人の進出も停滞傾向にあったことからも、日本生糸の品質的優位性が窺われる。もちろん、日本生糸の品質はヨーロッパ市場において決して最高なものだったとは言えない。」 次の論文「蚕品種に基づいて蚕糸業の間に成立したすみ分けについて」は、ある程度は分かりましたが、1890年代以降の話が主なので、私が知りたい幕末の時代のことは少ししか出てきません。 1890年代以降の話ですが、日中の品質に関して興味深い箇所を抜粋します。 1.中国産生糸がヨーロッパ市場で高いシェアを獲得した理由は極めて単純明快。 中国産生糸は、主に細糸を使用しており、その種の生糸をヨーロッパ市場が必要としていたから。 これに対して日本種の吐く繭糸は太かったから、そもそも細糸の生産には適していなかった。 2.光沢に富み硬質で豊靱な風合いが要求される分野は上海産器械糸、これに対して光沢を要さず柔らかい風合いが求められる場合には日本の信州産生糸が使用された。両者の間にはすみ分けが成立していた。 新潟経営大学紀要「日本産業革命に対する再考」。 この資料から関連事項をまとめました。 1.西陣で使用される原料糸は、1710年代から30年代の間に徐々に中国産から国産に切り替わった。 2.その裏づけとして、『唐船輸出入数量一覧』に現われる白糸の量が18世紀後半に激減している。 3.『唐船輸出入品数量一覧』をみると、長崎で最後に白糸が輸入されたのは1816年である。 農民の絶え間ない、地道な努力が実って品質が向上して、西陣の原料糸に国産糸が使われるようになった、ということで当然だと思います。 だからと言って中国産より良くなったとは言えませんが、国産でも十分な品質であったとは言えると思います。 『吉田松陰の実学:世界を見据えた大和魂』によれば、 西陣は、明治5年まで対馬藩経由で中国産を輸入しているのですね。 数量不明ですが、中国産でなければ出せない“風合い”を求めたのでしょう。 “住み分け”に通じる話だと思います。 結論です。 幕末から明治初頭までのころ、日中どちらか一方を採り上げて「品質が悪い/よい」とは断定できないと思います。 中国では、太平天国の乱(1851-1864)があったので、中国生糸の輸出量減退と質的低下をもたらした、とする見解もあります。 日本では、一部の商人の商道徳の低下があって、粗製乱造でなんでもかんでも出荷して、日本産の評価を低下させています。 他にも論文を読みましたが、日本人が執筆したものばかり読んでも不公平だと思いました。

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