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徳川家康、移動時の護衛。

徳川家康は、慶長8年(1603)2月12日、征夷大将軍に任じられてから、慶長8年、同9年、同10年、同11年と毎年江戸・京(伏見城)間を行き来していますが、どの程度の規模の護衛が付いたのですか。 襲われたとか、それを未然に防いだとか、というようなことはありましたか。 江戸を、あるいは伏見をいつ出発したかは丸見えのはずですよね。 この当時、スキあれば家康に反旗を翻してやろうと企んでいた豊臣恩顧の大名はいましたか。 それとも戦国の世では、「お家大事で勝ち馬に乗る」のが第一で、せっせと天下普請のお手伝いに励むほうが得策だと判断していた、と理解すべきでしょうか。 よろしくお願いします。

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  • Kittynote
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回答No.4

遅ればせながら…^^ 情報元の真偽は別としましても 何らかの記録がないと手が出し辛い御質問ですね。 さっそく、真偽は別として(><) 既に御存知かもしれませんが、 下記エピソードなどは如何でしょうか? 東照宮御實紀卷八 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917811/61 <61-63/520>(105頁上段19行目~108頁下段6~19行目) ○(※慶長九年)三月朔日御上洛あるべしとて江戸を御發輿あり。… …○(※慶長九年三月)廿九日快晴。伏見の城に着せ給ふ。畿内西北國よりこれ に先立て都にのぼりたる諸大名追分まで出てむかへ奉る。 時に鑓二柄。長刀一柄。狹箱二。御先追ふ歩行士廿人ばかり。乗輿のあとより 騎馬のもの十人ばかり從へすぐる者あり。 諸人定めて本多上野介正純にあらずやなどさゝやきしが。あとより來る下部に とへば。將軍家にわたらせ給ふといふに大に驚き。伏見邊にて追付しかば御輿 をとゞめられ。各これまではるばる迎へ奉りし事を謝し給ひて御入城あり。 御簡易御眞率の事と驚歎せざるものなし。御旅中も御供の騎馬十廿卅騎ほど わかれわかれにのりつれ。思ひおもひに物がたりし。其中には手拍子打て小歌 をうたひ。片手綱にてさゝへの酒のみながらまいりたる事なりしとぞ。… …【御年譜。西洞院記。板坂扑齋覺書。當代記。】 なお、上洛供奉の動員数に関しまして、 秀忠(慶長十年二月二十四日江戸→三月二十一日伏見)10万、 家光(寛永十一年六月廿日江戸→七月十一日京)30万7000、 などは直ぐに拾えますが、家康となりますとなかなか見つかりません。 あと、上記の10万、30万7000の何れにしても、 何日も前から分かれての供奉に過ぎず、 動員数最大規模になるのはせいぜい大津・伏見間程度で、 また、秀忠(慶長十年五月十五日伏見発)に関しましても、 例えば『當代記卷三』<51/274>(89頁上段4-5行目)には、 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/51 「此此今度上洛之關東衆依(=)將軍仰(-)、先立て思々下國、」ともあり、 供奉動員数と護衛とは分けて考える必要はありそうですね。 上記『當代記』のほか、 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/7 『武徳編年集成』 http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-026301 <1654/2812>慶長七壬寅年正月 <1679/2812>慶長八癸卯年正月 <1699/2812>慶長九甲辰年正月 <1713/2812>慶長十乙巳年正月 <1747/2812>慶長十一丙午年正月 など時間を見つけてはアチコチ飛ばし読みしていますが、 なかなか捗りません。 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 警護体制から家康の「安心感」を推し量ることができるのでは、と思って質問しました。 関ヶ原の戦い後、石田三成に与した大名勢を悉く改易して、安泰になったはずですが、実際はどうなのだろうと想像していました。 秀頼は幼少とはいえ、堅固な大坂城に健在で、関ヶ原では共に徳川方で戦ったとはいえ、豊臣恩顧の大名もいましたから、慶長9年の上洛の警備体制は特に気になっていました。 『東照宮御實紀卷八』は読んでいませんでしたから、 「御簡易御眞率の事と驚歎せざるものなし。」と知って、びっくりしています。 東海道筋は全て譜代で固め、三河・尾張は地元ですから、江戸から大勢引き連れての“大名行列”をする必要はないだろうと思っていました。 しかし、征夷大将軍になって初めての上洛ですから、警備上の問題だけではなく、権威を誇示するためには数千人は引き連れていたのかも、と思っていました。 それにしても 「御旅中も御供の騎馬十廿卅騎ほどわかれわかれにのりつれ。思ひおもひに物がたりし。 其中には手拍子打て小歌をうたひ。片手綱にてさゝへの酒のみながらまいりたる事なりしとぞ。」 の様子は、話半分にしても余裕たっぷりの道中ですね。 【御年譜。西洞院記。板坂扑齋覺書。當代記。】に出ている話なのですね。 内容がざっくばらんですから、元は、板坂扑齋覺書にあって、他はこの書からの引用でしょうか。 「熱海の温泉でゆあみ」なんて記事から推測すると、これが真実に近い気がします。 畏まって誇張して書かれた伝記では、「何千人もの士を従えて」と書きたいところです。 >家康となりますとなかなか見つかりません。 そうなんです。 でもkittynote様なら見つけてくださるのではないかと、期待して待っていました。 今回も疑問は解消できそうです。 ご教示に感謝申し上げます。 『慶長年中卜斎記/板坂卜斎/甫喜山景雄/明15.6』は、とても面白そうなのでゆっくりと楽しみながら読みます。

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  • Kittynote
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回答No.6

取り急ぎ失礼致します。 >伏見に居た、秀忠の小者共と家康の小者共それぞれ数千人が喧嘩して、 >手負いや死者が双方に数多く出た、とあります。 「双方二三千つヽの人數也、手負死人兩方に數多有(L)之、…」の箇所ですね。 この人数からすれば、家康には小者だけでも護衛(戦力になるかは別としても)が 少なくとも二、三千人は居たことになりますね。 実は、私も読んでいたのですが、 『大日本史料 第十二編之三』「慶長十年五月」(193頁)には 下記のように記述されています。 ・【慶長見聞錄案紙】上 五月八日、内府様之小者と、將軍家之小者共と、於江戸意趣有之、 雙方二三千(十カ)人出合喧嘩、手負死人數多有之、[○慶長見聞書同ジ] ・【當代記】三 (※No.4参考URLの『當代記』と内容に差異?※) 五月、此頃、當將軍秀忠在伏見シ給シ中、秀忠公ノ衆ノ小者共ト、 御所家康公ノ衆ノ小者共喧嘩、雙方二三十ツヽノ人數也、手負死人兩方ニ數多 有之、是ハ江戸ニテ之有意趣、如是ト云々、 [○武德編年集成、是月二十六日ノ條ニ、本條ニ類似ノ事ヲ載セタリ、 今左ニ附載ス] ・【武德編年集成】五十一 五月廿六日、頃日、武江ニ於テ、台德公近臣ノ奴僕ト、越前黄門秀康卿陪臣ノ 悴等ト遺恨有テ、荷擔ノ族互ニ多クソ、雙方二三十人闘死シ畢ンヌ、 少なくとも上記では「二三十人」と捉えている様子が伺えたため、 私の中では勝手にスルーしてしまった次第で、 No.4&No.5投稿では特に触れることもしないままでした。 でも、冷静に考えますと、人数が重要な要素の御質問にもかかわらず、 スルーしたのは私のミスでした。 まして kouki-koureisya 様が探求心旺盛な事は私も知っているはず(><) 見逃すはずはありませんね^^ 重要な情報をスルーしたこと、誠に申し訳ありませんでしたm(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

人数についての疑問に、わざわざいろんな資料に当たってくださって、真にありがとうございます。 よく分かりました。 伏見城、二条城合わせて常時二三千人の武士が城を守っていたと思います。 (ここまで書くと、ホントに何人くらいが常駐していたのだろうという疑問がでてきます。 とりとめのない私の妄想ですから無視してください。) この二三千人が、秀忠の軍勢の内の二三千人と喧嘩したとはとても思えません。 これでは「戦」です。 城内のどこかで小競り合いがあったのは事実で、それなら「雙方二三十ツヽノ人數也」が正しいのでしょうね。 小者が「手負死人兩方ニ數多有之」くらいの記述ですませていますから、大きな問題ともならず、責任者を処罰したこともないようです。 関ヶ原の戦いの経験者がいっぱいいるわけですから、“腕力で結着が正義”だったのでしょう。 「於江戸意趣有之」の方が気になります。(独り言ですから無視してください) >【武德編年集成】五十一 五月廿六日、頃日、武江ニ於テ、台德公近臣ノ奴僕ト、越前黄門秀康卿陪臣ノ悴等ト遺恨有テ、荷擔ノ族互ニ多クソ、雙方二三十人闘死シ畢ンヌ、 こんな事件もあったのですね。 「雙方二三十人」とは、数えたわけではない数、という意味だと気づきました。 秀康は「越前黄門秀康卿」と呼ばれていたのですね。 では、いつごろから中納言の地位を“黄門”と呼ぶようになったのだろうか、とすぐに脱線してしまいます。 これも独り言です。 大いに歴史を楽しむことができました。 感謝申し上げます。

  • Kittynote
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回答No.5

新ネタではありませんが、再度失礼致します。 前投稿No.4の『徳川実紀』「東照宮御實紀卷八」のエピソードに関しまして、 引書のうち家康の侍医板坂卜斎が軍陣、旅行、放鷹に随行し見聞したことを集 録した書とされる【板坂扑齋覺書】関連を調べてみましたところ、その写本 『慶長年中卜斎記』では下記のとおりで、 「東照宮御實紀卷八」の方は圧縮編集されているようですが、 『慶長年中卜斎記』と概ね内容は一致するようです。 (※私素人ゆえ一部判読出来ませんでしたm(_"_)m※) 〇『慶長年中卜斎記/板坂卜斎/甫喜山景雄/明15.6』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772758/39 <39/44>(30丁オモテ-30丁ウラ) …慶長九年三月廿九日に家康公從江戸伏見へ着御西國北國五畿内の諸大名御迎 に被出奉待候雨降候ヘハ松の木の下へ立寄人もあり思ひおもひに被立休所へ 鑓(?)二本長刀一狹箱二歩行の者二十余輩御乘物も雨の用心に包み廻し馬上十 余騎家中の道具もなし本多上野介にても候ハんかと被心得下々に尋候ヘハ大御 所様と申すにより諸人蒐走り追分を伏見ヘ下ル町にて追付候ヘは達御耳御乘物 を御止上の雨具を取乘物の戸を被爲明諸大名へ是迄遠々迎に御出と御禮被仰候 て伏見へ御通被成候偖(※さて)も輕き事と諸大名被驚候由御供の衆も伏見近く 候ゆゑ人々下々をハ先ヘ通し候總て江戸へ御下り被成候時御殿出御の時ハ御跡 ヘ馬上百騎も七八十騎もあり馬に沓 [△御泊に着御の時ハ馬上七八騎五六騎も有御跡〃御供の馬云々] 打候時ハ御跡へ下り御跡にハ御供の馬上五十騎三十騎又ハ廿騎十騎連立馬上に て思ひおもひの咄して通る道の能所にてハ數騎つれ立道あしき所にてハ左なし 御乘物 [△唄ひ歌の拍子いろゝ(??)なと□咄し笑行候さゝへに酒あれハ取出云々] の跡十騎計過てハ扇拍子にて小歌を唄ひ酒あるハ取出し盃ハなし馬の柄杓にて 呑又ハ小竹筒の口より直にも呑其内上戸を尋ねて先跡か知れ不申候ヘハ片手綱 にて馬を早道に乘片手に小竹筒を持先ヘ參候へハ尋不逢跡かとて半分走程に乘 酒を呑せ候ハんとて尋廻る成瀨隼人上戸なれハ切々の事なり…(後略)… ●『板坂卜斎覚書】<92-93/99> http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0026-12403&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E6%9D%BF%E5%9D%82%E5%8D%9C%E6%96%8E%E8%A6%9A%E6%9B%B8%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=92 以上 お騒がせしました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 まず、#4のご回答のお礼の続きからです。 この『當代記卷三』<51/274>の88ページ下段には、驚くような記述がありますね。 観世今春の能が催された日のことです。 伏見に居た、秀忠の小者共と家康の小者共それぞれ数千人が喧嘩して、手負いや死者が双方に数多く出た、とあります。 私は、「江戸城他の天下普請において、助役大名間で喧嘩がありましたか」と質問しようと思っていたのですが、この記事を読んで“まさか”と大いに驚いています。 しかも喧嘩の原因が“江戸にての意趣”だそうですから、「江戸の仇を伏見で」とは一体何があったのだろうとあれこれ想像して、またまた横道に逸れてしまいました。 『當代記巻四』には慶長11年の家康上洛の記事がありますが、「2月29日、大御所江戸を御立」と素っ気無いですね。 『武徳編年集成』では「3月15日、神君江城を発途玉フ」となっています。 伏見へ出かけるのは恒例であるから供奉した者が誰であるとかは、わざわざ記録するに値しないという感じがします。 興味深いのは“江城”の表現で、何箇所も出てきます。 江戸城を幕臣は、“江城”と呼んでいたのでしょうか。 『武徳編年集成』という資料を知らなかったので大変参考になりました。 慶長10年の上洛は、将軍職を秀忠に譲るためのものであり、秀忠も二月二十四日江戸を出発、三月二十一日に伏見に到着しています。 秀忠に関しては、軍勢の編成が先陣9番・本陣・後陣7番というもので、先陣1番には館林の榊原式部太夫などと詳しく書いてあります。 ネットの情報では、従えた者10万とか16万とかの数字が出てきます。 ところが家康に関しては、同じ『當代記』の記事であっても江戸出発から伏見着までわずか3行で、その3行の中に「淋病気故駿府に暫く滞留して」とあります。 またまたここで脱線しました。 読み出すと面白くてたまりません。 >「此此今度上洛之關東衆依(=)將軍仰(-)、先立て思々下國、」ともあり、 供奉動員数と護衛とは分けて考える必要はありそうですね。 そうですね。 秀忠には大軍勢を従いさせたが、家康自身は、細心の注意は怠らなかったのは当然でしょうが、警備体制というほどの大袈裟なものは必要なく、身辺警護と呼ぶ程度の護衛だったのかも知れません。 秀忠に江戸から従って来た大名が「先立て思々下國」も頷けます。 戦ではないので何万人もの食材を用意していたはずがないです。 寝泊りも大変です。 参加することに意義があるということですね。 『慶長年中卜斎記/板坂卜斎』を読むことは、とても私にはできません。 Kittynote 様が読み解いてくださったのを見て、これは面白そうなので読んでみたいと思いましたが、ギブアップです。 侍医の個人日記ですから、ありのままを記したと理解してよいのでしょうか。 主従の力関係で、日記も「見せろ」と言われることはないのでしょうか。 こんなことを想像しても仕方が無いですね。 私は、この日記の内容を信じたいと思います。 何も誇張したり、ゴマをすったりする必要もないですから、また互いに信頼関係があったはずですから、誹謗中傷記事を書くはずはなく、話をそのまま受け入れたいです。 慶長9年春、家康が伏見に着いたときの護衛は、 「時に鑓二柄、長刀一柄、狹箱二。御先追ふ歩行士廿人ばかり。乗輿のあとより騎馬のもの十人ばかり従へすぐる者あり。」のとおりだと思います。 前もって伏見に参集していた、畿内・西国・北国の大名が追分宿まで出迎えに参じているのですから、家康の権力の安定感を感じます。 実は、家康はなぜ駿府に移り住んだのか、疑問に思っていて先に質問したのですが、このような状況下で駿府に移ったということがよく分かりました。 参考となる資料を教えてくださったので、いろいろ面白いことにいっぱい出くわしました。 ご教示に感謝申し上げます。

  • oska2
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回答No.3

>どの程度の規模の護衛が付いたのですか。 20万から30万人でしようね。 ただ、江戸から同行するのは20万人程度です。 残りは、街道沿いの藩が受け持ちます。 ※外様でも、何かあると改易ですから警護は必死です。 >スキあれば家康に反旗を翻してやろうと企んでいた豊臣恩顧の大名はいましたか。 大名は、存在しないでしようね。 ただ、「前大名」は存在した可能性があります。 家康の上洛も「徳川家の威信を示す」のが、目的です。 「おみゃーら。将軍に逆らっちゃ駄目!」という、無言の圧力です。 ※家康は、静岡弁を使っていたようです。 行列本体とは別に、街道を支配している諸藩の警護体制では反旗は無理でしよう。 >「お家大事で勝ち馬に乗る」のが第一で、せっせと天下普請のお手伝いに励むほうが得策だと判断していた、と理解すべきでしょうか。 その通りで、将軍家のご機嫌取りを行っていた大名・旗本も多かった様です。 島原の乱の原因になった「島原藩」では、実石以上の石高を藩主が決めたのですね。 実力以上の「見栄」をはるには、過酷な年貢取り立てが必要になります。 結果、宗教と結びついた乱が起きたのです。 幕末では、幕府の力が弱りますよね。 近畿圏内の小藩では、「領内に残っている円墳・方墳を、前方後円墳に改修」して「勤王派」とのアピール合戦を行っていますよ。 昔も今も、「勝ち馬に乗る」のが為政者です。 最近の「ジャ〇ーズの乱」でも、創業(オーナー)家一族と経営陣営が衝突しましたよね。 田〇エージェンシーが経営陣側につきましたが、キ〇タク中納言の裏切りによって創業家が勝利しました。 一般人でも、勝ち馬に乗る場合が多い様です。チャンチャン!

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「20万から30万人」とは全く想像していませんでした。 関ヶ原の戦い(慶長5年9月)の戦後処理で西軍の大名家は全て容赦なく改易されており、また東海道の街道筋は全て譜代で固めていたので、せいぜい数千人規模だと思っていました。 20万人もの兵が京や伏見あたりに半年近くも居たということは、統制が取れた“難民”が押し寄せてきたような状況を想像しています。 >家康の上洛も「徳川家の威信を示す」のが、目的です。 なるほど! 慶長9年、将軍として最初の上洛は、この意味が大きいですね。 慶長10年2月、秀忠が将軍宣下を受けるために上洛したときには、秀忠は10万?16万人?を従えていたようです。(ネットの情報)

回答No.2

確かこの時の護衛は30万ぐらいです 「そんなに連れてったら江戸の留守中に伊達政宗あたりが謀反起こすんじゃね?」って思うけど だからこそ東国の大名から護衛の兵を出させて上洛してます そうすりゃ謀反は出来ませんからね スキあらば家康に反旗を…って武将は加藤清正と福島正則でしょう 清正に至っては秀頼と家康の会見の時に家康が秀頼を殺そうとしたら刺し違える覚悟で奥の間に控えてたぐらいですし ただ 公に家康に反旗を と考えてたのは淀殿(この場合は反旗と言うか豊臣のほうが上だと勘違いしてたわけですが)ぐらいでしょうか 仮にも家康は征夷大将軍です これに反旗を翻すのは謀反と同じですからね

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「30万ぐらい」とは全く想像していませんでした。 関ヶ原の戦い(慶長5年9月)の戦後処理で西軍の大名家は全て容赦なく改易されており、また東海道の街道筋は全て譜代で固めていたので、せいぜい数千人規模だと思っていました。 >「そんなに連れてったら江戸の留守中に伊達政宗あたりが謀反起こすんじゃね?」って思うけど だからこそ東国の大名から護衛の兵を出させて上洛してます  >そうすりゃ謀反は出来ませんからね なるほど! 「東国の大名から護衛の兵を出させて上洛」すれば、江戸の守りが手薄になると思っていました。 前回の質問「駿府に築城した理由」の続きで思いついた質問です。 も少し、よく考えてみます。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9603)
回答No.1

kouki-koureisya さん、こんばんは。 川家康は、慶長8年(1603)2月12日、征夷大将軍に任じられてから、慶長8年、同9年、同10年、同11年と毎年江戸・京(伏見城)間を行き来していますが、どの程度の規模の護衛が付いたのですか。 襲われたとか、それを未然に防いだとか、というようなことはありましたか。 襲うというのはとても無理ですね。江戸から伏見における将軍行列は相当大規模だったようです。その兵数は20万以上といわれています。おそらく、江戸や領国にいる東国の大名が伴の人数をだし、屋敷を空にしてから、徳川の本軍を出すような慎重さを家康は持っていたでしょう。 この当時、スキあれば家康に反旗を翻してやろうと企んでいた豊臣恩顧の大名はいましたか。 おそらく、そんな大名はいなかったでしょう。やるとすれば、豊臣がらみでしょうね。 それならば、見方になりそうなのは加藤清正、福島正則あたりがそうなんでしょうが、 その前に没落したり、死んだりしてうまくいきませんでしたね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「20万以上」とは全く想像していませんでした。 関ヶ原の戦い(慶長5年9月)の戦後処理で西軍の大名家は全て容赦なく改易されており、また東海道の街道筋は全て譜代で固めていたので、せいぜい数千人規模だと思っていました。 20万人もの兵が京や伏見あたりに半年近くも居たということは、統制が取れた“難民”が押し寄せてきたような状況を想像しています。 慶長10年2月、秀忠が将軍宣下を受けるために上洛したときには、秀忠は10万?16万人?を従えていたようです。

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