平賀源内と田沼意次の関係は実際の歴史か架空か?

このQ&Aのポイント
  • 平成に入って制作されたテレビの時代劇番組、「翔んでる平賀源内」と「殿さま風来坊隠れ旅」に登場する平賀源内と田沼意次の関係について、実際の歴史との関連を探ります。
  • 2つの番組での平賀源内と田沼意次の関係は似ており、お互いの自宅が近く連絡を取り合っていました。田沼意次はエレキテル(電気)を活用して平賀源内の腰痛を治療し、その代わりに軍資金を提供していました。
  • しかし、「殿さま風来坊隠れ旅」では田沼意次が悪役として描かれ、最終回で徳川治貞と徳川宗近によって成敗される場面があった。このような展開から考えると、平賀源内と田沼意次の関係は架空のものである可能性が高いと言えます。
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どうして、平賀源内と、田沼意次が…?

平成に入って、比較的最初に制作して、本放送した、テレビの連続ドラマとしての時代劇番組、「翔んでる平賀源内(TBSテレビ系列)」と、「殿さま風来坊隠れ旅(テレビ朝日系列)」。 この2番組、主な共通点と、言えば… 「翔んでる平賀源内は、西田敏行さん扮する、主人公の平賀源内が、藤岡琢也さん(故人)扮する、田沼意次と…? 殿さま風来坊隠れ旅では、火野正平さん扮する平賀源内が、遠藤太津朗さん(故人)扮する、田沼意次と…? それぞれ、お互いの自宅が、比較的近いかして、普段から連絡を取り合っていて、意次自身は、源内に対して、「持病の腰痛を、お前が開発した、エレキテル(電気)を活用した機材で、 治療して貰うなら、発明するのに必要な軍資金を、治療費として払う事により、提供する」的な内容で、打診して了解して貰う事で、持病の治療をして貰ってた…」点になると、思います。 ただ、「殿さま風来坊隠れ旅」の場合、「田沼意次親子は、単なる悪の親子」と言う、すぐに架空と分かる設定で、制作されたかして… 「最終回では、遠藤さん扮する田沼意次は、「原田大二郎さん扮する、息子の田沼意友が、自分自身犯した悪事により、ダブルの主人公、三田村邦彦さん扮する徳川治貞(和歌山藩主、以降通称の治さん)と、西岡徳馬さん扮する徳川宗近(尾張藩主、以降通称の宗さん)に、成敗された事により逆ギレして、治さんと宗さんを、報復としての斬り捨て」を、自分の自宅で、部下に対して命令した。 所が、その直前、持病の腰痛を、治療して貰って、酒を飲んで休憩してた、火野さん扮する平賀源内は全てを聞いて、後で治さんと宗さんに知らせた為、結局は、意次自身も、治さんに斬り捨てられる事により、成敗されてしまった…」 シーンが、登場してました。 そこで、質問したいのは… 「平賀源内と田沼意次は、実際の歴史から見ると、会ったりしてたか、それとも、それぞれの番組内での話だけなので、架空の関係なのか?」に、なります。

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noname#224207
noname#224207
回答No.2

>それとも、それぞれの番組内での話だけなので、架空の関係なのか? 全くの架空ではないだろうと考えられます。 田意次沼が平賀源内の長崎遊学のスポンサーだったという説や、息子の意知が源内のエレキテルを見物に源内宅を訪ねたなどという話も伝わっています。 ご質問で意友となっていますが意知でしょう。 「おきとも」と読みます。 「お前が開発した、エレキテル(電気)を活用した機材で」とありますが 開発したのではなく、長崎で手に入れた壊れた中古品を細工師の手をかりて見様見真似で復元しただけです。 これより少し前にオランダから幕府に献上されていましたので、意次も源内も事前に知っていたと思われます。 「持病の治療をして貰ってた」とありますが 源内は見世物として見料を稼いだだけで実用化はしませんでした。 エレキテルなる装置を針治療の補助具として使う絵が絵草子に残されていますので、ドラマの作者がそれをヒントにしたのでしょう。 「田沼意次親子は、単なる悪の親子」とありますが 田沼意次が拝金主義の吝嗇な悪党というイメージは、意次の経済政策が現代のインフレ政策に似ていて後を継いだ松平定信が寛政の改革で潰してしまったことが原因でしょう。 倹約、質素を好ましいとして浪費やお金を蔑視する世俗道徳によってこのイメージを現在まで受け継がれています。 近年は近代経済の先駆者として見直されてきています。 寛政の改革というのは単なる復古主義で消費を抑え込んで幕府の財政を立て直すことを目的としたものに過ぎずませんでした 現在で言えばデフレ政策ということで失敗に終わっています。 「息子の田沼意友が、自分自身犯した悪事により、・・・成敗された事により」とありますが 意知は殿中で佐野 政言に刺されています。 動機は系図を返せとか返さないことによる遺恨とか、賄賂のかいなく昇進がかなわなかった遺恨だとか諸説あるようですが、単なる私憤とされて真相は藪の中です。 「結局は、意次自身も、治さんに斬り捨てられる事により、成敗されてしまった」とありますが 意次は減俸の上蟄居させらただけで斬られてはいません。 蛇足 江戸の文化といえば文化文政期が挙げられますが、田沼時代がそれに先行する時代です。 間に寛政の改革が入り込み途切れたような印象になっていますが庶民文化の勃興期です。 「いき」と「はり」を信条とする「江戸っ子」という言葉が生まれたのがこの時期です。 現在のマニアを意味する〇〇通の「通」というもこの時期に生まれました。 十八大通などが現れて吉原で小判をバラマキました。 吉原の遊女が2800人を越え、私娼をかかえる岡場所が60箇所ありました。 享保年間に風紀紊乱で取り潰されていた内藤新宿が再開されたのもこの時期です。 現在の新宿の繁栄も元をただせば田沼意次のおかげです。 平賀源内が解体新書を書いた杉田玄白と親交があったことはよく知られていますが、この他時代劇などでお馴染の人物が輩出するのもこの時期です。 美人で有名な笹森おせんもこの時代の女性です。 相撲の雷電や谷風が活躍したのもこの時期です。 桜餅の元祖長命寺の桜餅もこの時期に始まりました。 柴又の題経寺で帝釈天の図が天井裏から出てきて柴又帝釈天として有名になるのもこの時期です お金にまつわる話では 南鐐二朱銀が最初発行されました 4文銭(波銭)が作られたのものこの時期です。 「銭がこまけぇ」と断って数え始める落語の「ときそば」が生まれたのはこの4文銭が発行されたおかげです。 以降江戸時代の飲食物の値段はだいたい4の倍数で決められるようになりました。 にぎり寿司、いなりずし 4文 一膳めし 12文 お汁粉  16文(砂糖が高かった) 天麩羅そば 32文 刺身一皿 12文 地酒1合  8文  などなど なんのかんのと言っても「白河の水の清きにたえかねてもとの濁れる田沼こいしき」などと狂歌にうたわれる良き時代でした。

80568410
質問者

お礼

回答、有難うございます…。 「一口メモ的な内容込みで、詳しい回答を、投じて頂いたので、BAにしたい」と、思います。 又、質問した時は、よろしくお願い致します…。

80568410
質問者

補足

田沼意次の息子の名前、漢字を間違えて、投じてしまったのを、指摘して頂き、有難うございます。 この息子、田沼意知の殺害については、(株)小学館が、小学生向きにより、マンガ仕立てで編集し、昭和60年(1985年)前後に初版が発売された、「マンガ日本の歴史」。 こちらで、載ってた内容を元に、私は以前。 「意友の殺害だが、実際の歴史から見て、どうだったのか?」的な内容で、質問してます。 ただ、このマンガ日本の歴史では、田沼意次のその後として、「老中の解職と、領地内にある自宅と思うが、自宅での閉門蟄居とする処分を、受けた」的な内容で、同じ回に載ってた様に、私が小学校5年生の辺り、マンガ日本の歴史が発売された時、見る機会あって、見た記憶あります。 後、「田沼意次は、近代経済の立役者」。 こちらについては、「翔んでる平賀源内」であれば、確かに経済を活用した回、結構多く放送してたのを見た記憶、あります。

その他の回答 (1)

  • misa-on28
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回答No.1

源内と意次は実際に面識があり、交流があった事は事実です。 朝日日本歴史人物事典では 明和7年には自作浄瑠璃「神霊矢口渡」の初演ののち,田沼意次の命を得て阿蘭陀翻訳御用として再度長崎に遊学。しかし蘭書翻訳は成らず,洋風油絵「西洋婦人図」や舶載緬羊による羅紗試織をみやげに帰東。 とあり、源内の二度目の長崎遊学は意次の命によるものとされています。 意次の政策は商業重視で経済発展により財政立て直しを計るもので源内のアイデアを殖産興業に役立てようとしたと考えられます。

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