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武士と朝廷の関係

タイトルほど大袈裟なものでは無いのですが、教えてください。 その昔、「殿さま風来坊隠れ旅」という時代劇がありました。 尾張の藩主と、紀州の藩主が旅をして、悪人を退治すると言うものですが、その中で、彼らが「紀州大納言」「尾張大納言」と名乗っていました。 また、「水戸黄門」の中では「先の中納言」と紹介することもありました。 そこで、以下の疑問について、お教え下さい。 (1)前記の「大納言」は右大臣の下位の役職と、辞書に載っているのですが、江戸時代に、彼らの上位である、「太政」「左」「右」の各大臣は存在したのでしょうか。 (2)尾張、紀州は大納言、水戸は中納言と決まっていたのでしょうか。 (3)将軍については、そのような役職はあるのでしょうか。 (4)他の大名や一般の武士もそのような役職に就いていた人が居たのでしょうか。 (5)一寸話はずれるかも知れませんが、「征夷大将軍」とは「蝦夷征伐の将軍」から来ていると思うのですが、それが何故幕府の最高権力者の名称になり、また、朝廷からの任命になったのでしょうか。 質問の文中に幾つか認識違いがあるかも知れませんが、それについてもご指摘願います。

  • NAATAN
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  • Ulrika
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回答No.3

(1)将軍は普通、就任後正二位内大臣となり、右近衛大将を兼ね、死後に    正一位太政大臣が贈られる。昇進もあるので内大臣→右大臣→左大臣→太政大臣    と順繰りに贈られている人もいる。    http://www2.cnet.ne.jp/ahgama/tokugawa_kanireki.asp (2)決まってないが、諸大名の官位も、家ごとにほぼ一定していたらしい。 (3)官位(官職と位階はセットになっている)    (官職)中納言、備前守など<役職>    (位階)正三位、従四位など<身分> と考えると太政大臣とかがソレ? (4)大雑把にはこんな感じ    http://www.hi-net.zaq.ne.jp/osaru/edo/daimyou.htm (5)えっとー、多分ですがぁ。    元々征夷大将軍は非常官職。源頼朝が鎌倉に落着いた時に持っていたのは    正官の右近衛大将。これだと在京の必要性があるため、同じ将軍である征夷大将軍が    欲しかったらしい…。頼朝は武家政権を確立してから征夷大将軍を追認されたから    慣例になったということかなーと。    http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tishiki/ks00001.htm    http://www.tanutanu.net/history/hist17.html 一応官位相当表なるものもありましたので...。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~yochicaz/doc/kandjst.html http://www.nobunaga-lab.com/hall/furoku/kanisoutouhyou.html

NAATAN
質問者

お礼

ありがとうございます。 (1)各将軍は昇格していったんですね。(それも結構細かい) (2)諸大名の最高官位も粗決まっていたのですね。(前田家が外様なのに結構上位なのは面白いですね) (5)都には居たくは無いけど肩書きが欲しい。その後の武家もそういった傾向を引き継いでいるのですね。 鎌倉幕府についての参考URLも大変面白いです。

その他の回答 (3)

回答No.4

  >(1)前記の「大納言」は右大臣の下位の役職と、辞書に載っているのですが、江戸時代に、彼らの上位である、「太政」「左」「右」の各大臣は存在したのでしょうか。 公家高位官職在任者一覧表(誰が、何時、関白であったとか、左大臣の位であったとか、全歴史を通じての一覧表です)のような資料がありますが、江戸時代を通じて(というより、律令制で、公家官職制度が定まって以来)、太政大臣(常にいるとは限りません)、左右大臣、内大臣(常にいるとは限りません)などの大臣官職は、公家が常にその地位を占めています。 (記憶では、江戸時代は、太政大臣、左右大臣、内大臣は常に誰かがその地位にいて、空白はなかったように思います。この場合、実力のない、公家がなっています。徳川将軍と、御三家、御三卿の当主は例外的に、四位以上の位、官職に就きますが、武士は一般に、前田家のような大大名でも、従五位です。大臣、大納言、中納言、近衛大将、中将などは、公家がなっていました)。 江戸時代でも、鷹司とか近衛家などが、関白太政大臣などを占有しています。公家官位からすると、一般大名(通常、従五位の守または、従五位相当の官職)の官位に比べ、格段に高い官位ですが、収入などの点では、貧乏このうえなかったという実状です。 関白太政大臣の近衛家がせいぜい2千石もあればいい方です。中級クラスの旗本程度です。 >(2)尾張、紀州は大納言、水戸は中納言と決まっていたのでしょうか。 公家は、摂関家、清華家、大臣家、羽林家と四段階に上流家は分かれ(その下に、名家があります)、それぞれ、公家官職で、最高はどこまでということが決まっていました。摂関家の当主なら、若死にしなければ、関白太政大臣まで昇れるとか、清華家の当主は、左右大臣クラスとか、家格に応じて、大納言とか、近衛大将まで昇れるとか、最高位が決まっていましたし、長生きすれば、自動的に、この位まで昇進できました。 尾張、紀州家の当主は、同じように、大納言まで昇ることができ、水戸家は、中納言まで昇れたのです。従って、決まっていたとも言えますし、そこまで昇進する前に当主が死ぬと、生前の官位は、大納言まで行かないとか、水戸の殿様でも中納言まで昇進していないという人もいます。 >(3)将軍については、そのような役職はあるのでしょうか。 徳川将軍は、まず基本的に、「征夷大将軍」です。次に左右大臣か、ときに太政大臣、また兼任として、右近衛大将(家康は左近衛大将)、そして、左馬寮御監、淳和院及び奨学院別当の官職になります。「源氏の氏の長者」は、官職ではありませんが、「武家の統領」としての資格は、この地位から出てきます。 征夷大将軍には、武家の統領がなったのであり、それは、源頼朝以来、「源氏の氏の長者」がなりました。 >http://www2.cnet.ne.jp/ahgama/shogun.asp >(4)他の大名や一般の武士もそのような役職に就いていた人が居たのでしょうか。 「大名」とは、一万石以上の所領を持つ、徳川将軍の家臣に当たる武士を言います。大名は、御三家(尾張、紀伊、水戸)及び御三卿(一橋、田安、清水)などの例外を除くと、普通、従五位の国司としての守か、従五位相当の官職を、徳川将軍を通じて、宮廷から任命されました。おおむね世襲制です(忠臣蔵に出てくる、浅野内匠頭などは、「内匠頭」とは、国司ではなく、内匠寮の長官で、従五位相当の官職です)。 旗本のなかでも、六千石程度以上の知行を持つ大身旗本になると、従五位相当の守などの官職を、これも世襲で任命されていました。それ未満だと、もっと低い官職を世襲で持っていた旗本家があります。一般の武士は、こういう官位や官職は持っていませんでした。 >(5)一寸話はずれるかも知れませんが、「征夷大将軍」とは「蝦夷征伐の将軍」から来ていると思うのですが、それが何故幕府の最高権力者の名称になり、また、朝廷からの任命になったのでしょうか。 日本の歴史で、天皇は、「祭祀王」であり、政治実務を天皇が行ったことは、天智・天武の頃ぐらしかありません。古くから、象徴王であり、政治実務は、天皇が任命した臣下が行うという形でした。 奈良時代でも、天皇が独裁王ではなく、太政官などが政治を行っていました。平安時代になると、藤原氏が公家官職の高位を独占するようになり、天皇家の外戚として、ほぼ互いに血が混じり合うような状態でしたが、天皇はあくまで天皇で、何よりも、神事に従事し、儀式を行っていました。 天皇は、「シャーマン王」とされ、神聖な不可侵な存在であったのです。「幕府」というのは、征夷大将軍が長に来る、一種の「大本営」のようなものだと考えるのが良いです。織田信長は、天皇を廃止しようと考えていたらしく、他方、豊臣秀吉は、伝統的な、公家貴族の最高位である関白太政大臣となることで、天下人となりました。 源頼朝が「幕府」を開いたとき、それは、公家から武家に権力が移行したことを意味し、「武家の統領」として、征夷大将軍となり、この地位から、政治を行ったことになります。幕府の最高権力者は征夷大将軍に決まっています。武家の支配と言っても、天皇の承認の元で、天下の政治を預かるという形が、もっとも日本の諸階級の人々にとって、納得しやすい、受け入れやすい権力掌握法だったのです。 織田信長は、天皇を廃止しようとしたため、謀殺されますし、秀吉は、武家の統領だとはその出自からして、名乗れなかったということがあります(武家の統領になるには、清和源氏の子孫であることが条件です。秀吉では、僭称すること自体無理があったのです)。 他方、家康は、清和源氏の子孫などという証拠はありませんが、少なくとも、小大名の家系であり、武家には違いないので、清和源氏を名乗り、将軍となったと言えます。徳川氏は、清和源氏だと称していたのであり、家康が、征夷大将軍や、太政大臣に叙されることは、「源家康」という名で官位を授かったことになります(他の徳川将軍も、正式に官職や官位に就くときは、源の姓となります)。 「征夷大将軍」は、武家の統領がなるものであると言う慣習ができ、武家の時代には、武家の統領が最高権力者になるので、その大本営とも言える「幕府」が、統治機関となり、将軍が、国政の最高指揮者になるということです。「源氏の氏の長者」とは、武家の統領には、清和源氏の家系の者がなったのであり、源氏という一族の最高者が、「氏の長者」で、「氏の長者」であるからこそ、征夷大将軍の地位に付けたとも言えます。  

参考URL:
http://www2.cnet.ne.jp/ahgama/shogun.asp
NAATAN
質問者

お礼

大変詳細なご回答ありがとうございます。 天皇についての歴史は面白かったですね。そういえば、旧憲法下でも「君臨すれども統治せず」という立場だったと聞いたことがあります。 また、実力本位の武家でも結局は家柄が物を言ったということですね。 秀吉は征夷大将軍になりたかったのでしょうか。 家康が秀忠に征夷大将軍を譲ったときに、淀君が「何で秀頼じゃないのよ!」と怒ったという話を聞いたことがありますが、これをみる限りお門違いのようですね。

回答No.2

できるところまでお答えしますね。 (1)存在したのではないでしょうか。(ほとんど徳川家が在任) (2)別に決まっていなかったと思います。 (3)ありました。(参考URL) (4)一般の武士はわかりませんが、他の大名(松平家など)は    役職についていたと思います。 (5)そもそもは従来の意味だったのでしょうが、源頼朝の時に    (征夷大将軍=幕府最高権力者)のようになっていったよです。    http://rekishi.hypermart.net/m043.html    江戸時代の朝廷は、吉宗の時代の薩摩藩の資料に載っていたのですが    「清閑寺大納言ひろ定の娘を将軍養女とし、島津継豊に輿入れさせる」    のように各藩の権威付けのため利用され、人身売買のようなことをし、    金銭を得て、細々と暮らしていたのではないでしょうか?

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/tokugawa/tokugawashogun.html
NAATAN
質問者

お礼

ありがとうございます。 ご紹介頂いたページは大変参考になりました。 将軍家が大臣を兼任していたのですね。それなら、御三家が大納言や中納言だと言うのが納得がいきます。 また、征夷大将軍一覧も大変面白いですね。 特に源頼朝から徳川慶喜までは、日本史のダイジェストみたいで勉強になります。 そういえば、平将門を征伐したのも(名前は忘れていましたが)征夷大将軍だったんですね。

回答No.1

間違っていたらすみません。 (1)江戸時代もずっと朝廷は存在したので、各大臣は存在してないとおかしいと思います。 (2)決まってはないはずです。水戸藩は、従三位権中納言(水戸黄門様の位)が極位極官で、光圀以後の藩主は結構ついているそうです。尾張と紀州は極位極官が従二位権大納言の家格です。極位極官は歴代で一番高い位のことなので、全員がその地位にはつかなかったんではないでしょうか。。。 (3)征夷大将軍じゃないですか?一応幕府の長の職名なので。 (4)豊臣秀吉は関白・太政大臣だし、源義経は判官(各官庁の三等官。ちなみに義経は検非違使の尉だったと思います)その他、武田信玄=権僧正、上杉謙信=法印大和尚位など (5)源頼朝が鎌倉幕府を開いてからそうなった、としか知りません。すみませんね

NAATAN
質問者

お礼

ありがとうございます。 「極位極官」ですか。初めて聞く言葉ですね。 ということは、「水戸大納言」というのは、居なかったわけですね。

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