『聖書』を知らなければ話にならないというお話
が多すぎませんか?
(あ) 聖書が《神は生きた者の神である》と言っているのに ニーチェは《現世の否定・生の否定》と見てへんちょこりんな殴り書きの批判を延々とつらねました。
(い) プラトンは イデアの世界がこの経験世界に影を落としていると 一介の人間でしかないのに勝手に 断定しています。それは 思想は自由だからよいとしても その思想を聖書による神学と一緒くたにするというマチガイをも侵しています。
(う) 神とあまりなじまないアリストテレスにしても その絶対(ないし非経験の場)を 《第一原因》と捉えました。つまりは 《不動の動者》です。かんたんに単純に《神が人間世界を動かしている》と言うのなら プラトンとあまり変わらない。
(え) 聖書の《創造主なる神》は あくまで物語です。経験事物が被造物だというのは――アリストテレスと似てはいますが―― その絶対と相対とのあいだの隔たりをしっかりと確かめるためにタトエで述べているだけです。
(お) (むろん 神は《そのナゾが何であるか分かるか分からないかが 人間には分からない》のですから ひょっとするとほんとうにこの世界を非知なる神が造ったということなのかも分かりません。いづれにしても 聖書記者の意図は まづタトエで分かりやすく表現したのだと考えられます)。
(か) 聖書とそれにもとづく神学を知らないデカルトは ご苦労にも《神の存在証明》をおこなっているようです。まったくの不首尾のもとに。こんなことは 一度共通の理解に到っておけば 無駄な議論が省けます。
(き) ヨーロッパ人は 《真理と真実》とがよく分かっていない。真理は 絶対でありけっきょく非知なる神のことです。真実は 事実認識としての誰れ彼れにおけるその主観真実のことです。
(く) 神学は 経験現実について知るために 前提事項として知っておくという問題です。おそらく聖書の神学が 哲学としても普遍的な内容をそなえると考えます。
(け) 聖書を知らない――またけっきょく誤解している――ことによるむだな議論が多すぎます。のではないですか?
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ありがとうございました。