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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸時代。伊勢商人はなぜ本店を伊勢に置いたのか。)

江戸時代の伊勢商人の本店置き場所とは?

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の伊勢商人がなぜ本店を伊勢に置いたのかについて解説します。
  • 伊勢商人が伊勢に本店を置いた理由には、地元の産物を扱うため、地元との交流を重視するため、江戸や大坂などの出店を遠隔操作するためなどが考えられます。
  • 伊勢商人の本店を伊勢に置いたのはどの程度の店舗だったのかは明確ではありませんが、一握りの大店に限定された可能性もあります。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、江戸で興した御店は、もちろん江戸が本拠地でしたが、地方から江戸への出店は伊勢商人に限ったことではありませんでした。 これは、第一としては、競争相手の多い江戸へ出店して、もし失敗したとしても地元の店(本店)は生き残れるからでした。 もちろん、成功すれば江戸は100万人都市。多大な儲けが見込まれました。 第二には、江戸っ子の「べんめえ」調で、嫌なことがあるとすぐに店を辞めてしまうような人柄と違い、地方の人は実に勤勉、実直でもあったからです。 >>しかし、創業者は、江戸で小さな店から始めたはずですから、大店になると地元へ“凱旋”する感じですか。 まあ、そのような人もいたかも知れませんが、余り多くはありませんでした。 強いて言えば、「紀伊国屋文左衛門」あたりでしょうか。 紀伊国屋文左衛門(通称・紀文)(寛文9年1669?~享保19年1734.4月24日)は紀州湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)の貧農の家に生まれました。 やがて、18~19歳頃、そんな貧しさに見切りをつけて江戸へ出てきた紀文は、職を転々とするうちに、商人の娘「綾野」と知り合い、綾野の紹介で「松木屋」で働くようになりました。 やがて、二人は恋に落ちましたが、使用人と商家の娘。主人が許すはずもなかったのですが、可愛い綾野の説得で、主人は紀文に、「1,000両貸してやる。1年間で倍の2,000両にできたら、娘をくれてやる。もし、それができないなら、一生涯この店でただ働きをしてもらう」と、条件を出しました。 そこで、紀文は、江戸の庶民に何が欠けているかを真剣に情報収集をし、紀州では「二束三文」の「密柑(=みかん)」が江戸では結構な値段で売られていることに目をつけ、紀州で密柑を買い付け船で江戸へ運び、みごと、1年後には2,000両にを手にしました。 そして、紀文が困った時、側面からアイディアを出して「賢妻」と呼ばれた綾野とめでたく夫婦になりました。 その後は、紀州からは密柑を運ばせ、帰りの船には、紀州では中々手に入らない「塩鮭」を積み込んで、江戸でも儲け、紀州でも儲けるようになり、「富」を築きました。 やがて、江戸の八丁堀に邸宅を構え、当時権勢を欲しいがままにしていた側用人の柳沢吉保や勘定奉行萩原重秀、老中の阿部正武らに「賄賂」を贈り、密柑で得た富で、今度は、材木商にも手を出し、上野寛永寺根本中堂の造営工事を一手に引き受け莫大な巨利を得て、幕府御用達商人の「鑑札(許可書)」も手にいれました。 こうして得た「銭」で、船頭や水主(かこ=船の乗組員)たちをねぎらうため、10,000両を持って吉原へ行き、実に20日余りも「豪遊」し、船頭や水主たちから逆に、「早く紀州へ帰りたい」と、言い出す者さえいた、と、言われています。従って、紀文でさえ「賄賂攻勢」で、さらに「富」を手に入れようとしています。 しかし、「悪」の部分だけではなく、紀文は、吉原の水利の悪さを知ると、自らの銭で「井戸」を掘らせて吉原の人々に喜ばれました。また、永代橋も元禄11年(1698)に私財を投じて架けています。 上記は私が調べた範囲ですが、 ★おそらく紀州に「支店」を造ったであろう。 ★しかし、紀文自身が紀州へ行った(帰省も含めて)記録は一切見当たりませんでした。 (よもやま話) 伊勢商人と言えば、かの有名な「三井越後屋」(現・三越)を例にとると、伊勢国松坂に本店を置き、江戸へ出店しましたが、 (1)採用はすべて地元での採用。江戸での江戸っ子の採用は一切ありませんでした。 年齢は、およそ12~13歳の男子に限る。 江戸での採用としては、賄い婦くらいしかいませんでした。 (2)もちろん初めは地元の本店の「小僧」から始まり2~3年すると、初めて「丁稚」に昇格。この期間に商いのノウハウを一から叩き込まれました。 (3)やがて、その丁稚の中でも成績優秀者を江戸へ派遣しました。出世コースと羨ましがられました。しかし、一方では、怠け者は地元に呼び戻されたりもしました。 (4)従って、江戸店では「お国言葉」丸出しだったのです。 (5)一度江戸へ下ったら、たとえ両親が死のうと辞めるまでは帰省は許されませんでした。 (6)やがて、「丁稚」から「手代」、そして、「番頭」にでもなれば、現代で言う「支店長」。しかし、番頭も3~4人いて一番のトップはもちろん「大番頭」。 本店とのやりとりは「早飛脚」を使いましたが、総じて「大番頭」や「番頭」の合議制に任されていました。 「収支決算」の報告は、毎年4~5月に本店へ届きました。 (だから、日本の企業の株主総会が6月になった?という説もあります)。 (7)番頭にまで昇り詰めてしまえば、1年に1回約1ヶ月の「有給休暇」がもらえて、初めて帰省が許されました。 (8)この時に本店の主人などの薦めにより、結婚をしました。 と、言うことは、番頭になるまでは結婚はできなかったと言うわけです。 (9)嫁も地元の人に限られていました。また、嫁は地元に定住することが義務付けられており、「亭主に会いたいから」と言って勝手に江戸へ出て来ることはできませんでした。 もちろん、江戸で一緒に暮らすなどは「もってのほか」。まあ、人質みたいなものでした。 (10)従って、子づくりもこの有給休暇中に頑張りました。 (11)順調に行って、番頭になるまでには、およそ20~25年。年齢で言えば35歳前後。 (12)その後、およそ5~6年間務めると、商売を続けたければ「暖簾分け」をしてもらい、一家の主となり、ここで初めて江戸でも地方でも夫婦、子どもなどと一緒に暮らすことができました。 (しかし、三井越後屋に限り、江戸での暖簾分けはありませんでした)。 (13)あるいは、三井越後屋の場合ですと、番頭になってから退職をすると、およそ5,000両余り(現代に換算すると、約1億円~1.5億円)の退職金がもらえましたので、田舎に帰ってのんびりと余生を送る者もいました。 「人生わずか50年・・・」の時代でしたから、40~45歳になれば十分だったのでしょうね。 (14)こうした楽隠居の人々を店の者は見て知っていますから、若い者はとにかく一生懸命。盆も正月もなくただガムシャラに昇進を目指して働きました。 (15)<余談>江戸では火事になることを恐れて、武士の家以外に風呂はご法度でしたので、三井越後屋の奉公人たちも皆銭湯に通いました。 あなたのお答になっていたでしょうか。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 私の想像は外れましたが、納得しました。 >これは、第一としては、競争相手の多い江戸へ出店して、もし失敗したとしても地元の店(本店)は生き残れるからでした。 >もちろん、成功すれば江戸は100万人都市。多大な儲けが見込まれました。 >第二には、江戸っ子の「べんめえ」調で、嫌なことがあるとすぐに店を辞めてしまうような人柄と違い、地方の人は実に勤勉、実直でもあったからです。 なるほど!なるほど! 同国人は、身元も素性もみな分かっていますから、そしてお国訛りで意思疎通できますから、これが強みですね。 「よもやま話」の三井越後屋の例は具体的で分かり易く大変参考になりました。 >本店とのやりとりは「早飛脚」を使いましたが、総じて「大番頭」や「番頭」の合議制に任されていました。 「商い」は、番頭に任せておけばよい、任せることができる番頭に育てるのが主人の役目ということですね。

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