• ベストアンサー

【日本史】江戸時代の飛脚は大阪から江戸まで物を運ん

【日本史】江戸時代の飛脚は大阪から江戸まで物を運んで貰うのに庶民は1回100万円以上も飛脚に支払う必要があったそうですが、武家は運賃が無料で運べたそうです。 誰が武家の運賃を肩代わりしていたのですか? あと飛脚は徳川幕府が経営者だったので、江戸の参勤交代制度で武家が江戸に別荘を用意して住む必要があったので徳川幕府が武家の故郷から送られてくる物資を飛脚が無料で運んでいた? もしかして飛脚は手紙だけを運んでいたのでしょうか?地元の産物を飛脚に運んで貰えたのでしょうか?旬の野菜や果物や地元の魚などは飛脚は運ばなかった?

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数1

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#252605
noname#252605
回答No.1

肩代わりする必要は無いです。無料なんだから。 飛脚は文句を言いながら無償で運んでいたのでしょう。 更に人力ですので重い荷物は運べません。 軽荷物限定になりますので、食材は少し重たいかもしれないです。 食材は運んでいない、もしくは少量のみ運んでいたのでは?

redminote10pro
質問者

お礼

ありがとうございます

関連するQ&A

  • 江戸時代の旅ブーム

    江戸時代には旅ブームがあったってほんとうですか? 徳川幕府が整備した5街道は 旅につかわれていたイメージと 参勤交代のイメージ、どっちがつよいですか? 参勤交代はいつまでやっていたのですか?

  • 江戸幕府公文書の配布

    幕府が武家諸法度のような指示・命令を出すとき、藩にはどのようにして伝達したのですか。 江戸藩邸の役人が、幕府の右筆が書写した「写」を江戸城?あるいは大目付の屋敷?で受け取って、そして国元の藩へ伝達したのですか。 ざっと270ほどの藩がありましたから、右筆はそれだけの部数の公文書を書いたのですね。 江戸藩邸から国元へは主に飛脚を利用したのですか。 その際、近隣の藩と協力して、費用節減のために複数の藩が一人の飛脚に依頼するような こともあったのでしょうか。 そのような事例はありますか。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代に宮将軍が考慮されたというのは真実か?

    江戸時代の5代将軍に関する質問です。 江戸時代、4代将軍である徳川家綱が子がなく死去した際、時の大老・酒井忠清が有栖川宮幸仁親王とかいう宮将軍を迎えようとしたという話を聞きました。 酒井忠清が綱吉を将軍にしたくなかったために、鎌倉時代に宮将軍を迎えていたという話を持ち出したそうです。 しかし、初めての武家政権であり、武士の地位がまだまだ低かった鎌倉時代とはわけが違います。 また、江戸幕府には鎌倉幕府の北条氏に当たるような存在もありませんでした。 鎌倉幕府は北条氏の力があったから開けたのですが、江戸幕府開府にあたってはそのような存在はありません。 江戸時代のトップは東照大権現の正式な子孫のみがなれるはずです。 綱吉を将軍にさせたくなかったとしても、綱重の嫡男・綱豊、尾張の綱誠、紀州の綱教がいます。 宮将軍を迎えるくらいなら、家康の男系の直系子孫である水戸藩主を将軍に押した方がずっとましです。 徳川家康を神と称え、徳川に忠誠を誓っているはずの、徳川譜代の大老・酒井忠清が5代将軍に宮将軍を迎えようとしたという話は真実なのでしょうか?

  • 室町幕府の扱いについて

    徳川家康が始めた江戸幕府について、「頼朝の鎌倉幕府以来の武家による政権」という言われ方がすることがありますが、この言い方だと室町幕府を除外して考えているようですが、これは、室町幕府は江戸幕府・鎌倉幕府と異なり武家による政権として何か不足していることがあるからなのでしょうか?江戸幕府・鎌倉幕府と室町幕府の違いがあるのなら教えていただけないでしょうか。

  • 江戸城の名称。

    徳川幕府の江戸城は、ある時期から正式には、「千代田城」または、「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ぶようになったそうです。 「千代田城」も「舞鶴城」も私は聞いたことがないのですが、何か記録はあるのでしょうか、教えてください。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代。伊勢商人はなぜ本店を伊勢に置いたのか。

    伊勢商人は、伊勢に本店を置いて、江戸・大坂等の出店を経営したそうです。 本店と出店間の急を要する連絡は飛脚によるしかないのですから不便だと思いますが、なぜこのような経営をしたのですか。 私の想像ですが、 地元に顔が広い“主”は、伊勢の産物を扱うから地元に住むほうがよい、 地元に居て藩の重臣や商人仲間との交際を重視した方がよい、 江戸の同業者との付き合いは出店の責任者に任せておけばよい、というような理由ですか。 しかし、創業者は、江戸で小さな店から始めたはずですから、大店になると地元へ“凱旋”する感じですか。 また、伊勢出身以外の商人も、伊勢商人と同じように“主”は地元に居て、江戸他の出店を遠隔操作していたようですから、私が思いついた理由はどうもピント外れのようです。 それとも、伊勢に本店を置いたのは、大店のほんの一握りの店だけですか。 適切な用語が分からないので“主”と書きましたが“旦那”とか“主人”の方が適切ですか。 よろしくお願いします。

  • 【徳川幕府】江戸城の鬼門は寛永寺だそうですが、裏鬼

    【徳川幕府】江戸城の鬼門は寛永寺だそうですが、裏鬼門はどのお寺ですか?

  • 江戸時代の主要街道の道幅。

    江戸時代の主要街道の道幅。 当然テレビの時代劇では参考にはなりません。 「箱根八里は馬でも越すが、越すに・・・」 たとえばこの箱根越えに使っていた道の幅や様子。富士山の〇〇合目の登山道のようだとか、 たとえば一般的な街道の幅は、軽自動車が1台通れるくらいだとか・・・。 いやいや、現代の感覚では説明がし難いので、このような形容が近いとか。 地元の山道を歩いていると、江戸の時代の参勤交代に使用された道だとか、早馬が走る道だとか、どんな感じでどれくらいの道幅だったんだろうとよく考えます。 今の山道はほとんど車の轍があり、ほとんどが車基準となっているので想像し辛いです。 十数キロ離れた山道を歩いていると、まったく「文明の音」のしない場所を見つけたもので、徳川時代の感覚に浸りたくなってしまい質問させていただきました。 教えていただいた道を探してみて、自分なりの江戸時代を感じてみようと思います。

  • 「参勤交代」の実態

    江戸幕府へ上がる事を「参勤交代」といってた(気がする)けど、一切の家財道具を「引っ提げて」ある種の宿泊研修みたいなことをしてたんでしょうか? 伝えることだけなら家臣に任せれば良いと思うし、実際にはどういう「勤務」をしてたんでしょうか? また、参勤交代ができるのは江戸幕府由来の(特に徳川家やその縁者のみ)かとも思われるからお金がない地方藩主はあまりできなかったとも聞きます。 社会科や歴史の時間に「ふんわり」聞いただけなのでどういう事をするのか、(その道中に土産や宿泊をしお金を落とすのもあるけどそれが理由ではないはず) 教えてほしいです

  • 江戸中期以降の江戸幕府内では「四郎」か「時貞」か?

    【質問】 “天草(益田)四郎時貞”は、江戸中期以降の江戸幕府内では何という名前で知られていたのでしょうか? 「四郎」か「時貞」か、どちらだったのでしょうか? 徳川実記では『四郎時貞』、細川家の記録では『益田四郎』だったそうですが、 江戸中期以降の江戸幕府内では、「四郎」か「時貞」か、どちらの名前で知られていたのでしょうか? 島原の乱で出てきた“天草(益田)四郎時貞”という人物は、江戸中期以降の江戸幕府内では、一般的に、「四郎」か「時貞」か、どちらの名前で知られていたのでしょうか? “天草(益田)四郎時貞”という人物は、江戸中期以降の江戸幕府内では、「四郎」か「時貞」か、どちらの名前で、また、何という名前で知られていたのでしょうか? “天草(益田)四郎時貞”という人物は、江戸中期以降の江戸幕府内では、“四郎”か“時貞”か、どちらの名前で、また、何という名前で知られていたのかを教えてください。