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鳴かぬなら
信長と秀吉と家康の性格をあらわした、鳴かぬならーの うたがありますよね。 あれは、史実でしょうか?とすれば、どのような場所や状態でうたわれたのか知りたいです。
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私も以前、この三句が誰の作か知りたくて色々検索しました。 その際、松浦静山の「甲子夜話」に書かれている事がみつかりました。 一部のサイトでは句事体も松浦静山の作と紹介もされていましたが、実際に「甲子夜話」を求め読んでみると > 「夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが其人の情実に能く恊へりとなん。」 と言う前書きで話が始まります。 と、考えれば (1)松浦静山の生きていた頃、誰かが作った句 (2)当時から誰の句か解らぬまま伝え広まってきた句 (3)(意地悪く勘ぐれば)静山自身が作ったけど憚って他人の作の振りをした句 と推察されると思います。
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松浦静山の随筆「甲子夜話」が初出というのが、定説のようです。参考URLでは「こうしやわ」と読みをつけていますが、一般には「かっしやわ」と読むのが普通だと思います。 http://www.hamajima.co.jp/rekishi/rekishi-qa/a11.shtml ただ、具体的に「甲子夜話」のどの部分に書かれているかは見つかりませんでした。
お礼
もしかして、どの部分なのか探して下さったのでしょうか、詳しいお話をありがとうございます。小さな疑問で楽しみが広がりました。参考の方もお邪魔してみます。
- yui-fujibayasi
- ベストアンサー率37% (34/91)
もちろん、史実ではありません。 三人の性格を端的に、わかりやすく語るために作られたものですが、信長の、「殺してしまえ」というのは、一般に信長は短気だと思われていることから作られたのだと思います。 実際には、信長は辛抱強く、一つ一つの敵に当たっていたのですが、敵に対する苛烈な根切りなどの印象が強いために、このように読まれたのでしょう。 次ぎに秀吉ですが、信長に仕えていたころの「へいこら」とした態度が印象的で、さらに、信長の死後、家康を臣下に加えるために妹をむりやり離婚させて家康に嫁がせたりした事などもこの歌から思い出させられますが、実際には、信長以上に残酷な面もありました。 最後に家康ですが、信長、秀吉が死んでようやく天下を握ったことで、辛抱強く待ったのだということでしょう。 信長が餅をつき、秀吉がこね、家康が食らった・・・などとも言われています。
お礼
ありがとうございました。違う角度からみた三者の性格も興味深いですね。餅をつきーの表現も面白いです。早速自慢します(^^)
- jykutarou
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史実ではありません。後世の人が3人をあらわすときに考えたものです。
お礼
専門家さんですか!ありがとうございました。
- bari_saku
- ベストアンサー率17% (1827/10268)
こんばんは。 確たる証拠があるわけではないのですが、おそらく史実ではないのでは。 まず、5・7・5の俳句が一般的に詠まれるようになったのは江戸時代からということで、その頃にはもちろん信長と秀吉は死んでいます。 次に、言葉があまりにもわかりやすく、後世の創作ではないのかという思いがあります。 最後に、仮に史実とするならば、うたの内容からいって三人が同時に詠んだとしか思えないのですが、信長が生きていた時代に、身分的な違いもあって秀吉と家康がここまでうちとけられる間柄であったとはどうも思えません。 以上の観点から、これらの俳句は三人の性格を端的に表した、後世の創作ではないかと思います。 …万一史実だったらゴメンナサイ(^^;)
お礼
なるほど 俳句 からヨまれましたか、感動ですありがとうございました。 かわりに鳴こう ほととぎす(^^)
お礼
ーという話らしいよ~。でしょうか 面白そうな本だと思いましたが、難しそうですね。どんな感じなのか中身まで教えていただいて嬉しいです。愚脳の栄養にいたします。