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堕落した現在の日本仏教

みなさま、初めまして。 今の日本にいる僧侶は、堕落していると思いませんか?。 釈迦がいた時代は、輪廻転生から解脱するため、生涯修行して いたと思うのですが、今の日本の僧侶は修行はしない、結婚して、 エッチして子供作る、娯楽に興じる、アルコールを飲むなどなど。 「ぶっちゃけ寺」を見てると、本当にそう思います。 今の修行は、宗派にもよるかと思いますが、数年で本山を終えて、 各寺の自分の寺に戻るみたいですが、はたして今の日本の僧侶で 自分の寺で修行している人っていますか?。 もし、釈迦がいたら、今の僧侶に向かってなんて説法しますか?。 ふと感じたことなので、お気軽にお答えいただければと思います。 宜しくお願い致します。

みんなの回答

回答No.12

今の日本にいる僧侶は堕落しているとは思いません。 仏教はインドで起こり、中国に伝わり、中国の老荘思想と混じって変質し、インド人は形而上的な民族で輪廻転生だとか言いましたが、中国人は現実的・合理的に考える民族で、来世よりも現世中心でした。 その仏教が朝鮮経由で、日本に入ってくると日本神道の世界観と混合して、インド・中国の仏教とはまるで違う宗教に変質しました。 古代の日本は人の死を「穢れ」と見なし、死ぬと葬式もせず、野山や河原に死体を捨てて顧みませんでした。 京都の西、あだし野に死体を捨て、また京都の東、鳥辺野に死体を捨てました。 鳥辺野という名があるように鳥葬、つまり死体を鳥が食べてくれることを期待したのです。 その古代の日本の葬送が以前の沖縄に残っており、人が死ぬと洞窟にそれを捨てました。 このように人の死は「穢れ」「不浄」と見なされ、その「穢れ」を払うために、また、死者から「祟られる」ことを防止するために、我が国で葬儀という儀式が始まり、それに仏教が役立てられたのです。 僧侶がキンキラキンの袈裟を着て、訳の分からない呪文のようなお経をあげると、死者の魂に「祟られる」こともなく、呪文によってその魂を退散させられる、と思ったのです。 こうして日本仏教は葬式仏教としてスタートしました。 平安末期から鎌倉時代にかけ、戦乱が続き、しかも末法の時代と言われ、数々の有名な僧侶、源信・法然・親鸞・日蓮・道元などが輩出しましたが、それが日本仏教の頂点で、戦乱が収まると、そうした鎌倉仏教は忘れ去られて行き、明治になって古代以来の葬式仏教に戻りました。 肉食妻帯は当然のものとして、葬祭業の一環として、日本仏教はその後歩んできました。 もともと、日本仏教は葬式仏教として始まったので、中間にエピソードを挟んで、ふたたび本来の姿に戻ったというべきです。 たしかに、韓国などからすると、肉食妻帯は本来の仏教からすれば、堕落です。 でも、日本仏教は葬祭業でしかなく、昔も今もその点は変わりません。 それを堕落ということはできません。 もともと、そうだったので、平安末期から鎌倉初期までの仏教が、例外だったのです。 その例外を基準にして、今の仏教を堕落というべきではありません。 日本の仏教は神道の世界観の延長です。 インドとも違うし、中国とも違う、朝鮮とも違う、日本独自のものです。 釈迦がいた時代と比較すべきではありません。 日本仏教と言っているけど、その中身はまるで違うもの、日本固有のものだからです。 日本の仏教は日本人の「固有信仰」に基づきます。 たとえば「祖先崇拝」。 日本人は年に1回、お盆の日に先祖の魂をお迎えし、そしてお盆が過ぎるとその魂を送ります。 もし、仏教のいうように人が死んで、輪廻転生するとしたら、魂が戻ってくることなどないでしょう。 お盆の習慣は日本人の固有信仰、「祖先崇拝」に基づくものです。 また、そのほかにもいろいろありますが、仏教と言っているけど、仏教とはまるで違うものです。 それを仏教からしたら堕落しているというのは、平安末期から鎌倉初期の仏教を基準にして、それを見るからです。 しかし、古代から日本仏教が葬式仏教でしかないことを考えれば、なんら堕落ではありません。 葬儀だけやっていれば、その役割は果たしたので、それ以外のこと、肉食妻帯など、そんなことは非難すべきことではありません。 僧侶を宗教者と思うから非難するので、葬祭業者と考えれば、なんら非難する点はありません。 酒を飲んで、クラブで女を抱こうと、高級車を乗り回してゴルフをしようと、そんなことは勝手であり、非難したりするのは余計なお節介です。 普通の人間なんだから、何をしたって、いいじゃないですか。 普通の人間ではないと思うから、非難するんで・・・・・

noname#210675
noname#210675
回答No.11

そもそも日本に仏教なんて伝来していないのでは?。奈良時代にやってきたのはパチ物じゃね?。平安時代には荘園つくって貴族の師弟が農民から搾取していたわけだし、邪教だわな。適当なんだよ(笑)タイの仏教僧が、座禅中に勃起したから自分でチンコを切り落として、『これで自分は色情を断った!』って喜んでいたらしいが、こんな凄い人がいると思うと日本の仏教はパチモノであるといわざるを得ない。

回答No.10

本山や師匠への上納金が坊主をカネに汚させているんだ。 個々の人の宗教的モラルは腐りきっていないが仕組みがいけない。

  • ootemon
  • ベストアンサー率13% (558/4273)
回答No.9

僧侶も一般人も変わらないですよ。 一般人が堕落してるのと同じぐらい僧侶も堕落してるんじゃないですか。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.8

堕落していますね。 ワタシが堕落していると思うのは、Hしているから とか、酒を飲むとか、修行しない、とかそういうこと ではありません。 葬式産業に堕ちているからです。 ありゃなんですか。 死体に群がる、税金を払わない葬式産業株式会社ですわ。

noname#251507
noname#251507
回答No.7

普通に小学校・中学校(及び高校)に通い、 テレビ(今ならネットが上か)の影響を受けたら 「釈迦」の価値観などを持つ方が異常でしょう。 説法を知識として行っても、自分の実生活を それに縛られて生きるなんて、普通じゃないよ。 ただね、宗教団体・宗教法人が受けている優遇は 納得できない。宗教の側がおかしいと言うより 社会側・行政制度が歪んでるんかな。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.6

>今の日本にいる僧侶は、堕落していると思いませんか? 日本に仏教が渡り、約1500年。 この間に、人間の世は世界的にも大きく変化してしまいました。 日本も、長期の鎖国、近代化(明治維新)、大戦、高度成長を経て大きく変わってきました。 そもそも、日本における仏教は、権力者側のために在って、民衆の日常に存在するものではありませんでした。権力者の保護をもって成り立っていたため、常に権力者が上の立場にあったのです。そして、権力者に利用され本来の『仏教』の意義を失い、形式仏教化してきたのが今の各宗派です。 ですので、今の寺や僧侶を一概に攻めたてても仕方ないと思います。 さらに、仏門に身を置いたていたとしても、“本来の仏教の目的”を知らなければ、自らも人をも救うことはできません。インド、中国・百済、日本へと入ってくる、また日本で広まる過程で、様々な人間が仏教を研鑽し、色々な教えや解釈を広めてきました。その中には、仏教本来の目的からかけ離れたものも少なくありません。 仰る通り、多くの僧は出家し、自宗の本山などで戒を受け教義などを学ぶのでしょうけれど、『それらが正しいのか間違っているのか』疑いすら持ちません。 日本天台宗・比叡山延暦寺においては、最澄が開山しましたが、最澄に続く円仁は天台の教義の中に“密教”を混ぜてしまったのです。それ以来天台は濁った泥水のごとき宗門になってしまいました。そして、それ以降誰一人としてそれを改めた人間はいないのです。 仏教もそうですが、こと“宗教”というものは、直接人間の生活に影響します。そういった事も判らずに、大半の僧侶が職業的僧侶として生きているのです。ですので、そういったものを崇めても、御利益なんてありません。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.5

浄土真宗みたいに肉食や妻帯を認めている宗派を除き、今の僧侶は大半が、「破戒僧」でしょうね。ただ、これは今に始まったことではないのであって、かつては僧兵と言って坊主が武装したり殺生に関わったりするのは珍しくありませんでした。 「子宝を授かる寺」などというものも、元々は夫の方が原因で子供ができない妻に若い僧侶が相手をすることによって「授かった」という形にしたものです。武家では世継ぎが生まれないと家の存亡にかかわりますから暗黙の了解として行われていました。

  • tlc_me
  • ベストアンサー率30% (4/13)
回答No.4

仏教系の大学や高校を間近でみてきました。 知人の天台宗の僧侶とかもいました。 個々人は割合真面目で誠実な人たちなのですが、残念ながら宗派や宗旨を客観公正に眺めて論述できる知力は持ちあわせがありません。 またそういう資質も能力も覆い尽くすだけの圧倒的な状況が彼等の職業選択や人生コースにあらかじめ存在するのでしょう。 しかしそういう事情は、釈迦の仏教教団のオリジナルな思念や言及(言行)とはまったく何の関係もありません。また伝統のある日本の仏教教団はいくらでも存在しますがその存在理由は仏教の本質的な思想基盤とはまったくなんの関係も無いところで示現したものばかりであって、しかも現在の事情とのあいだで何の緊張感も見受けられません。 釈迦の言行から考えて、日本の宗教教団のただひとつとして及第点を与えるような活動も組織も存在しないことは確実だと思います。 残念ながら日本の社会の不公正と不平等の根源に日本の仏教教団がいずれも根を張ってしまっているのは見苦しいまでの我々の現実だと思います。 ご参考に以下の有名な箴言のような言及を残しておきます。 「執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。このようなわけで、究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビスムにより、まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。」 「ヘーゲル読解入門」アレクサンドル・コジェーヴ著 上妻精・今野雅方訳 国文社 But in spite of persistent economic and political inequalities, all Japanese without exception are currently in a position to live according to totally formalized values---that is, values completely empty of all ”human”content in the "historical" sense. Thus, in the extreme, every Japanese is in principle capable of commuting, from pure snobbery, a perfectly "gratuitous " suicide(the classical epee of the samurai can be replaced by an airplane or torpedo), which has nothing to do with the risk of life in a Fight waged for the sake of "historical" values that have social or political content.

  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2193/11072)
回答No.3

僧侶に特別な能力があるわけではない。 お経を称えることができるだけ。 信仰心はないと思う、 職業としておこなっている。 学校の先生と同じレベル。 優秀なのもいれば、落ちこぼれ寸前の人もいる。 欲深い人もいれば、檀家の人のために、一生懸命の人もいる。 今でも信仰心の薄い人が多くいるけど、これからもっと宗教離れしていくと思います。