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所有権は 絶対なる無限――不可分離――なのか

 § 1 まづ初めの議論として 《絶対なる無限》を 実数なる無限――実無限――として扱い得るか?  無理数の存在をめぐる実数無限(それは 可能無限)に対して そのアタイの限りなさを或る種の仕方で確定させるということ。  すなわち この実無限という仮定。  実無限として実数無限を扱い得ると仮定するその視点。  仮定するのも仮定したその眼を持つのも 人間ですが それは仮定としてしか人間には分かっていません。実無限ということの内容について 実際に人間が知ったということにはならない。  それでも 仮定をもとにして――あるいはそれをさらに公理として据えつつ 公理のもとに――推理を展開する。  それによって 現実の事象と対応する結果が得られることがある。  仮定は――あるいは背理法のばあいは仮定に反する内容が―― 妥当だと見なされる。        ――こういったことはあり得るのでしょうね。       § 2 ひとつの島をめぐって ふたりの人間がその所有権をうったえてあらそっているとき・・・。  そこへ いわば実無限としての仮定を補助線のごとく引く。ことは 出来ますかねぇ? どうでしょうか。  《実無限》としての眼 これは――アレフさんとしましょうか―― 人間にとってまだ現実のモノゴトではありませんが 何らかの――言ってみてもよいのでしょうか――解決としてのあり方を示すことが出来ましょうか?  あらそうふたり・あるいはわれわれ人間の眼には なかなか見えないのですが それでもアレフさんの眼には 所有権の確定した図柄が見えていましょうか?  あるいは 所有権ということが 問題なのでしょうか?  あるいは 特に領土となると その主体としての国家が問題なのでしょうか?  あるいは 人心の意向やその趨勢というものが なんぴとの手にも負えないしろものなのでしょうか?  というふうに アレフさんの物語は 想定でありつつ 現実にチカラを得て行くことが出来ましょうか? どうでしょうか。  それとも 島の領有をめぐる問題には アレフさんはお休み願ったほうがよいのでしょうか? 限りなくつづく無理数のままにしておいたほうが?  ☆ このバスがどこ行きなのか 必ずしも分からないままに問うています。

みんなの回答

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.3

実無限の眼ということですと、もはやこのことは問題ではない、無意味であるというのが答えになるかと思います。 無限の目から見ると宇宙は一瞬にして生成し消滅するもの。 当然、地球や太陽なども人間も、一瞬よりさらに短命な存在。 そして、島も人間も、その権利という概念も消えた状態でいったい何が問題ということになるのか?もはや問題ではない、そこに何の意味も無いということです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 無意味  ☆ というのは ちょっと考えられないところですが まづはご回答をありがとうございます。  ★ 無限の目から見ると宇宙は一瞬にして生成し消滅するもの。  ☆ あぁ そこから来るのですか。  でも これは・つまり《無限の眼から見ると》どう見えるかは つねにふたつの姿に分かれると思われます。  ひとつは おっしゃるように一瞬のときに収れんしてしまうという姿。  もうひとつは ぎゃくにその現在という一瞬が 永遠であるという見方としての姿です。  《永遠の現在》といった言い方もあるようです。  まぁ いづれにしても その現在の一瞬に時間も空間も凝縮しているというのでしょう。  そしてそのまま 瞬間と見るか。あるいはそれゆえにも すでにその一瞬が 永遠をふくむと見るか。    でも 問いとしては――いささか技術的な・ハウツーとしての問題になるかも分かりませんが――   ○ われわれ人間の眼には なかなか見えないのですが それでもアレフさんの眼には 所有権の確定した図柄が見えていましょうか?  ☆ ではあります。  つまり 上に触れたふたつの見方とは少し違って 現実的にあるいは妥協的に 解決の道があるだろうか? 《アレフさん》なら どのようにそれを見ているだろうか? となります。  もし  ★ 無限の目から見ると宇宙は一瞬にして生成し消滅するもの。〔ゆえに〕 無意味であるというのが答え  ☆ という線として受け留めるなら それは 解決の道などはないと心得よといった答えではないかと思われます。あらそう姿が 一瞬に凝縮されつつしかもそれとして永遠であるとすれば 解決の道はないと心得よとなるかと思います。  あらそう姿は そのまま現実としてつづくわけですから 《無意味》なのではなく《いさかいとして有意義であり いさかいが続く姿として その道を答えとせよという意味がある》と考えられるからです。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.2

無限と土地所有権がどのように関係するのかさっぱり理解できません。 国家間の領土問題は国際司法裁判所で解決するがよいと思いますが、現状では両国が合意しないと裁判できないことになっていますから不利と考える国が応じないと裁判は開けませんね。 もし長い時間を考えるならいつかは解決すると思います。国際法が変わるかもしれないし、国家というものがそのうちなくなるかもしれない。そもそも島というものは海流で毎日侵食されていますからいつかは水没して消えます。そうすれば領土問題自体が消えます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  趣旨説明がしっくりとうまく行っているとは残念ながら思っていませんが まづは次のように受け取ってください。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 2  《実無限》としての眼 これは――アレフさんとしましょうか―― 人間にとってまだ現実のモノゴトではありませんが 何らかの――言ってみてもよいのでしょうか――解決としてのあり方を示すことが出来ましょうか?  あらそうふたり・あるいはわれわれ人間の眼には なかなか見えないのですが それでもアレフさんの眼には 所有権の確定した図柄が見えていましょうか?  あるいは 所有権ということが 問題なのでしょうか?  あるいは 特に領土となると その主体としての国家が問題なのでしょうか?  あるいは 人心の意向やその趨勢というものが なんぴとの手にも負えないしろものなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが問いです。  しかし そこには《アレフさんの眼》という議論も入っています。つまり 《無限》の問題です。  言いかえると 上の《§ 2》のほかに 無限をめぐる見識についてもおしえて欲しいという欲張った問いになっています。  《§ 2》の問題ですが まづ  ★ 国際司法裁判所で解決 / 国際法  ☆ について詳しくおしえてもらうのはよいのですが おそらく――おそらくです おそらく――哲学としては 現状としてのデ・ユーレ・スタンダードもデ・ファクト・スタンダードにもこだわることなく哲学としての考え方を自由におよぼして欲しい。とは思っていました。  ★ 国家というものがそのうちなくなるかもしれない。  ☆ この視点は わたしも関心がありますし おそらくこれからの世界史において重要な主題であると考えます。  もっとも 一筋縄で議論を片付けることは無理でしょうね。    ひとつの方向性として 次のように考えられますまいか。  ひとという存在にとって モノの所有ということ(あるいは所有権)は 存在と分かちがたくあると見るべきか?  その住む土地(環境やらをも含めて)ないし領土というものに焦点を当てて 見解を示していただきたい。  いわゆる《ふるさと》は 聖域か? 絶対か。  《領土》の場合には 先ほどの《国家の消滅》という課題とからまっていますが。  なおアレフさんの眼と捉えた《実無限の眼》というのは こうです。:  絶対としての無限は すでに《非知》です。神の視点です。  しかもこの《非知なる無限》を仮りに認識しうるかたち・すなわち《実数の無限・実無限》として設定できるとして 設定したなら その眼は 所有権をあらそう当事者やその解決にとって有効・有益たり得るか? という変な派生的視点を この質問ではからませている。こういう楽屋裏事情です。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

B様、こんばんは。 「所有権の絶対」、これを「主張」ということは、・・・「他者」が、必要ですね。 勿論、所有権も「人権侵害」不可ですし、 ・・・むしろ、積極的に人権を擁護する態度、というのが、 (「際限のない主張」というよりは)望ましいように思われます。

bragelonne
質問者

補足

 したがって  (あ) 所有権は 不可分離であるのか  (い) 分割しうるし 譲渡しうるというのか  ただし――つまり (い)を答えとすると思いますが――  (う) 問いのように 島の領有をめぐる当事者のあいだのあらそいに関しては どういう答えになりますか?

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     質問は数理論理学などに登場する「モデル」というものについてです。いろいろな論理や集合を扱った書籍では命題の意味論、真偽判定はこのモデルによってなされるとあります。  これはいかなる数学的構造を形式体系に対応させるかということと思うのですが、 この構造としての集合と要素、関数が各人の持つイメージでしかないように本などには書かれています(集合は丸い囲いのようなもの、要素はいろいろな形を持ったドット、関数はドットをつなぐ矢印もしくは表のようなものとして)。私の理解ではこのモデルは形式体系に内容・内実を与えるものと考えていますが、有限の範囲ならともかく無限モデルではこのイメージ主体のモデルの立場、意味するところがよく分からなくなってしまいます。無限モデルは記述として「以下同様」や「・・・」などと、あとは自然な類推で分かるだろうといった形で書かれており、「ある形式体系の公理が無限モデル上で真になっていることの確認」や「標準モデルと非標準モデルの区別」などが意図していることは人間的な理解としては感じられますが、上に書いたようなモデルの記述では結局無限の行為と判断を想定しているじゃないかと言いたくなる気が抑えられないのです。無限への直観がないと理解できないなどといった怪しげなことは言いたくないですしまた、そういうことを数学で考えるべきではないというのもいろいろなところで聞いています。ですがでは、正式にはどう考えるべきなのでしょうか。  形式体系は一つには意味抜きで無限などを扱うために導入されたものであるはずなので上のようなことは「モデルを新たに体系として翻訳すればどうか」など考えるのですがやはり形式体系とモデルは異なるものなのであり同一視はできないように感じますし(できるとするとモデルもまた記号列の一つというよくも分からないことになってはしまわないでしょうか、しかし「zfcのモデルをzfc内で展開する」などということはよく聞きますし、これは一体どういったことなのかと混乱しております)、またそんなことをしては「公理系を別の公理系に移して議論しているということだろうか」つまり「真とは別の公理系での証明可能性のことを言うのか」など問題が噴出してきます・・・。結局モデルのフォーマルな身分、記述は一体何を以てなされるべきなのかということが一向に明らかになってこないのです。このモデルの正式な、フォーマルな扱いとでもいうべきものが私の伺いたい最大のことと感じます。  加えて上で「真偽判定」という言葉と使いましたが記号列操作による証明と根本的に異なるのでしょうか。どちらもステップを踏んだ何らかな判断にほかならない思われるのです(すなわち記号列変形でたどり着けないところに真偽判定ではたどり着けるということのいっている内容がわからないのです。よく真であるが証明不能といわれるものです、真というものが別の系での証明可能性ということならよくわかるのですが。そしてこれは真偽判定つまりモデルを使った判断というものがどういうものであるかがよくわかっていないためだと感じます・・・。)。  また同じような問題として「無限個の公理を持った体系」(たとえばc≠0,c≠s0,c≠ss0,c≠sss0・・・などを公理として持つ)や「モデル内に無限降下列を持つ」なども意味をとることができません。(後者は常にやろうと思えば一個下の要素の存在をいえるというようなメタ的なものという気もするのですが・・・)  有限のものでなければ扱うのが危険だという懐疑論的なことを言っているつもりはないのですが・・・もしかしたら自分はそういうことを主張しているのでしょうか。もしくはフォーマルな記述、正式な記述ということにこだわりすぎているのでしょうか。 無限の扱いを当然のごとく進めていることが、自分の頭では整理できず、どういった判断が適切であり逆にどういうものが不適切なのかの基準が個々人に任されているように見えるのです。現実の数学としてはまさにそうであって天才はその嗅覚に優れているために他人には見つけられない何かを見つけるのでしょうが、論理学としてはコンセンサスがあるべきと考えます(無限に対するコンセンサスというとどの操作を記号列の操作というのかなど懐疑論レベルも含め様々問題が出てくると感じますがあくまでモデルを正式にどう扱うかのみの話です)。  以上、自分としてもおかしなこと言ってるなと思うところや、勘違い、妄想、妄言の類が入っていると思われ恥ずかしいのですが、助けでくださる方々いらっしゃれば幸いです。

  • 実関数fがaで微分可能である為には次の2条件が必要十分条件

    下記の命題が示せず困っています。 公理A Rは完備順序体である。 公理B R*はRの真拡大順序体である。 公理C(関数の公理)任意のn変数実関数fに対し,fの自然延長と呼ばれるn変数超実関数 f*が対応する。特にR*の体演算はRの体演算の自然延長である。 公理D(解の公理)二つの式系がちょうど同じ実解を持つならばそれらはちょうど同じ 超実解を持つ。 [定義1]x∈R*が無限小超実数であるの定義は0<∀r∈R,|x|<r [定義2]x∈R*が有限超実数であるの定義は0<∃r∈R;|x|<r [定義3]x,y∈R*において、x≒yの定義はx-yが無限小超実数である。 [定義4]R*∋∀x:有限超実数に対し,x≒yなるy∈Rがただ一つ存在する。このyをxの標 準部分と呼び,st(x)と書く。 [定義5]実数Sが実関数fのaでの勾配とは任意の0でない無限小超実数dxに対し, S=st((f(a+dx)-f(a))/dx)が成立する事である。 [定義6]fのaでの勾配が存在する時,fはaで微分可能だと言う。 [定義7]実関数fの導関数f'とは次のような関数である。 (1) fのxでの勾配が存在すればf'(x)はその勾配に等しい。 (2) fのxでの勾配が存在しなければf'(x)は定義されない。 という定義です。それで [問]実関数fがaで微分可能である為には次の2条件が必要十分条件である。 (1) x≒aなる全ての超実数xでf(x)は定義されている。 (2) 0でないあらゆる無限小dxに対し,商(f(a+dx)-f(a))/dx は有限超実数で共通の標準部分を持つ。 という命題を証明したく思っていますがなかなか出来ません。 まず, 「実関数fがaで微分可能」⇒(1) を示そうと思うのですが背理法でa≒∃x∈R*;f(x)は定義されない。 と仮定してみましたがここから先に進めません。 「実関数fがaで微分可能」⇒(2) についても(f(a+dx)-f(a))/dxが有限超実数になる事は S:=st((f(a+dx)-f(a))/dx)∈Rが存在するので (f(a+dx)-f(a))/dx≒Sなので(f(a+dx)-f(a))/dx-Sは無限超実数で 0<∃r∈R;|(f(a+dx)-f(a))/dx-S|<r よって|(f(a+dx)-f(a))/dx|<|S|+r(∈R)と書け、(f(a+dx)-f(a))/dxは有限超実数で ある。 ∀dx1,dx2∈R*,st((f(a+dx1)-f(a))/dx1)=st((f(a+dx2)-f(a))/dx2)が成立する事は 微分可能と勾配の定義から∀dx∈R*,S=st((f(a+dx)-f(a))/dx)なので st((f(a+dx1)-f(a))/dx1)=st((f(a+dx2)-f(a))/dx2)が言える。 (1)と(2)⇒「実関数fがaで微分可能」 は(2)から丈で言え,(1)は不要な気もするのですが何処で(1)の条件を使うのでしょう か?

  • PAの実装としてのZFC

    以前類似した質問をしており、また再質問になります、ご容赦ください。  1.PAのモデルには標準的なものと非標準的なものがあり、PA上の論理式では区別できないとよく目にします(だからこそ両方ともモデルといえる訳ですが) しかし、これらのモデルもなんらかの実装で再帰的に定義して扱わないと形式の守備範囲でなくなってしまい、「PAでは」区別できないということが何を表しているか分からなくなってしまうと感じます。 そこでZFCを実装として使うものと理解していたのですがこれは正しい理解でしょうか。 つまり標準モデルNも非標準モデルも 実装としてZFCを使って、再帰的に別々のものとして個々に扱えると考えてよいのでしょうか(再帰的とは文字列間の関係として定義して、というような意味で使っています)。 また上の質問とは関係なくて申し訳ないのですが、もう一つ教えていただきたいことがあります。  2.算術の言語における理論Kに対して新たに、個体定数cを加え、次の可算無限個の論理式を公理として加える(sは後者関数) c≠0、c≠s0、c≠ss0、c≠sss0、c≠ssss0・・・ そうして拡大した理論をK+とする などというのを良くみるのですが、 無限個の閉論理式を公理として加えるとは具体的にはどういう意味なのかということです。 理論にいわゆるシェーマというもので実質的に無限個の公理が含まれていることは認められるように感じるのですが、上の書き方では「・・・」の中に何が来るかが記述されてないように見えます(もちろんそれでも何が来るかは分かるのですが、論理式において見る側の類推に任せるというのは問題ではないでしょうか、しかし同時にどのような記述を採ったとしても見る側の類推に一切頼らないなどということはあり得ないのでは?とも感じるのです)。 例えば c≠0、c≠φが公理であるとすればc≠sφも公理である や c≠0、 ∀n(c≠n→c≠s(n)) などとしては意味がかわってしまうのでしょうか。(後者は強すぎる要請になってしまうのでしょうか)  懐疑論のような何を疑問に思ってるのかわかりにくい、そもそも疑問として成り立つのか怪しい質問と思いますが、 この方面に明るい方お時間に余裕があればよろしくお願いします。