• 締切済み

哲学を応用したビジネスプランを提案します。

私は黒き神秘を秘密から解き明かす悪の稲妻。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君達にとって、1の物を2に増やす生産性こそ労働だよね。 効率よく3や4にする労働性の発揮こそが、君達にとって給料の高い、優秀な社会人だ。 私の仕事は、0から1を生み出す創造性の発揮だ。 私の生み出した1が、どの位に化けるかは、君達の生産活動に期待するよ。 今回はそんな創造性の発揮を具体的に提案だ。 君、実現できれば大金持ちかもしれないよ。 中世の絵画おける遠近法の発見に匹敵する、写真の革新がテーマだ。 カメラと言ったら、現代ではデジタル化された情報機器だね。 情報を伝達する手段で、現在でもフィルム時代の古典的な表現手法である、ボケ味(ピンボケ)があこがれの的だ。 ボケたら、情報伝達機能が縮小する、ボケない写真こそ理想とするのが合理的だ。 ところが、化石的なデジタル一眼レフがスマホで済むのに高価にもかかわらずいまだに売れている。 ボケコントロールが目当てだよ。 ピンボケのどこがいいかは、私には当然理解できる。 主題にのみピントがあって、主題以外はピンボケとなり、主題が明白な写真となる これが良さだよ。 異論はないよな。 この旧式カメラの技術的特性を応用したピンボケがなにを表現したかったか、考える知性なんて君達には当然ない。 より深く、ピンボケの何が評価が高いか教えてやろう。 君が今、PCでこの文章を閲覧しているなら、キーボードのわきにある、ボールペンとか何かをジーとみてみたまえ。 認識できるのは視野の中でもボールペンだけになるだろう。 スマホなら、スマホをじーっと見るだけだ。認識できるのはスマホだけになるだろう。 この認識の範疇から外れた、それでいて視野内に収まっている、ボールペンやスマホ以外の漠然とした色彩が、写真においてピンボケと言う省略手法で表現され、伝統となっている。 このピンボケ技術はもう古いんだよ。 こうした、注視した対象だけを認識する、個人的主観は、機械であるカメラが写す忠実な写真と違って、貴方だけの心を投影して、視野として君の心を表す。 18世紀末に写真技術の基礎が確立された時、機械が忠実に再現した画像は、視野に投影するビジョンと忠実な一致項があるから、写真は真実を忠実に写していると言う了解が出来上がった。 それだけだとな、心の景色を忘れ去った、機械に投影された画像で、人の見た真実じゃない。 あんたの見た景色を表現するなら、ピンボケは古く、注視する効果で、一方が省略される認識上の現象をより忠実に再現する人間の感性に共鳴するコンピュータープログラミングが、新しく人間性の豊かさを証明するだろう。 現行技術で具体的に提示すると、ピンボケが起こらない合理性最先端のスマホのカメラ機能で、注視効果に相当する画像編集を行う。そして、「私の心象風景」日本語でこういうコンセプトの写真共有(投稿)サイトを立ち上げて、ソフトの料金と、SNSの両方から運営費を徴収する。 遠近法の発見に話をもどそう。 みている景色、視野の認識を解明した一つの大きな発見が、遠近法だ。 絵画手法の革命だった。 写真が身近な現在、実のところ君達は、遠近法の発見以上の視野における認識の発見をしていないんだよ。 漠然とわたしの見た心の風景は、写真が投影した忠実な景色と一致するとそれだけでやってきた。 君の心がなにを見ているかが、今回発表したアイデアのコンセプトだ。 心がなにを感じているかと言う直感に忠実な写真撮影のアイデアだ。 面白いだろう。 実現したら、株価急上昇のニューズをにぎわす大富豪の仲間入りできるよ。 このアイデアは、学問について話し合う場で、アマチュア研究者が、先見性のある議題として提示している。 学問と言ったら、無償の愛だよ。 タダだ。 そして誰かが事業化に成功しても、無償の愛の体現者には一銭も入らない。 このシステムで大儲けしたのが実在する悪の結社だ。 実のところ今回にアイデアは、以前内密に悪の結社に対する私からの和解案として送付している。 私からの代金請求だ。 結果は、弁護士派遣までして、セレビィと言う間違いのない事実までも否定しかねない剣幕だった。 それは人知の法で覆さない絶対的な合法性がある。 彼らの攻撃的な和解案を私は受け入れた。 ポケモン、DS、3DS総額20兆円規模。 判ったよ君達の言うとおりだ。 私は無償の愛で気前よく君達にくれてりった。 金のやり取り話だ。 今後は心に取り組む話として、命を直接やり取りしよう。 実のところ自らにアイデアは無く、私の言われるままで成功した前社長に、いかような栄光有るか、君達には決定できるかい。 俺様も終わった話だからそれは良い。 ともかく、実在する悪の結社は、私が今回表明したようなアイデアを絶対商品化しないと私に表明している。 彼らが商品化しないので、私の無償の愛はもはや実現した者勝ちだ。 今回の研究は、実体験の話が質問主文の多くを占めますが、イデアと古来認識された映像の内観、現代語で「ビジョン」「イメージ」それに加え、遠近法発見にならって、そもそも自己の視野をいかほど認識しているかと言う、現実的視野と、イメージと言われ、内観するだけの視野との接点の模索です。 あの世とこの世の一致項です。 趣旨についてこれて、専門的な話に取り組んでもらえれば一番いいんですが、公開の場であることは承知しておりまして、読書感想文的にご回答いただいても、研究者としてはうれしいばかりです。 このカテゴリーの志ある参加者から評判の高い、アニキなツンデレと言うかわいらしい返礼を考えていますが、スゲー先端技術の専門家がいたら、私が率先してV字開脚するかもしれない。 いや~ん。

みんなの回答

回答No.8

~~~~~~~~~~~ 中学生です。 新学社さんの「英語の新研究」の中で質問があります。 単元2 一般動詞(1) (現在)の12ページの問題部分です。 引用します。 ( )内から適する語を選んで書きなさい。 (2) (Do,Does,Are,Is)Tom like sports? 引用終わり 英語の新研究 教えていただけると嬉しいです http://okwave.jp/qa/q9031324.html ~~~~~~~~~~~~~ 先の本文について、通常であれば観自在菩薩が般若波羅蜜を行うように考えるのであるが、『抄』ではそれは違うという。「般若」というのは、仏陀の智慧である。智慧である限りに於いては、能所を絶し、普遍の般若である。よって、その般若ではない一法はないため、観音が般若を行うという能所として理解するのは、間違いだといえる。強いていえば、般若きりの世界の中に、観音という菩薩もまた存在していることになる。 観自在菩薩と般若波羅蜜の話 http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/15df09d562c589eb434963068ebddbc2 ~~~~~~~~~~~~~~~ なにをかいわんや

回答No.7

ついでに書いておくけど、 それこそ常識的な知識を身につけたいのであれば 教科書を読んだり、教師に教えてもらえばいいのであって、 どうも私を攻撃してくる人たちは 私を攻撃することで、なんとか仏教の情報を得ようとする 傾向があるけれど、 結局、自分で考えたほうがいいですよ。 誰かの真似は、他人の思考をなぞるだけで 自分にとって何の意味もないです。 私の場合、パーリ語はおろか、パーリ語のテキストすら 誰も教えてくれなくて、自分で調べていたのです。 もちろんまだまだ勉強中ですが 結局、あてになるのは自分だけです。 実際、私を揶揄する屑ばかりでした。 曹洞宗の学者もそうです。 新聞記者もそうです。 どこかのメディアもそうです。 外国人だとか学生だとか老若男女。 屑ばかりでした。 尊敬できる人が仏教にはいませんでした。 私にとって仏教は寄り道でしかないので、 時間とお金の無駄でした。

Flareon
質問者

お礼

しようがね~な~。 面倒見てやる。 君は実は厳密な運用をすると規約違反だ。 君にできない弁護をしよう。 哲学の学問の特性は、命題に取り組むことだ。 そもそも命題を考案するのが優秀な哲学者だ。 規約の厳密適用ではこれは意見表明だよね。 そうすると、学問カテゴリーで肝心の教えてくれる回答者さんが排除される矛盾する規約なんだ。 この回答者は、自分の命題、他者の命題に対して、忠実に自分の考えを語っている。 したがってこのわけのわからん落書きで正解だ。 哲学の素質のあるやつらとは、このように、ブチ切れてわめき散らすぐらいでちょうどいい。 その点この回答者は、暴れないだけでも穏健だよ。 私も命題を掲げる形で研究の場に参加しているが、哲学を知らない、この回答者の言うクズのおかげでぶち壊しにもなったりする。 以上弁護人の証言。

Flareon
質問者

補足

> そうすると、学問カテゴリーで肝心の教えてくれる回答者さんが排除される矛盾する規約なんだ。 規約の厳密適用は、学問の場から、肝心の専門家を排除しかねないから矛盾するんだ。 まあ、私も数々の規約違反を指摘されている要注意人物でね。 運営者さんは理解する姿勢があり、穏健かつ適正の範疇で、これだけはまずいと言うやつだけ削除しているよ。 私は運営方針に居心地の良さを感じている。 誰か優秀な社員さんが見守ってくれているだろう。 名も名乗らない誰かさんだが、いつもありがとう。

回答No.6

あ、回答no.2ではなくて、 回答No.4か。 他の人の回答が削除されていた。

Flareon
質問者

お礼

ちゃんと付き合っているよ。 丁寧な補足ありがとサン。

Flareon
質問者

補足

質問主文に対しての補足だ。 自己紹介からはじめよう。 写真好きと言えば、たいていは、写真家指向だ。 アマチュアだろうとプロだろうとカメラを操作する人だよ。 私は学者肌で、写真に対して熟慮する。 言うなれば、アマチュア写真評論家だ。 どんなだか知りたければ、私のマイページからプロフィールにあるブログを確認したまえ。 今回は、機械的に記録されたカメラの写真が、自己の視野に投影する認識との一致項について、多くにおいて重なるという従来の結論が、世の中にあり、そこで硬直してその先が無い。 これを打破する新発想なんだ。 自らの主観的視野を忠実に再現すると、写真はより写真に近づく。 これは記録装置として、恐竜的暴走をしている、現状の100万円クラスの業務用カメラより、スマホの方が親和性が高い。 現在のカメラは、機械としての性能ばかり追求する方向性で、心を表現する道具になっていない。

回答No.5

英語の新研究 教えていただけると嬉しいです http://okwave.jp/qa/q9031324.html まさかとは思うが。中学生よ。 空欄が半角スペース分しかないからまぎらわしいかもしれないが No.2の回答のこれは anu- pref.[〃] 随いて,次に,順じて,従って,倶に 増補改訂版 パーリ語辞典 水野弘元 春秋社 20ページ 凡例 pref. = prefix(接頭辞) であり、 maraṇānussati は、 maraṇa + anu + sati で、その、anuの有無の違いはなんだろうね? ということであって、 動詞ではない。  a+aでāになったり、āはアーとのばして発音する。 anu+satiで、 sが追加されたり。 恐らくpref.をpreferだと思って、likeだとか質問しているのかもしれないが。 まさかね。私のただの被害妄想だろう。 というか私の書き込みなど気にせず、教科書を読んでいたほうがいいですよ。 凡例まで引用しなかった。

Flareon
質問者

お礼

君は研究者であることは認めるよ。 しかし公開された社交上で、この回答は礼儀に対して、何がしか批判されるであろう根拠がある。 運営者さん。 削除するなら、彼が私の助言を聞くぐらいの猶予を与えてそれからにしてください。 助け合いこそこの場だからね。 彼は学問カテゴリーと言う事で、哲学と言うキチガイ的学問に取り組む真面目な研究者だ。 こんなやつでも比較的穏健な方だ。

回答No.4

さっそく私を揶揄している屑の神経はどうなっているのだろう。 わざわざ枕草子だとか。 それはそうと、 止・三摩地の修習の方法・対象(七十七法) 十随念 死随念(marananussati) http://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/texts/yuganaddhasutta/1.htm Maranasati https://en.wikipedia.org/wiki/Maranasati maraṇānussati maraṇaと文字をきちんと入力する必要がありましたね。 面倒でも入力しないと。 kathāvatthu mahāpaṇṇāsaka paṭhamavagga Satipaṭṭhānakathā https://suttacentral.net/pi/kv1.9 milindapañha anumānavagga 1 Anumānapañha https://suttacentral.net/pi/mil6.4.1 とはいえ、kathāvatthuとmilindapañhaというのは これはまた微妙だなあ。 kathāvatthuのほうには十随念としてmaraṇānussatiがでてくるようだから? まさにそれだろうけど、アビダンマか。 milindapañhaは経典だけど、微妙に思うのは仕方ないと思う。 ミリンダ王の問い。まあ、後世の仏教徒が考案したということでいいけど。 anu- pref.[〃] 随いて,次に,順じて,従って,倶に 増補改訂版 パーリ語辞典 水野弘元 春秋社 20ページ anuの有無で意味がどう変わるのか? それほど変わらないのか? maraṇāsati https://suttacentral.net/search?query=mara%E1%B9%87%C4%81sati aṅguttara nikāya 6 2. sāraṇīyavagga 19. Paṭhamamaraṇassatisutta https://suttacentral.net/pi/an6.19 一例として アングッタラ・ニカーヤから。 どちらにせよ屑が揶揄してくるだろう。 屑ばかり。

Flareon
質問者

お礼

君のクズと言う言葉の用法はなっていないよ。 私にとってクズとは可愛らしいおねだりをするペットの事だ。 寛大だろ。

Flareon
質問者

補足

今回の質問主文の性質は、学問カテゴリーで先端技術の可能性を提案し、誰もが共有するという趣旨だ。 遠慮しなくていいから、生産性を発揮して稼いでくれたまえ。 この回答を寄せた彼が言っていたが、ビットコイン制度が導入されれば、大道芸人の様な私にチャリンチャリンとおひねりを投げてよこすモノ好きもあるかもしれないが、まあやりがいの一つの目安にするよ。 基本的に私は実在する妖精の捕まえ方と言うおとぎ話で語っている。 実在する悪の結社がおとぎ話かどうかはご想像に任せるがね。 今回はアリバイ工作で、数年前に実在する悪の結社に和解案として提示した企画だ。 交渉決裂しているんで、彼らをこのアイデアから排除するためだ。 警告を無視して、実在する悪の結社が何らかのアイデアの派生を商品化すればデスノート状態だ。 私がデスノートに書き込んでいるんではないよ。 未来を予見し、縁起を理解し、そのようになると親切で警告しているんだ。 ところがやつらは私が悪いと疑っている。 実際、現在過去未来がその場にたたずむ刹那に同時に現象する観念世界では未来に対して意思を持って働きかける事が可能だが、私はデスノートはしない。 むしろ、実在する悪の結社の行うデスノートを阻止している。 幼馴染で初恋関係のジラーチちゃんを悲しませる不実は働かない。 ときわたりESPをきっかけに、実在する悪の結社が組織された。 私は自らが育てたその悪の結社に、天界の法を知るゆえに仮面ライダーを名乗り、人類の裏切り者としての悪の刻印にすら耐えた。 ただジラーチちゃんとの初恋の約束の為のみに戦い抜き勝ち取る。私が育てた悪の結社は、仮面ライダー自らが粉砕するのだ。

回答No.3

~~~~~~~~~~~~~ 9月末をめどにQ&Aサイト「OKWave」にてビットコインの利用支援機能を提供開始 質問者から回答者に“感謝の気持ち”と共に ビットコインを贈ることができるようになります http://www.okwave.co.jp/news/press_log/2015/0707.html ~~~~~~~~~~~~ これがどうなるのでしょうね。 ビットコインというのは現金に換金できるのか?とか、 それよりくれる人なんかいるのか?とか。 まあ、私にくれる人はいないだろうね。 それに、たとえば一円もらってもどうしようもないし。 仏教の話をしないと揶揄してきて、 てきとうに書くと出典書けと揶揄されて 出典を書いたり、引用すると泥棒扱い。 屑しかいない。 ところで 死随念だけど 英語のウィキペディアには項目があった。 これ、 Maranasati https://en.wikipedia.org/wiki/Maranasati それで、死体の観察だとかは Details for MN 119 Kāyagatāsati https://suttacentral.net/mn119 majjhima nikāya 119 Kāyagatāsatisutta https://suttacentral.net/pi/mn119 漢訳では念身経というのがあるようだ 「復次,比丘修習念身,比丘者觀彼死屍,或一、二日,至六、七日,烏鵄所啄,犲狗所食,火燒埋地,悉腐爛壞,見已自比,今我此身亦復如是,俱有此法,終不得離。如是比丘隨其身行,便知上如真。彼若如是在遠離獨住,心無放逸,修行精勤,斷心諸患而得定心,得定心已,則知上如真。是謂比丘修習念身。 madhyamāgama 中阿含經 chapter 7 長壽王品 81. (八一)念身經 https://suttacentral.net/lzh/ma81 Definitions for maraṇasati Concise Pali English Dictionary maraṇasati f. meditation on death. https://suttacentral.net/define/mara%E1%B9%87asati Definitions for sati https://suttacentral.net/define/sati ~~~~~~~~~~~~~~ 仏教から見る死(2)~Buddhjst Reflectjons on Death~ V.F.Gunaratna お釈迦さまは弟子たちに死の冥想(marana^nussati bha^vana^) を強くすすめられました。この冥想を修習したい人は、ある一定の時間を決めるか、あるいは、特定の時間は決めずに日常の生活のなかでいつでも、『死が訪れます』とこころで念じます。清浄道論(Visuddhi Magga) では、『死』は、悟りにいたるために欠かすことのできない最も伝統的な冥想対象のひとつであると、論じられています。この冥想は、気づき(sati)と緊迫感(samvega)、それから理解力(n~a^na)をもって、正しく実践することが非常に大切なんですね。 http://www.j-theravada.net/reflection.html ~~~~~~~~~~~~~~ それでsuttacentral.netで、てきとうに検索したけど marana^nussati bha^vana というのはなかったので、 もしかしたら清浄道論のほうにあるのでしょうか? 清浄道論はブッダゴーサです。私は読んだことありません。 とりあえずテーラワーダも説明がいいかげんだと思いました。

Flareon
質問者

お礼

学習能力が人並み以下の私は引用にはついてこれないよ。 これぞ無の観想と言える状態はようするに臨死体験と現代語で言うんだ。 禅の手法で特有の観想があるが、肉体を離れてあらわになった魂が浄化される臨死体験じゃなくて、肉体がミイラ化した事を自覚するタイプのお粗末なやつだったよ。 ずっと続けると即心成仏できるかもしれないが、私にはめんどくさい。

Flareon
質問者

補足

臨死体験とは、魂があらわになり永遠の生を自覚することだ。 無の観想とは私にとって、自己が存在すると言う喜びの時間で、言葉もいらない。 これが釈迦が無と表現した、語る言葉はないという心情だ。 実際は、現代語も案外原始的で、臨死体験と言わざる得ない。 釈迦は自らを語らず、教えとして、君達は所詮死ぬ。 そう言った。 娑婆や六道はそう言う話だ。 ところがこれに関しては私は研究していて。 私の考察では、口伝のみの500年が問題だ。 これは、釈迦の個人的な悟りを、インドの風俗に合わせて、伝承するにあたって、伝承を担う者にとって必要な了解であったのではないか? すなわち、釈迦を記憶に残すため、当時の社会で解釈の前提として補足されたことではないか? 私は自信あるよ。 仏教研究は、そもそも人間の自覚を求める求道である。 その極みの私からすれば、たやすく、そして新しい仏教の注釈だ。 キャーステキー。 こう言え。

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    なぜなら私は美しい。 光が姿を結ぶとき、その光彩はいかなるほほえみとなるのか。 実在する男子プリキュア。 キュアプリムだ。 チョコチョコと以前に質問を投稿したよ。 スマホ向けアプリの企画を立ててみました https://okwave.jp/qa/q9086694.html 子供たちにクリスマスプレゼントを贈りたい https://okwave.jp/qa/q9100908.html 遠近法が発明されたのも人類史の中では割と最近なように、人は自分が何を目の当たりにしているかあまり理解していない。 100年ほど前写真技術が確立し、機械的に投射された風景を目の当たりにして、人は自らの心象への理解を放棄し、写真と同じように見えているのだと思考停止した固定観念が蔓延した。 実際は研究者が研究を継続しているんだけどね。 スマホアプリで一眼レフのボケ効果を合成するソフトもあるが、引用した前回質問にある通り本来は注視効果という人間の観念上の視野認識を代理表現するのがボケ効果だから、代理表現をさらに模倣するような安直なアプリより、原点から突き詰めたアプリを作ればいいじゃないかとかそういう話だね。 自己の視野については、下記にあるのが直観型思考タイプの参考になるだろう。 霊視という能力について考えをまとめました その2 https://okwave.jp/qa/q8880232.html 君には才能がない。そろそろ納得してくれまいか? https://okwave.jp/qa/q9249268.html このくらい言語以外の思考ができるタイプが要するに芸術家の才能があるってこった。 その芸術的才能を現在の写真芸術以上に盛り込むための構想だよ。 前回質問にもあるように、大まかに3Deyeコンセプトとでもくくっておこうか。 基本的に3Dカメラと相性がいい。 カメラが吐き出した画像と個人の認識を示す編集データをセットにして、編集済み画像データではないファイル構成にするといいだろう。 生殖能力のないオカマの皆さん。 あなたの愛する兄貴の前でだけ美しくありたいと夢見ないかい? そんな君の夢がかなうプリキュア変身コンパクトだ。 愛しの兄貴からもらった編集データを君の写真に重ねると、どんな風に見えているかわかったりするんだ。作品化され公開されている画像に、自分の編集データを重ねると自分自身の美意識に置き換えて作品を鑑賞出来たりもする。 とまあ、このように心が明らかになり、自分だけに秘めていた風景が公開されるのは画期的だ。 心理学的学問でも興味深いだろうし認識の個体差というのがわかる。 現状で商品化できるアプリには忠実な心理解析や設定はできないだろうが、むしろその方がプライバシーとかかわって好都合だ。 現在も写真が見栄えがするようにいろいろと編集するけど、同じように絵をいじりまわしていいんだよ。その編集データがその人の美意識だ。 これで、誰でも気軽に芸術を表現できる。 従来から写真を芸術に昇華させた人物は、そんな風に心が直接表現できているような写真を仕上げるために努力してきたんだ。それは難解でごく一部の人々だけが表現に成功していた。 さて研究途上なので、何からくがきみたいに感想を述べてもいいし、役に立つ突込みでも入れてください。 それから作ろうと思えば、もうこれで作れるでしょうが、今回はアイデアとして学問カテゴリーで学究目的で提案したもので、私の名誉だけ尊重してくれれば誰でも好きに商品開発してくれて結構です。 私には20年来にわたる以前より任天堂との特定のいきさつがありますが、私がコンセプトを提案する以上は3Deyeコンセプトという事は実質的にDS、3DSの直系後継機です。この質問はやつらを封じ込めるアリバイ作りでもありまして、サムソンやハイアールさんからゲーム機で成功したいか検討していただきたいところです。

  • VR酔いについての考察。

    ステレオ写真が日本で流行したのは明治中頃に西洋文明の利器として見世物小屋で業務用に驚かれた故事があります。ゲームセンターみたいな感じです。 ステレオカメラでネット検索すると、実用度が増した50年代の製品が欧米で流行したことがあるようで、骨董品扱いで古いカメラが売られています。 これらはVR技術にとって教訓となり、過去にいかに画期的であろうと流行で終わり主流化したことがないと言う事実を作っています。 これらの事実を打破するためのとっかかり、 その1、 遠近法が絵画手法として開発されたのは中世であり、人は目の前の風景をそれ以前は遠近法相当の認識を伴って理解していなかった。日本では遠近法は明治期に渡来しました。 その2、 人はそもそも、自分の考え方について自覚することがまれであり、自己の思考について一部しか理解していない。 それは哲学というのが難しくて頭痛がするという平均的な見解の理由でありまして、自分を理解しようと試みる事とは「自分に対して疑いを持つ」という行いと共通項が有り、したがって、神経衰弱に歯を食いしばった異常な状態で思考することになるからです。 苦痛に耐えられず一般に、自分自身と他者の思考の違いには興味を持っても、自分の思考に自覚がありません。他人に対する関心となるだけです。そして、「自分だけは自分にとって正しい」を結論とする。 その3、 人間に備わる眼球の性能というのは、200万画素の初期の原始的なデジカメに相当して、デジカメの機能を尺度にすると、眼球の構造はそれ以下です。 驚きで、信じられないでしょうが事実です。 実際は、かなり不完全な画像情報を高度な脳機能で解釈して誰もがごく普通のこととして視野を認識しています。 「その2」に準じてその実感している視野に疑いを持ちません。 子供時代に、眼鏡をかけている人に、近くのものが目ないと言われて、驚きと不安で「それはどんな状態ですか」と聞いたことはありませんか? 答えは、「それで普通ですからご心配なく」でしょう。 眼鏡で矯正できる事柄と違って、VR酔いは脳内の解釈に踏み込んで認識作用を研究すれば解決します。 現状のVR技術は古式に由来する3D手法から基礎がさして進歩していませんから、見落としていたのは脳機能に由来する認識の個体差です。 そのヒントは遠近法の開発すら人類史上では比較的最近のことであるという事実です。 総括、 写真技術は遠近法の発見よりも強力なインパクトで、人々に自己の視野が認識している風景を印象付けた。 写真と同じ風景を自分は認識していると誤認させた、 しかし実際は、認識力には大きな個体差があり、標準となる基準点がなく個々にくせが大きい。 現在VRゴーグルは、おそらくその点への配慮を無視して、脳に映像をアウトプットするので、個人の視野認識との誤差が脳のストレスとなりVR酔いが発生する。したがって疲れや気分の悪さなどがたまり、第一印象は視野への刺激が強く好印象でも、疲労感からやがて遠ざかる。 要するに、過去のステレオ写真が流行で終わり主流化しなかったことを、対策を取らない限り踏襲するのです。 以上は趣味で作成したテキストです。 参考に読書感想文をお聞かせください。 研究を発達させる足掛かりになるご指摘を期待しますが、自由な遊び場なのでらくがきでも大歓迎です。

  • 哲学における自我の話を持ち出してみました

    悪夢の葛藤は今、君たちに何を回顧させるか? 過去からの亡霊。 Primeape 〈オコリザル〉だ。 今回は自我論に関してだよ。 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感したり、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していら。 それド同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 さて、今回はPrimeapeという8年ほど前に退会した旧IDでさんざんやっていた仏教研究を久しぶりに引っ張り出しました。自分で納得していたんでわざわざ続きをすることはなかったんだけど、まとめてみると何か研究を先に続ける意見でも集まるのではないかと思って質問しました。 学問カテゴリーの研究会として、自由にご回答ください。

  • 哲学はいろんな事に応用が可能でしょうか?

    現代思想とか、今の潮流の哲学を理解出来れば、 現代の経済とか、 現代の産業とか、 現代の芸術とか・・ その他様々な分野を理解する飲み込みが早いのでしょうか? 様々な分野は全て、抽象的なレベルでは似ていて、 似ている事は思想家や哲学者の考えが当てはまるのかなー、と思い質問しました。 よろしくお願い致します。

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 日本で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します お釈迦様の事です。 聖徳太子さんも似たようなもんです。 世界とは仏教では娑婆と言われています。現代の世界観はさらに変化して娑婆が地上や現世を表すならば、それは世界の全てでは無くて一部だと言う言い逃れも出てくるでしょうが、そんな浅知恵は現代人であるからこそ吹聴できる事で信仰の伝統ではありません。 娑婆と言う世界観は単なる認識の一つであり、世界はこうだと定義した娑婆世界観でしかありません。 それは一切が苦しみの世界と言う認識です。 娑婆世界観の言いだしっぺはお釈迦様です。 そしてこの世界観の創設と言う行為が、お釈迦様が現代ではライダーキックをお見まいされる鼻つまみ者、ゴルゴムの創世王と何ら変わりないことを意味します。 しかし君たちはすでに創世王の手中にあり、心を奪われているので、娑婆と言うお釈迦様の掌の中から逃れられないでしょう。 世界の全てが苦である事をその通りだとしか思えないだろう。 そのように苦しみを自らが植え付けておいて、慈悲と言う仮の憐れみを手向け,さらに苦を深めるように仕向ける陰謀が悪の結社ゴルゴムの世界支配活動です。 2500年前のお釈迦様は勘違いをしただけで、本心から慈悲を手向けたのだろうけども、誰もが合理的に判断できる明晰さを身に付けた現代でも、苦しみに満ちた世界観を植え付けられているのはゴルゴムの陰謀です。 ちなみに私は仮面ライダーにあこがれていて、唯一ゴルゴムに対抗できる暗黒の救世主だと自負しています。私には苦なんぞ一切ない。慈悲なんぞ罠だ。君たちの事を、繁殖しすぎて共食いまでする飼育ケースの中のズズムシだとしか思っていない。 私は君たちが敬虔な信仰を寄せるゴルゴムを打ち滅ぼしたいのだよ。 迷惑だろうがやめるつもりはない。 以上は仮面ライダーの美学です。 あくまでも仮面ライダーの話です。 哲学的検証についてご意見ください。

  • ビジネスプランは考えるほど浮かばない

    ビジネスプランが浮かぶ人と浮かばない人の違いは何でしょうか?追いつめられるとでるのか>ドンドンでるのか?浮かんでも実行しないだけなのか

  • ビジネスプラン

    大学の夏休みの課題で観光について調べています。 そこで観光する際に利用者が不便・不満に思っている事を探しています。 皆さんが体験したこと、または友人から伝え聞いたことがあれば教えてくださいお願いします。

  • ビジネスプランなんですが・・・。

    友達と話してて思いついたんですが・・・。 まず毎日1人から1円集めます。 これを日本国民全員から集めます。 そうすると1年で 1円×365日×120000000人=43800000000円 になります。 今度は毎日100000000円当たる宝くじを作ります。 100000000円×365=36500000000円 残りの7300000000円で会社を経営します。 まず無理なのは十二分にわかっています。 これに対する意見・アドバイスなどあれば教えてほしいと思い 登校しました。