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論理の新技術と文化的な日々
- 論理の新技術とは合理的で革新的な技術のことです。
- 一方、文化的な日々は人間の社会を形作る文化や格式を意識した日々です。
- 前者と後者のどちらが良いかは、個人の性格や価値観によります。
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単純に、「人間は非論理的な判断をする」から、100-0で二律背反な状況に分類しないほうが身のためだ、というだけです。 つまり、バランスを取っていよう、とすることで、自分を論理的に律しようということもできるし、自分の心情にしたがって行動して倫理的に律しようということもできる、というのが、「理性」として「律する」人間としていられるアイデンティティーなだけです。 これを、人間は全員論理的判断ができると思うと、株取引などマネーゲームでゲーム理論による錯覚にひっかからずに完全なゼロサムゲームで誰も儲からないし損しない経済が生まれ、マルクスが予言した「それなら資産は全員の共有財産にして、計画経済にしたら最高の効率だね」という「共産主義(のうちのマルクス主義)」を実世界でも実行できると勘違いする、中途半端に頭のいい人が暴走するのです。 経済に限らず、これを外交面に適用すれば、ISであったり、立憲主義を無視した世界でもいいじゃん、という、非論理的な施政者に、論理的な国民が無慈悲な思いをする、ということも起きるのです。 ともに、「自分は論理的でいようとしているが、非論理的な推論もすることがある不完全な存在だ」という自省がないからこそ起きる悲劇、それも自分が気づかずに他人が被害をこうむるばかりの悲劇なのです。そういう「無知の知」を理解していない人間にこそ、ご質問のような二択はさせてはならず、その共存や中間状態というのも取り得るんだよ、という知恵をつけてあげないといけないのです。
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- 雪中庵(@psytex)
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論理も技術も、道具に過ぎません。 道具の目的が、「人間にできない事をやれるように なるため」か、「人間にできる事もやらないですむ ため」かによって異なる。 それは、人の生きる目的が、物質的な豊かさか、 心の豊かさ(精神的充足量)かに由来する。 「お金をもらうためにイヤイヤ働かされる」か、 「助け合いとしての喜びによる自律的社会行動」か の違いで。
お礼
目的が物質か精神かというのは明快かと思います。 ご回答ありがとうございます。
- kurinal
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pkuobe99様、こんばんは。 「人のため」と思ってぃょぉ
お礼
ご回答ありがとうございます。
お礼
2択はおかしいですね。論理性が高いと思っても限界があって。 この質問もその通りです。 >単純に、「人間は非論理的な判断をする」から、100-0で二律背反な状況に分類しないほうが身のためだ、というだけです。 >「自分は論理的でいようとしているが、非論理的な推論もすることがある不完全な存在だ」という自省がないからこそ起きる悲劇、それも自分が気づかずに他人が被害をこうむるばかりの悲劇なのです。 適切でだと思います。 中途半端に頭のいい人が暴走するのです。っておもしろい表現です。 確かかと思います。 ご回答ありがとうございます。