• 締切済み

《自然状態》は 野蛮で戦争状態か

 カントは 『永遠平和のために』で  ヒトの自然状態は 平和ではないと規定し ここから《文化・法律による秩序化》を志向しています。  この見方は 間違っているのではないか?  この人為的・人工的な文化としての法律の取り決めによる秩序は 文字通り反・自然であり しかも基本的に言って人間性にさからっているのではないか。と問います。  ▲ ( I. カント:自然状態の廃棄) ~~~~~~~  (あ) ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は 自然状態( status naturalis )ではない。  (い) 自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているというわけではないとしても 敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。  (う) だから平和状態は新たに創出すべきものである。  (え) 敵対行為が存在していないという事実は 敵対行為がなされないという保証ではない。この保証はある人が隣人にたいして行なうものであり これは法的な状態でなければ起こりえないものである。  (お) そしてある人が平和状態の保証を求めたのに 隣人がこの保証をあたえない場合には その隣人を敵として扱うことができるのである。  原注:  (か) 一般に 他人が自分に能動的に危害を加えたのでないかぎり 相手を敵とみなしてはならないと考えられている。  (き) これは両者が市民的・法的な状態にある場合には まったく正しいことである。そして人は市民的・法的な状態に入ることで相手に必要な保証を与えることができるのである。(両者にたいして暴力を行使することのできる上位の権力を通じてである)。  (く) しかし剥き出しの自然状態にある個人あるいは民衆は  〈わたし〉からこの保証を奪ってしまうのであり たんに隣にいるという状態だけによって すでに〈わたし〉に危害を加えているのである。ただしそれは能動的な行為( Faktum )によってではなく 無法な状態にあることによって( statu injusto )である。[・・・]  ( Zum ewigen Frieden 1795   『永遠平和のために――哲学的な草案』中山元訳2006 第二章 国家間における永遠平和のための確定条項 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あたらしい主題でもないかも知れませんが 単純なかたちで《人間にとっての自然》観として問います。  つまり 人が生まれること・生きることについてそれは 思うようにならない苦(ドゥッカ)であると見られオシエとしてさえ規定されるという《文化状態》とはどういうことか? と問わなければならないのと同じように 人間にとって自然の状態は 無法で野蛮で互いに敵対しているということなのか?     この素朴・単純な問いです。  むろん 国際関係についてのご見解もあるかと思います。自由にどうぞ。

みんなの回答

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.5

NO・3 です。 ちょっと重要な部分にすれちがいがあったように見えましたので、また失礼して。 >文化が 無法で野蛮で互いに敵対関係にある自然状態と相い対立する社会の段階だという見方は きわめて片寄ったものだと考えています。 この部分に私の言葉足らずの結果があります。ことはかなり複雑でビミョウなのですね。 私の言う文明とは狩猟採集文化のことではなく、インダス川や黄河などに発生した農業のことを意味します。 家族がどんぐりなどを土に埋めてささやかなたくわえとする行為は他のげっし類小動物などにもみられるもので、これをもって人類に格差が生まれたとか、欲情が無限に膨らんだわけではありません。確かに縄文人の社会は平和な物々交換の社会だったと私も思います。しかしこれをもって文明を開いた人類の今に至る自然な状態だとはいえません。われわれが人類の普遍状態を見出すのは、縄文社会を駆逐した弥生文化でしょう。 既に稲作文化のもとでおおいに栄えた社会から原始社会に流入した弥生民族はすでに現代に通じる大いなる欲望に目覚めたいわゆる戦争を日々にする民族だったのだろうと思われます。 つまり、稲作という最高の効率で食糧を生産できる民族はそのために生活に余裕が出来、蓄えをおおいに増やして他民族よりも豊かになり、更に豊かになろうと貧しい他民族を征服して奴隷にした。そういったことの結果としてヒエラルキーが社会に誕生した。社会は常に流動的になり、資産の蓄積とともに強いものが更に強くなりたいという欲望がうずまき、他人の資産をうばおいという犯罪も増えていった。 これが人間社会の”新しい自然状態”になったということです。 > 自然に基礎を置いて自然を生かした内容の文化やその思想にもとづく《市民化・大人化》としての文明こそが よい社会のもう一つの基礎であると考えます。 ここに言われる自然とは地球に人間以前からあった天然のシステム的自然なのだと思われます。この方はまた別の問題でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  少し違っていたかも知れませんね。  ★ 私の言う文明とは狩猟採集文化のことではなく、インダス川や黄河などに発生した農業のことを意味します。  ☆ ただし少しなのではないかとも思います。  すなわち 大きな文明の中心に位置する場合とその周辺にあって その文明の成果を受け取ってその限りで社会の発展を追いかける場合とで 少しは違って来るかとは思います。  でもそれは少しではないかという意味は 二番手や三番手であってもけっきょく人びとがおのれの頭を耕すという文化は 追随するにせよさらに発展させるにせよ確かに追体験するわけですが それでもその文化思想にもとづき 人びとは市民化し大人しくなる。  自分で考え行動する。そしてまだ萌芽としてのようなものであってもその主体的な思惟・生産・交通の行為形式は 《自然かつ文化》としての社会的基礎だと考えられるからです。  かんたんな図式として捉えてみます。:    ヨリ=原始心性(前歴史知性):アニミズム;シャーマニズム        ・何ごとにも精霊を見てヨリ(依り)憑く心性        ・死の認識以前;歴史以前の自然    イリ=歴史知性:時間的存在たることの自覚;        ・世界へのイリ(入り)=《世界‐内‐存在》        ・歴史の始まりとその自然史過程としての文化    ヨセ=超歴史知性:イリ知性もヨリ心性をも自らの下にヨセ(寄せ)る        ・歴史知性なる精神をも超えようとした精神        ・自然史過程に対する外力としての人為・人工なる文化  ☆ たとえば 次のような《自然を超えようとする人為的外力》を見て取れるかと思います。  △ (万葉集 十九巻4260番)   大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ   http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou_kekka2.php?kekka=19/4260  △ (同上 4261番)   大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ   http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou_kekka3.php?kekka=4310  ☆ ただし その時おそらく二つの場合があるかと思われます。  ここはおもに自然環境の問題ですが その自然に合わせて都市をつくるか。それとも まったく人為的な景観として加工するか。  社会環境と言いますか 要するに人間を相手にするときには やはり二つの場合があると思われます。  人びとは互いにイリ歴史知性どうしであると自覚して 昼は人がつくり夜は鬼がつくると言われるようなかたちで箸墓なる古墳をつくるか。それとも すでにイリ知性から精神の飛躍を経てスーパー歴史知性となったヨセ精神が イリやヨリの人びとを寄せ束ねて 巨大古墳を造らせるか。  《自然的文化》と《超自然としての文化》と。  このように《ヨセなる超歴史知性》の場合には 人びとがそれぞれの職場などなどとして束ねられており すでに社会のあり方に格差があり道をゆくとき段差が作られていて 人びとはクラス(品位)に分けられている。そのような階級の分裂をともなう場合にこそ 次のような大きく《自然》の段階を超えて来たのだと捉えられます。:  ★ 家族がどんぐりなどを土に埋めてささやかなたくわえとする行為は他のげっし類小動物などにもみられるもので、これをもって人類に格差が生まれたとか、欲情が無限に膨らんだわけではありません。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  われわれが人類の普遍状態を見出すのは、縄文社会を駆逐した弥生文化でしょう。  既に稲作文化のもとでおおいに栄えた社会から原始社会に流入した弥生民族はすでに現代に通じる大いなる欲望に目覚めたいわゆる戦争を日々にする民族だったのだろうと思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 弥生人は たしかに新しくおおむね大陸からこの列島にやって来たものと思われます。  ですが――言語を変えるほどであっても―― それほど人数が多かったのでもないようです。(少数のスペイン人によって南米が征服された場合も 言語はその外来の言葉が主流となりました)。  おそらく弥生人は なおまだ大きく自然の内にとどまった。  環濠集落と言って すでに外敵から守るための濠がめぐらされるようになった。  けれども まだそこでの覇者は必ずしもいない。連邦制だったと言いますか あるいはお隣の国の史書によるならば 卑弥呼はなおまだ《共立》されたわけです。  つまり 《ヨセ》なる超歴史知性の突出は現われていない。  古墳は徐々に大きくなって行きますが ついに巨大古墳が造られるようになったとき その思想を持った者が 《ヨセびと》として出現したのではないかと捉えています。  鉄が伝えられ〔青銅器時代を飛ばしますが〕石器に代わる農具や工具を用いて生産性を挙げた稲作によって 剰余の価値を増やして行ったのでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そういったことの結果としてヒエラルキーが社会に誕生した。社会は常に流動的になり、資産の蓄積とともに強いものが更に強くなりたいという欲望がうずまき、他人の資産をうばおいという犯罪も増えていった。  これが人間社会の”新しい自然状態”になったということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひとつに社会の形態が 国家として成り そのかたちが二階建ての構造になったのだと見られます。  それまでは――超知性ヨセが出るまでは―― 社会は平屋建てであった。一階しかなかった。  心がイリおよびヨリなる自然状態にある人びとは ヨセ思想に接してたまげたはずです。  《そのおまえたちの土地は もともとおれたちの土地だ。領土である。服属せよ》と言って来たのですから。    いろいろあった挙句 イリ・ヨリ人は ヨセ人に《くにゆづり》をしました。  社会にも やしろを作って神を祀りましょう そこにお住みください 思う存分この国という家を経営してみてくださいと。  つまりは そこまで学力優秀で品格方正であるなら 社会をおまかせしましょう。気の済むまで好きなようにしてみてください。そのあと ふつうの・自然にもとづく人間にお成りなさいなと。  現在にまでおおよそこの二階建ての家がそのまま到っていて 千五百年が経っています。  こんな感じで捉えています。  

回答No.4

私が中学の時学校の図書室で読んだ読み物には、弱肉強食とは自然界を表し、人間の秩序は弱肉強食ではないと書かれていた。 彼らに説明するには、神の発見で猿は人になった。 だから神はいる。 人間万歳、神様万歳。 これだけでいいんだがね。 ところが自然状態には誤解もあって、死は新たな命を紡いでいくから殺すばっかりではないんだ。 カントとやらはアホだね。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。ここ(この質問)では 神を出したくなかったなぁとは思います。  カントは そうとう立派な哲学を築いています。けれども。・・・  のようですね。  ご回答をありがとうございます。  

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.3

人間がさかしらに知恵を得て、その日暮らしから身の程を越えてたくわえを持てる「文明」期にはいったことが境目だったのでしょう。つまり、人間の欲望が限度を越えて膨れ上がったために、お互いが殺し合いまでして自身の財産を蓄えるようになってしまった。人間の自然状態とはそういう始末に負えない悲惨をいうのでしょう。悪いことに(というか文明を得る前提としての)社会生活を必要とした人間は、そういった他人との密接な関係性もあって、原始文明の状態にあるいくつかの民族は、今でも村単位での喧嘩、争い、暴力行為が絶えないという調査もあります(「昨日までの世界 ジャレド・ダイアモンド) より進んだ先史文明社会では、自由と権利の追求という矛盾した相互の関係に一定の秩序とバランスを設けねば成らなくなった。何らかのルールと歯止めが必要だろうということに成ったのですね。ここに法律が生まれたのだと思います。 国際関係でも同様でしょう。力に任せた囲い込みはいずれできなくなります。生きるためのリソースは全人類のために使わねば成らないというルールを作るべきです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  わたしは 趣旨説明での論調でお分かりのように 別の見解を持っています。提示してみます。  ★ 人間がさかしらに知恵を得て、その日暮らしから身の程を越えてたくわえを持てる「文明」期にはいったことが境目だったのでしょう。  ☆ 微妙に書き直したいと思っています。  狩猟・採集・漁労の生活をしていたときのこと すなわち縄文の時代に竪穴式住居のそばにドングリ・ピットという穴が掘られているそうです。すなわち 食糧を生活に必要な量より多く貯えていたらしい。ドングリがまだ残っているのが分かったらしい。  これは しかしながら 初めから《身の程を超えてたくわえを持とうとした》わけではないはずです。食糧の乏しくなったときのための備えです。  おそらくおっしゃるように《備えとしての貯え》が いつしか《余剰を貯える》ことになりこの《剰余》を備え以上のことに用いようとしたのだと思われます。  勾玉か何だか知りませんが 飾りを――わたくしのために・個人的に――たくわえたかも知れない。  そのようにして やがて死者を埋葬した墓では 副葬品の多い人間と少ない人間とに分かれるようになったのが分かる。それとしての格差が出来て来た。  そうしてこの格差をつくるためやさらにその差を大きくしようとするために生活の糧などをめぐって競争が始まった。  ――これらの歴史過程のぜんぶが 《自然》であり同時にすでに《文化》を持つようになった。やがて農耕を始めるようになるけれども その前にもみづからの頭を耕し始めたのだから 文化が始まっている。しかもそのことも じつは 自然である。人間にとっての自然本性にとって そのような思考のハタラキを持つことは 同じく自然の状態である。  こう書き直したいですね。微妙に違うと思います。  ひと言で言えば 自然と文化とは必ずしも互いに対立しているものではないと。  ★ つまり、人間の欲望が限度を越えて膨れ上がったために、お互いが殺し合いまでして自身の財産を蓄えるようになってしまった。  ☆ 競争は始まったものと思われます。ですが そこから直ちに争いや戦いに移るとは限らない。  たとえば アフリカのいわゆるブッシュマンと呼ばれる人びとのあいだでは 戦争がないと言われています。狩猟民は 戦争を知らないという事例があると。  むろん 縄文人から弥生人に移って行くと 墓から出る頭蓋骨などに明らかに矢が刺さった跡だと分かる痕跡が見つかると言います。つまり やはり戦争をするようになったのだと知られます。おそらく一つには 生活上で得た剰余の価値をめぐって奪い合ったのかも分かりません。(やがてこの剰余価値は 巨大な古墳となって現われるようです)。  ですからここでも言いたいことは 人びとのあいだに諍いが始まったことも 《自然かつ文化》の状態として出来て来たのであろうと見たいです。  ★ 人間の自然状態とはそういう始末に負えない悲惨をいうのでしょう。悪いことに(というか文明を得る前提としての)社会生活を必要とした人間は、そういった他人との密接な関係性もあって、原始文明の状態にあるいくつかの民族は、今でも村単位での喧嘩、争い、暴力行為が絶えないという調査もあります(「昨日までの世界 ジャレド・ダイアモンド)  ☆ 自分のあたまを耕すという文化の状態は 自然の状態の中からやがて――どの原始心性においても――持たれて来るでしょう。  ちょうど今日 次の番組を見ました。  ○ 地球アドベンチャー 冒険者たち「南米ギアナ高地 謎の山 未知の民~関野吉晴」  http://www4.nhk.or.jp/P2528/x/2015-07-22/10/16716/  《未知の民》は ホティ族と言っていました。自給自足の生活です。  たとえば 吹き矢を考案します。それは 武士にとっての刀のごとく扱われるとか。  熱帯の小さな鳥をそれで獲ったのですが 小さいけれど 草花の蜜を吸っていて肉は甘いのだとか。つまりそういった嗜好も――自然状態において――発達させている。  《喧嘩、争い、暴力行為が絶えない》というのは この日本の社会とくらべて どうなんでしょう。そうだとしても さほど違いはないのではないでしょうか。  ★ より進んだ先史文明社会では、自由と権利の追求という矛盾した相互の関係に一定の秩序とバランスを設けねば成らなくなった。何らかのルールと歯止めが必要だろうということに成ったのですね。ここに法律が生まれたのだと思います。  ☆ 法律が出来て来ることについては もはやそれほど見方に違いはないと思います。  ナラハシとして・つまり慣習法をふくめて そういう歴史をたどって来ているものと思います。  基本的には 生まれ出て来た格差についての共同自治であり そのためにオキテなどの取り決めが持たれて来るのでしょう。    こちらの強調したいところは 文化は自然の状態の中から〔こそ〕生まれて来るものだという点です。  文化が 無法で野蛮で互いに敵対関係にある自然状態と相い対立する社会の段階だという見方は きわめて片寄ったものだと考えています。  自然に基礎を置いて自然を生かした内容の文化やその思想にもとづく《市民化・大人化》としての文明こそが よい社会のもう一つの基礎であると考えます。  微妙ですよね。   

回答No.2

自然は、物質循環における恒常性を、食物連鎖の 生態系ピラミッドによって可能にしています。 捕食者は、狩る事を本能としても、それが生態系を 破壊するようでは淘汰され、制御された欲求が醸成 されます。 破壊的という意味では、そうした制御装置の壊れた 人類の方が危険です。 身の回りの衣食住全てが世界中からやって来ており、 もはや人類は社会生命だと言えるのに、その意識は 自己チューなままで、それを他律的にコントロール するために、お金や出世といった“馬車馬の目の前の ニンジン”=アメや、法規やモラルといったムチを 発達させたのです。 その結果、生命の根源的欲求である「生きる事」で ある、社会生命としての労働は、お金をもらうために イヤイヤ働かされるものになり、助け合うために集まっ ているはずの社会は、競い奪い合あう弱肉強食の疑似 ジャングルと化したのだ。 そうした歪みが、自然におけるバランスの取れた拮抗 としての戦いとは次元の異なる、破滅的な戦争を生ん でいるのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 補足要求です。  (け) ★ 捕食者は、狩る事を本能としても、それが生態系を / 破壊するようでは淘汰され、  ☆ の《淘汰され》るのは 何によってなのですか?   生き残るのも・淘汰され消えゆくのも 動物の身体組織の自己運動のごときチカラによるのでしょうか?    すなわち:  (こ) ★ 制御された欲求が醸成されます。  ☆ というふうに 自己組織化が 正(生きる)にも負(生き延びえない)にも作用するという意味でしょうか?    (さ) でも――《自然状態》を考えるにあたっては――次のように ヒトは これら動物の場合とは違っているのですか? 違いはあるが 大きくは違わないのですか?  ★ 破壊的という意味では、そうした制御装置の壊れた / 人類の方が危険です。    (し) 自然の物質循環を 人間の持つ精神は動物とは違ってその自然の作用や過程についてしっかりと事実認識しさらには思考することを成す。そのとき自然のあたかも自己運動の過程とは別に人間の望み好むことをも欲しその循環を《破壊する》ことがある。  そのように《自然の摂理のごときハタラキ》としての《制御装置》が 人間ではその身と心において《壊れている》し その自然の制御装置じたいをも壊してしまうことがある。  そのとき それでもなお人間は 大きくは自然の動きに従うことになる。ということなのか? それとも 壊してしまったまま進んで行くということなのか?  (す) くどいと思われるかも知れませんが そこで問いが来ます。:  ヒトの自然の状態は 自然環界にもほかのヒトに対しても 基本的に《敵対的》な動きを成す。というのか?  それとも 自然環境ともほかの人たちとも 基本的には親和性を持ち友好的である〔が その中で時には ヘソを曲げて敵対的になる場合もある〕と見るのか? どうでしょう。  (せ) すなわち 人間はどうしても  ★ 他律的にコントロールする  ☆ 必要がある生物なのか? それともそれは あくまで一部の特殊な状態と情況であるということなのか?  (そ) なぜならたとえば《身の回りの衣食住全てが世界中からやって来て》いなかったその昔 異民族との交通が限られていたとき それでもすでに《法律》は持っていました。そして お金も持つようになったでしょうし ほかの人間を支配してやろうという支配欲に支配されてしまった人間も出て来たでしょうから これらと法律とと合わせて 《アメとムチ》の二点セットもととのっていたものと考えられます。  《他律的なコントロール》は 人びとが自然の状態で生き続けて行ったときそこに必然的にそして絶対的に必要となるものなのか? それとも あくまで一部分の問題情況だということなのか?  (た) 基調はどちらなのか? だと思います。  ご回答をありがとうございます。

noname#212854
noname#212854
回答No.1

素朴、単純な回答ですが、キリスト教文化圏ではとっくにその使命を終えたキリスト教を前提にしている下らない疑問と結論です。キリスト教産業を維持する御用学者の意見です。原子力と東大文化と同じです。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(趣旨説明欄)  カントは 『永遠平和のために』で  ヒトの自然状態は 平和ではないと規定し ここから《文化・法律による秩序化》を志向しています。  ☆ この見方が間違っているということは すでに定説となっているという意味でしょうか?  ただし・すなわち  ★ キリスト教文化圏ではとっくにその使命を終えたキリスト教を前提にしている下らない疑問と結論  ☆ であるが  ★ キリスト教産業を維持する御用学者の意見  ☆ としては いくらかは残っている。という意味ですか?  それとも  ☆☆(趣旨説明欄) この人為的・人工的な文化としての法律の取り決めによる秩序は 文字通り反・自然であり しかも基本的に言って人間性にさからっているのではないか。  ☆ という疑問と結論が  ★ 原子力と東大文化と同じ〔ように〕 キリスト教産業を維持する御用学者の意見です。  ☆ こうでしょうか?  日本にも 《キリスト教産業》が存在しているということでしょうか?  《キリスト教文化圏》以外の地域では そういった疑問が起きない。ということは初めから 自然の状態が決して人びとにとって敵対的なものではなくそれなりに平和な社会を成している。という意味でしょうか?  ただし 生老病死なる四苦は ブディズムが伝えられ受け容れられた程度において 日本など《キリスト教文化圏》以外の国でも ある種の文化を形成した部分もあるのではないのですか?   つまり 《自然状態≠平和》という説と《人生=苦》という説とは 言語家族の見方からも通じているのではないでしょうか?  要するに総じて言えば 《自然状態≠平和》といった思想は 世界にはもともと無かったし 一たんそれが現われた地域にあってもすでに現代では きわめて下火なのである。――こういうご回答でしょうか?  ご回答をありがとうございます。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう