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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:古隅田川(利根川・都内部分)痕跡)

古隅田川の謎とは?

このQ&Aのポイント
  • 古隅田川はかつて利根川本流だった川だった可能性があります。
  • 現在の流路とは異なる古隅田川の痕跡を葛飾区と足立区境界付近で見ることができるかどうか疑問です。
  • 古隅田川の流路は、現在の利根川や荒川のように幅広かった可能性があります。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

>この付近で利根川本流だったころの古隅田川の流路の痕跡などを見ることができるのでしょうか。 恐らく難しいでしょう。 確認できても、河川としてではなく道路として確認できる程度かと思います。 お住いの地区の博物館などへいかれれば古地図があるかと思います。 東京の川の歴史を辿るのは恐ろしく難しい作業です。 東京の川の歴史を辿る際に面倒なのは名称の変化だけではなく、ほとんどの川が人工的に流域を変えられています。 川の名称といいますのは、現在は水源から河口まで一つの名前ですが、歴史的にはつい最近のことです。 長い間、流域に住んでいる人達が各々名前をつけていました。 その名残りは多摩川で見られます。 河口付近は六郷川で遡ると丸子多摩川となりさらに二子玉川と変わっていっています。 又、今の隅田川と昔の隅田川とでは、流れている川そのものが違うということも起きます。 隅田川という名称も実は東側の地域での名称で、西側では浅草川、大川などと呼ばれていました。 隅田川は武蔵と下総の国境でした。 両国橋というのはこのことに由来します。 江戸川のように川の名前そのものがコロコロ変わった川もあります。 江戸時代の江戸川は現在の神田川の飯田橋よりも上流部分です。 江戸川台という駅名が残っています。 現在の江戸川は江戸時代には利根川と呼ばれていました。 現在の関宿から銚子へ流れている部分も利根川と呼ばれていました。 地理学や地図学の分野では流域の変遷を議論するさいに統一した名前にしようという提案はありますが、未だに放置されています、 結果として学問の世界でも混乱したまま使っています。 論文発表者次第ということです。 現在の埼玉県の北部から東部一帯は広大な湿地帯でした。 河川がクリーク状に入り乱れて流れていました。 これを長い時間をかけて埋め立てると同時に、流れを集約していきました。 これは古墳時代から昭和時代まで五月雨式に続きました。 もっとも頻繁に行われたのが江戸時代の初期です。 特に都内区部の中小河川は昭和に入ると次々と埋め立てられて道路とされました。 人工的に流域を変えた経緯は下記のサイトをご覧ください。 時代ごとの地図が載っています。 利根川東遷概史 - Ne www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/tone/index.html 利根川の東遷、荒川の西遷 - 東京を描く hix05.com/rivers/river01/river.013.html 江戸川は下流域も人工河川 - Ne www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/tone/edogawa.html ご質問の古荒川につきましては下記のサイトをご覧下さい。 I 東京の主要河川の流路変遷 - 東京を描く hix05.com/rivers/river01/river010.html 古隅田川 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/古隅田川 還らざる大河古隅田川 時代と河川 www.kyubunhp.sakura.ne.jp/taiga.htm 蛇足 縄文時代から考えますと、東京湾が現在の古河市南部付近にまで入り込んでいた時代があるとともに、関東平野全体が現在の江戸川の方向へお盆を傾けるように沈み込んでいます。 現在も江戸川区付近は市川市の国府台の辺りに向かって年間5mm程度づつ沈んでいるとされています。 関東平野の川が真っ直ぐ東京湾に向かわずに埼玉県付近で南東に流れをを変えるのはこのためです。

noname#247150
質問者

お礼

参考資料とご見解ありがとうございます。 現在の川筋がそのまま当時の流路だとは思っていませんが、明治初期の地図や現在の地形図では判断できません。 現在の地図でも古道がそのまま現在の道となっている部分をつなぎ合わせると、おぼろげに出てはきますが、やはり想像の域を出ませんし、ネットで紹介されている古代流路も、当時の文献等をもとにしていると思われ、地質調査等で導きだしたものではないように思います。何か現代に、素人が目で見てわかる裏付けがないかなとふと思いました。 100年もたっていない荒川放水路が荒川本流と認知され、人口の河川であることを意識する人も少なくなりました。 何故、足立区や江戸川区が荒川の内側まであるのか、堀切という駅がなぜ川の両側にあるのか。そんな証的なもの‥‥荒川放水路はたぶん300年後までも正確な文献資料が残るでしょう。 でも、400年前の河川の名残を今の地名や地形などから、実感するのは古隅田川の場合は難しいのでしょうね。 古地図は探してみる価値がありそうですね。 色々ご参考に察せていただきます。

その他の回答 (1)

noname#224207
noname#224207
回答No.2

No.1です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます お礼の中にご感想やご希望がありますので追加の説明をさせて下さい。 古代流路等につきましては地質調査から割り出されたものが多数あります。 「東京低地」をキーワードとして検索してみて下さい。 研究報告などが多数ヒットします。 ビルの建設時には必ずボーリング調査をしますので、学会には豊富にデータが集まっています。 古い河川を探すだけのためにわざわざ地質調査をしている訳ではありません。 東京の河川につきましては下記のような素人向けの文献があります 東京低地の古代 葛飾区郷土と天文博物館公開講座 熊野正也偏 崙書房 川が語る東京 東京の川研究会偏 山川出版 東京の地理がわかる事典 鈴木理生偏 日本実業出版社 古地図につきましては下記のようなサイトがあります。 古地図 - goo地図 map.goo.ne.jp/history/ 都内区部の明治時代の地図があります。 なお「江戸東京重ね地図」というソフトが販売されています。 画面操作で現在の地図と江戸時代・明治時代の地図が重なって表示されます。 「江戸東京重ね地図」で検索してみてください。通信販売されています。 以上ご参考までに

noname#247150
質問者

お礼

重ねてありがとうございます。 >この付近で利根川本流だったころの古隅田川の流路の痕跡などを見ることができるのでしょうか。 結論はこれなんです。 これが叶わぬのなら、せめてこの辺だったというところを現在のルートで足で確かめたいのです。 古隅田川は元禄時代に川筋が閉ざされ、急速に現在の形になったと思われます。この時は利根川東遷は太日川筋になっているようですが、17世紀以前、閉ざされる以前の古隅田川は、古利根川(中川)と太日川に分水されていたとはいえ、現在の同水系の河川の水量から見ても100~150mの川幅を有していたはずです。幼少の頃この付近に住んでいたので、今でも現在の川筋に足を向けますが、150mの川幅の河川が現在の川筋で流れることはあり得ないです。 だから1000年前とか家康の頃といわれる川筋の図に現在の古隅田川の川筋が書かれているのは誤りだと思っています。 当方は地質については全くの素人ですが、地質調査で17世紀以前の川筋が再現されている図があればぜひ見たいです。 goo地図はマークしていますが、この部分は範囲外ですし、ほかの図も元禄時代以前のものと、現在の地図の整合性がとれるかわかりません。 いずれにしても、ソフトや文献資料を買うお金もないし、時間ができたら地元の図書館や資料館へ出向いて調べようと思います。 御礼にならない自論展開になってしまって申し訳ありません。 色々な参考資料ご紹介やアドバイスありがとうございました。 『東京低地』で検索したら、これとは別に興味深いものがたくさん出てきました。 勉強になりました。

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