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みなさんにとって「死」とは?

みなさんにとって、死とはなんですか? 悲劇?喜劇?それとももっと淡々としたもの? みなさん自身の言葉、主観でお聞かせください。 私の質問は「死とはなにか?」ではありませんので。 引用や受け売りはなしでお願いします。 (もちろん自分の価値観が他人から影響を受けたものであるのはわかってますが、 それを租借したうえでの自分の言葉でお願いします)

noname#207785
noname#207785

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回答No.7

死は悲劇でも、喜劇でもないと思います。 というのも、私たちは自分が死んだのを、見たり、体験できないからです。 他人の死なら、いくらでも見ることができ、私も親族の死をずいぶん見てきました。 私たちは他人の死を見て、自分もきっとあのように死ぬんだろうなあ、と他人の死と自分の死を同じものとして考えていますが、他人の意識は見えませんから、見えるのは生物としての他人で、それに対して自分は同じ生物でもありますが、何と言っても私という意識を持った存在です。 ここには私の死と他人の死との非・対称性があります。 だから他人が死ぬからと言って、同じように私が死ぬかどうか、それは分かりません。 というのも、意識というものには終わりがないからです、あるいはこう言ってもいいかもしれませんが、終わりを意識できません。 私が生きている限りでは、意識があるのだし、私が死んだなら、それを振り返って私が死んだのをみずから確かめることはできません。 意識が無くなったのを意識しえません。 他人の死ならば、ここまでが生で、ここから先は死だという明確な境界線がありますが、私の死の場合、ここから先は死だという明確な境界線なんてないし、その境界線を意識することはできません。 死というものが瞬間だとしたら、他人はその瞬間を知ることができる、たとえば心臓が停止して心電図が波を打たなくなればそれが分かりますが、私は自分で自分の死を見たり、体験できないのだから、私には死の瞬間というものがあったとしても、それを意識できません。 私は気がついた時は、いつの間にか死んでいた、ということになりますが、ただし、死後の世界があって、私が自分の死を振り返って確かめられればですが。 だいいち、私は自分が誕生したシーンを自分で見たことがありません。 私を生んでくれた両親から、あとで聞いただけです。 私という意識を持つようになったのは、私が生まれてからだいぶ後になってからです。 私たちは自分がいつから意識を持つようになったのか、それを振り返っても、いつからだという明確な時期を特定できません。 いつの間にか意識を持っているのに気が付いた、ということでしょう。 たぶん、私が死ぬ時も、肉体的に死ぬ前に意識がボケちゃって、死の瞬間なんて意識できなくなっていると思います。 私たちは毎晩眠りますが、何時何分に自分が眠ったか、それを知ることはできません。 もし、出来るというのでしたら、ご自分でやってみるといいと思います。 死は私の体験上の事実ではありません。 時間というものが直線状をなしていて、その終点に死があるわけでもありません。 突然、交通事故で死ぬかもしれないし、突然理由もなしに人から殺されるかもしれないし、ガンにかかって2~3日中に死ぬと医者から宣告されるかもしれないし、平均寿命まで私が生きると保証されたものでもないし・・・・・・つまり死は貨幣の裏表のように、生に付きまとっています。 以上のことから、私はもしかしたら自分は死なないのではないか、と思っています。 それを意識できないんだから・・・・・・・・ 悲劇とか、喜劇というのは、他人から見ていうことで、私は死を意識しえないのですから、私にとっては自分の死は悲劇でも、喜劇でもありません。

その他の回答 (5)

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.6

それまでに自分や先祖の作った問題を解決して、将来の世代に引き渡すための締め切り日

  • yuyuyunn
  • ベストアンサー率41% (20359/48651)
回答No.5

淡々とした物 だって誰にでも来るから 3回死にかけている家族がいますが ある意味すごいと思います

noname#207750
noname#207750
回答No.4

≧(´▽`)≦アハハハ・・ それが あなたの「死の意味」か(笑) 俺のは持論では無いが この世とは「有形実体世界」です・・そして 死は 単に「無形実体世界」に移住するだけ・・ そうしないと 有限な 身体では 永存出来ない・・ 無限に永存する為には そういった精神だけにならないと永存出来ないだけ・・・ だから 死の意味なんて無いだけ・・・

  • manmanmann
  • ベストアンサー率12% (535/4296)
回答No.3

おわり。 ただし他人の死は、おわりではない。

回答No.2

他人の死は別れです。 自分の死は自分では経験することができない概念上のイベントです。

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