• 締切済み

川端康成の掌編小説 《神います》から問います。

 あらためての問いになります。  先に論点をかかげます。  表題ないし主題は 《〔日本人にとってのと言ったほうがよいのかどうか・・・〕神がいた。見つかった》というような内容を言っているのですが 論点としては こうだと思います。:    (α) 《人が 人を 不幸にすること》は ありうるか。そんなことは ほんとうには 出来ないことだと主人公ないし作者は言っているようなのだが。  (β) 《不幸にすること》がありえない場合も 人を《傷つけること》はあるか。  (γ) 《傷つけ得る》として そのとき 《傷つけた者が 傷つけられた者に赦しを求めること》は すべきや否や。  (δ) すべきかどうかを別として そのように《赦しを求める心》は むしろ《驕り高ぶり》であるか。  (ε) 矛盾した問いになるかも知れないが あらためて問うて 《人が人を傷つけること》はできるか。その意味は:   (ε-1) ~~~~~~~~~~~~~~~~   《心が傷つく。傷つけられる》には けっきょく心理的なその場の一時的な上っ面の怒りや悔しさや〔相手が間違っていると分かっていても 権限関係等々の情況からして反論することも出来ない場合に感じるような〕悲しさをおぼえて 心が深く傷つけられたと感じること これはあります。  でもこれは 心の一部だと考えられませんか?  心という海の表面で その場でムッとしたり敵愾心を燃やすばかりに悔しさや恨みをおぼえたりしているのではないかという見方です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (ζ) たたき台とする質問者の見解としては 《ひとは 人を不幸にしたり傷つけたりすることは ない》です。    (ζ-1) ~~~~~~~~~~~~~  もし傷つけられたと感じた場合には それは おのれのへそが曲がっていた(つまりウソ・イツワリをおこなったなどの)そのツケが回って来ただけだと考えます。つまり 自業自得のおこないにおいてのみ ひとは心が傷つく。と。  他人の言動で こころが傷つくわけには行かない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  ▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~  夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。  湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬から落ちた。   《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》  見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。   《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》  《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりましてな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。  若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へた美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。   《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》   《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》   《さやうですか。》  鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。   《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》  彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。   《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》  鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。   《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》  《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。  (あの少女だ。)  彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。  鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。   《さあ 一ぺん沈め。》  妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。  そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとうかがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶつてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して傾いてゐた。  泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつかないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつたのも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうまで不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。  鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判になつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩として誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来ないので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。  湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出て 妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせて 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつたりしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんでやつた。  帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原はほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。  鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らずのうちに素直な心で呟いてゐた。   《神います。》  自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。   《神よ 余は御身に負けた。》  彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で聞いた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 鳥屋は 《とや または とりや》として 専門的な用語もあるようですが ここでは《鳥を売り買いする商人》として見ておきます。(異論がありましたら おしえてください)。  思いっきりこれでもかというほど自由なご見解をもお寄せください。

みんなの回答

回答No.3

例えば、いじめの典型的言葉で、「死ね、ばか!」がありますが、自分も過去に言われたり言ったりして、傷ついたと思った経験があります。 もし、他人の言動が人を不幸にすることはないとすると、この経験は、言われたほうの自業自得ということでしょうか。何となくそんな気もしますが、だとすると、そう言われて傷ついた人は、その経験をどう捉えればいいのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづわたし自身も ここでの経験を振り返りますと:  1. ここ(質疑応答の場)から出てけ!  2. 精神科へ行って診てもらえ!  3. そして《典型的言葉で、「死ね、ばか!」があります》    でしょうね。  さて わたしたちは 一般に理性にさからうというよりは 感性にさからっていわゆる《わるいこと》を想像してみたり企んだりするのではないでしょうか。  何の事例を出しましょうか。敢えて万引きにしましょうか。  というのも もしそうしようという思いが頭をかすめたときには すぐさま気持ちは乱れ胸は揺れ惑い冷や汗までが出て来ます。  ヤマシサ反応と言っていますが ところがそこへ現れ出でるのは ほかでもなく《理性》大先生です。  いやいや ほんのちょっとのことだ。わかりゃあせん。分かったって 些細なことだ。・・・そしておまけに もっと心を広く大きく持って人生を生きて行かなければいかんぞよとでもアドバイスをくれるかも知れません。理性さまが そうおっしゃる。のではないでしょうか?  つまり 感性としてのヤマシサ反応にわれはさからっている。わたしは わが心がわが心に逆らっている。  だとすれば そのたくらみを強行すれば あとで良心においても社会的・倫理的な人間関係においてもそして法律に照らしてもそれなりの処罰を受けますが だとしたら これが自業自得なのではないでしょうか?  言いかえると ヤマシサ反応を強行突破したこと。これが わが心に傷をつけたことになる。コトをおこなったあとにおいてというよりもすでにその心に逆らうへそ曲がりを起こした時点で 心に傷がついたことになる。  ではないでしょうか? どうでしょう。このように考えてのみなさんへの問いかけです。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

大兄は、大兄であり。カミデナシ

bragelonne
質問者

お礼

 小説のなかの人物が 《神います。》と言い《神よ 余は御身に負けた。》と言ったのは 誰か人についてそう言った(つまり 人間が神であると言った)わけではないでしょう。  ご回答をありがとうございます。

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.1

傷つける人は、大人でもいますよ。僕の場合は、グループでした。 「グループ 対 僕」という構図で、グループの人たちは、一方的に攻撃やつきまといをしてきます。「幸せ壊し屋さん」です。僕を殴っているのを見て、警官が止めにきたのですが、彼らは警察もかわせるんです。殴る理由もない有り様です。 どうしようもない人って、いるんです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。   《神よ 余は御身に負けた。》  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というのが 小説の持つ言い分なんですが 《傷つきました》か?  小説としては《傷つく》ことはあったとしているようですが その《いやなことを嫌な気分で受けた》といったことを言っていると思います。  ですから 《不幸になった》とか《不幸にした》ということはないだろうと小説の目は見ているようですが 言い過ぎでしょうかね。  ご回答をありがとうございます。

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     先に論点をかかげます。  表題ないし主題は 《〔日本人にとってのと言ったほうがよいのかどうか・・・〕神がいた。見つかった》というような内容ですが 論点としては こうだと思います。:    (α) 《人が 人を 不幸にすること》は ありうるか。そんなことは ほんとうには 出来ないことだと主人公ないし作者は言っているようなのだが。  (β) 《不幸にすること》がありえない場合も 人を《傷つけること》はあるか。  (γ) 《傷つけ得る》として そのとき 《傷つけた者が 傷つけられた者に赦しを求めること》は すべきや否や。  (δ) すべきかどうかを別として そのように《赦しを求める心》は むしろ《驕り高ぶり》であるか。  (ε) 矛盾した問いになるかも知れないが あらためて問うて 《人が人を傷つけること》はできるか。  (ζ) 質問者のたたき台としては 《ひとは 人を不幸にしたり傷つけたりすることは ない》です。  もし傷つけられたと感じた場合には それは おのれのへそが曲がっていた(つまりウソ・イツワリをおこなったなどの)そのツケが回って来ただけだと考えます。つまり 自傷行為においてのみ ひとは心が傷つく。と。  他人の言動で こころが傷つくわけには行かない。  ▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~  夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。  湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬から落ちた。   《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》  見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。   《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》  《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりましてな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。  若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へた美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。   《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》   《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》   《さやうですか。》  鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。   《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》  彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。   《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》  鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。   《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》  《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。  (あの少女だ。)  彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。  鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。   《さあ 一ぺん沈め。》  妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。  そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとうかがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶつてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して傾いてゐた。  泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつかないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつたのも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうまで不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。  鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判になつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩として誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来ないので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。  湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出て 妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせて 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつたりしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんでやつた。  帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原はほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。  鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らずのうちに素直な心で呟いてゐた。   《神います。》  自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。   《神よ 余は御身に負けた。》  彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で聞いた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 鳥屋は 《とや または とりや》として 専門的な用語もあるようですが ここでは《鳥を売り買いする商人》として見ておきます。(異論がありましたら おしえてください)。  思いっきり自由なご見解をお寄せください。

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