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神が全知全能の造物主だと誰が言ったんですか?
聖書ですか? 聖書にもとづき人が言ったんですか? だとしても どうしてその見解にわれわれ一般の人間が従わなくてはならないのですか? 全知全能というのは そうだとしても ただの属性でしょう。 創造主だというのは そのように物語を描いて表現したに過ぎないことでしょう。 何で調子を合わさなければならないのですか? 神は 神でしょう。
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神がおっしゃった
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- raiden787
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>ですが さらに普遍的な神の信仰があるかも知れない。そういう意味で この全知全能だとか創造主だとかのオシエについて 普遍性を問うています。 普遍性はありません。 全知全能の創造主というものは全知全能の創造主がいて欲しいと願う人の心の中だけにいるのです。 現実にはそんなものいませんし、信仰していない人間の心の中にもいません。 私はそんなもの信仰していないので私の心の中にはそんなものいません。 つまりbragelonne さん自身がそういう全能の神を信仰しているかしていないかの問題なのです。 >どうしてその見解にわれわれ一般の人間が従わなくてはならないのですか? 従わないといけないなどというルールは存在しません。 現に私はそんな見解になど従っていません。 bragelonne さんも従う必要などありません。 >何で調子を合わさなければならないのですか? 合わせる必要はありません。 私も合わせてません。 bragelonne さんも合わせる必要などありません。
お礼
信仰というものを誤解しておられます。 ご回答をありがとうございます。 ★ 普遍性はありません。 / 全知全能の創造主というものは全知全能の創造主がいて欲しいと願う人の心の中だけにいるのです。 ☆ それは 信仰のことです。 ところが 《全知全能》と言えば すでに概念です。誰の目の前にも 否が応でも 社会の中では現われます。 自分がそれを受け容れていなくとも 相手が その概念を持ち出すならば それ相応の取り扱いをしなければなりません。互いにその存在をとうとび人格をないがしろにしないためには 必要です。 つまり その言葉が持ち出された時点で 誰もにとって取り扱わなければならない概念となります。ゆえに妥当性や普遍性について問うてみなければならないし つねにその概念内容について哲学は 見守っているつとめがあります。 ★ 普遍性はありません。 ☆ その根拠が まだ薄弱だと申し上げました。 ★ 現実にはそんなものいませんし、信仰していない人間の心の中にもいません。 ☆ こんなことは いろはのいです。なぜ それほど常識であるのに それでは 一部の人たちにあってはそれが大事なものとして持たれているのか。しかも 常識を持つ人びとのあいだで じつにその普遍性のない〔と見られてもいる〕概念が すでに前提であるかのように扱われています。(No.5の へきゆさんは 欧米キリスト教国家が世界を席巻しているからだということだそうですが)。 わたしは 中立の概念としては 普遍性を持つと考えています。ただしそれが・つまりそのオシエが あたかもそのまま神ででもあるかのように胸にいだかれている。そのことには おかしさを感じるしかありません。 単なる慣習事実としての常識を持ち出されても 話はすすみません。哲学の出番なのです。 ★ つまりbragelonne さん自身がそういう全能の神を信仰しているかしていないかの問題なのです。 ☆ 概念は 考えるものであり 信じるものではないと言っています。 《従う・合わせる》問題については 先ほど へきゆさんの見解を示しました。《かまっている》人びとはいるからです。 言いかえると 従う理由はいっさいないということを 哲学は 論証する必要があるようです。
- hekiyu
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"神が全知全能の造物主だと誰が言ったんですか?" ↑ 神がそう言ったんでしょ。 それを麻原みたいなペテン師が、じゃなくて 預言者が、民衆に伝えたんじゃないですか。 そうでなければ、神学者辺りが、後から理由付け をしたのです。 神は一人しかいないなら、全知全能の創造主だと した方が色々と便利です。 体系化出来ますから、布教もしやすいです。 ”どうしてその見解にわれわれ一般の人間が従わなくてはならないのですか?” ↑ 従っているのは信者だけでしょ。 ワタシなどはまるで全然百%従っておりませんが。 そもそも全知全能なんていう概念は矛盾しています。 誰かこのカテで指摘していましたが、 例えば神でも持ち上げられないバーベルを神が創れるか。 創れなければ、神は全知全能ではないことになり 創れれば、神はそれを持ち上げることが出来ないから やはり全知全能ではないことになります。 こんなのは人間が勝手にこしらえた概念に過ぎません。 ”何で調子を合わさなければならないのですか?” ↑ 欧米キリスト教国家が世界を席巻しているからです。
お礼
★ 神がそう言ったんでしょ。 ☆ その神って だれですか? どこにいるのですか? いつ言ったんですか? ご回答をありがとうございます。 ★ 預言者が、民衆に伝えたんじゃないですか。 ☆ ですから その預言者は ヴィデオテープにでも録ってあるのですか? ★ そうでなければ、神学者辺りが、後から理由付けをしたのです。 ☆ そうだとして なぜわたしたちが その理由づけした議論に話を合わさなくてはならないのですか? ★ 神は一人しかいないなら、全知全能の創造主だとした方が色々と便利です。体系化出来ますから、布教もしやすいです。 ☆ 《無》だとしてもいいぢゃないのですか? うんと話が早いと思います。ひと言で済みます。 ★ 従っているのは信者だけでしょ。 ☆ いえ。そうとは限りません。ここでも 一般の人が神は全知全能だなどと・そして天地を創造したのだとかと いちおうの前提として受け容れて話をしています。なんで話を合わさなければならないのですか? ★ ワタシなどはまるで全然百%従っておりませんが。 / そもそも全知全能なんていう概念は矛盾しています。 ☆ やっぱし かまっておられるぢゃないですか。 ちなみに 矛盾の証明も 無理ですよ 言っておきますが。 ★ 例えば神でも持ち上げられないバーベルを神が創れるか。 ☆ 簡単には 人間からのクレームを受けつけないとすれば 済みます。全知全能だからです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 創れなければ、神は全知全能ではないことになり 創れれば、神はそれを持ち上げることが出来ないから やはり全知全能ではないことになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 作れるでしょう。全知全能ですから。 そしてそのバーベルを持ち上げることも出来るでしょう。神だから。そこには時間的な経過があるからです。 言いかえると 神という絶対あるいは無限にあっては 時間・空間はないわけです。時空間を――経験事象を――超えています。因果関係からまったく自由です。だったら そのように《創る・創ことができる・持ち上げる・持ち上げられる》といったような時間概念の関数としての中身の事柄はすべて超えているのです。 言いかえると 仮りの現象をたぶん神はその疑問を表明した人間に見せることでしょう。つまり お望みのバーベルを作ってみせて お望みのように持ち上げて見せる。それは 時間差がある経験事象であるゆえに 矛盾なく出来ることなのです。そういうまぼろしの映像をその懐疑主義者には見せてやることでしょう。全知全能だからです。 ★ こんなのは人間が勝手にこしらえた概念に過ぎません。 ☆ いえ。《神》は その言葉としてまた概念としては人間が自由に取り扱うことが出来ますが その意味の中身については そうは行きません。その中身のナゾを人間は知り得ないからです。知り得ないものとして人間は 想定したといういきさつもあるにはありますが。 ★ 欧米キリスト教国家が世界を席巻しているからです。 ☆ ぢゃあ 非欧米の国家やその市民は 欧米キリスト教国家の奴隷にならなければならないのですか? 《強制連行》ではないのですか?
- purizuna
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「誰?」と問われれば、キリスト教世界の「人間」です。 そもそも、宗教を信じるか、信じないかの問題なので、 「信じるなら」従う選択も出来ますが、「信じない」のであれば気にする必要もないのではないかと考えます。 ちなみに、キリスト教における「聖書」にはこの地を支配するのは「悪魔」で神ではないと記されております。 「神」の力が我々に及ぼすのは、「死後」に限られているので、現在において「神」に頼るのは意味のない事と 思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ そもそも、宗教を信じるか、信じないかの問題なので、 ☆ というふうに一般に捉えられているようですが そもそも《全知全能の創造主》という概念は 信じる――無条件に心に受け容れる――対象ではありません。考えるものです。仮りに ゼンチゼンノウノソウゾウシュという意味の分からない神の名前であったとしたら それは 信教・良心の自由によって まったく何の問題もありません。(組織をつくっている点は 問題にしたいところですが いまは措きます)。 ★ 「信じるなら」従う選択も出来ますが、「信じない」のであれば気にする必要もないのではないかと考えます。 ☆ そうですか。それならそれでいいのですが。 けれども ここでも信じていない人がそういうフレーズを 神についての質疑応答では 持ち出しています。 そのときのために いま議論(情報交換)をつうじて或る程度の哲学としての回答を出しておけば すいぶん交通整理が出来て 渋滞を阻むことが出来るはずです。そういう意味で いま問うています。 ★ ちなみに、キリスト教における「聖書」にはこの地を支配するのは「悪魔」で神ではないと記されております。 ☆ 悪魔については 屁の河童なのですが そちらの議論におつき合いしましょう。 そうすると そのように悪魔がこの地上の世界を支配しているというのは あくまで(シャレではありません)神がそうしてよいというゆるしを与えているる範囲と程度までということになっているはずです。 詳しくは 悪魔の支配という見方は 微妙なのでしょう。
お礼
きもちわるいので 全部は聞きませんでした。 投稿のご足労 ご苦労様です。
- raiden787
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×「だとしても どうしてその見解にわれわれ一般の人間が従わなくてはならないのですか?」 ○「だとしても どうしてその見解にキリスト教徒が従わなくてはならないのですか?」 嫌ならキリスト教(ユダヤ教かもしれませんが)をやめればいいのです。 それだけの話です。 非キリスト教徒にとっては聖書の神など尻を拭く紙にすらなりません。
お礼
組織宗教をみとめない――それは 無効の行為であると見る――立ち場ですが それでも 大きく信教・良心の自由に立ち表現および結社の自由にもとづくなら その《キリスト教徒》が 何を自己表現の中身とするかは その人たちの自由です。 ですが さらに普遍的な神の信仰があるかも知れない。そういう意味で この全知全能だとか創造主だとかのオシエについて 普遍性を問うています。 この趣旨に沿って ご回答をいただけるとありがたいです。 言おうとするところが 残念ながら わたしには分かりません。 ご回答をありがとうございます。
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お礼
というご自身の主観を表明された。 それだけになります。 哲学は いかなる命題についても その成否や当否を問います。さらにそのあと 成立して妥当であるとしても その普遍性を問います。 そういう意味で ご回答な足りません。 ご回答をありがとうございました。