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記憶力と予想能力と自我と意識

ど素人のヒマ人ですが、教えてください。 眺めていると、小さな蟻も、メダカも、あの小さな脳みそで、驚いたり安心したり嫌ったり覚えたり攻撃したり、などなど、多様に振舞います。アブは植木鉢のまわりをしばらく飛んで、手頃な花が見つからないと、”諦めて”去っていきます。虫でも意識はもちろん、自我もあるように見えます。苦痛が続くと疲れきったり、何かを達成したときは喜びや幸福さえも感じているように見えます。自我は、ものごとの因果関係を認識できる条件、つまり、時間認識と記憶力と予想能力があって初めて生まれると思います。 脳神経系?心理学系?の専門家の間では、自我はどのくらい小さな生物から存在すると言われてるのでしょうか。私は、ミジンコくらい小さいと、記憶や予測を頼りに「思い通りに」生きているとはとても思えません。 関連する書籍などもあれば教えてください。

  • lllll
  • お礼率76% (413/538)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sowow
  • ベストアンサー率20% (18/90)
回答No.5

そもそも自我ってなにか?意識とは? という大問題があります。 アリんこに自我があるように見えるのは、見ている人間に自我があるからかもしれません。 『図解雑学 記憶力』山元大輔 ナツメ社 \1300 が、面白かったですよ。分り易いし。

lllll
質問者

お礼

ありがとうございます、そのとおり、自我と意識の違いもあまりわかっていません。ずばり雑学ですね、とっつきやすそうです。

その他の回答 (4)

  • Diogenesis
  • ベストアンサー率49% (859/1722)
回答No.4

#3です。 どーでもいい補足ですが。 ミジンコは甲殻類の一種ですので, 仮にエビやカニに自我を認めるならば, いくら小さくても ミジンコにも自我を認めざるを得ないのではないでしょうか? また因果関係の認知 (より正確には共変関係ないし随伴性の認知)は 単純な条件づけにおいても重要な役割を果たしています。 逆に言うと 条件づけが可能な動物にはあらかじめ ある種の因果認知能力が備わっているということで, これをもって自我の根拠とするには無理があるように思います。

  • Diogenesis
  • ベストアンサー率49% (859/1722)
回答No.3

>自我はどのくらい小さな生物から存在すると言われてるのでしょうか。 これは大きさそのものというより 系統発生的水準を問題にしていると理解してよろしいですか? 動物の自己認知に関する研究は結構あるのですが, その対象は哺乳類と鳥類がほとんどです。 またそこで得られた知見を 「自我」という概念で説明するのが適切かどうかは別の問題です。 というのは「自我」なるものについて, 心理学や認知科学の中に そもそも共通理解が成立していないからです。 自我というものは言語能力の産物, あるいは社会的な構築物(要するに約束事)であって, ヒトに固有のものであるという立場を取る人がいます。 一方で ミジンコのような生物でも自他の区別を行なっていて, 食物を取り合ったり生殖活動を行なったりしているのだから 自我を認めても良いという立場もあるでしょう。 ただ一般的傾向として 「より低次のメカニズムによって説明が可能な現象を 高次のメカニズムで説明してはならない」という モルガンの公準を受け入れて, 自我を幅広く認めることには消極的な研究者が多いように見うけられます。 参考になりそうな本を2つほど紹介しておきますね。 真木悠介 『自我の起源/愛とエゴイズムの動物社会学』 岩波書店 板倉昭二 『自己の起源/比較認知科学からのアプローチ』 金子書房 前者は社会学, 後者は心理学ないし比較認知科学の視点から 自我や自己の問題を論じたものです。 両方読んでみると視野が広がると思います。

lllll
質問者

お礼

ありがとうございます、ちょっと難しそうですが、それ以上に面白そうです。

noname#7082
noname#7082
回答No.2

【…関連する書籍などもあれば教えてください。】 (下記URLの本に記されている 第8章より抜粋、) …生物の活動は、反射活動、本能活動、合理的活動、自動的活動に区分される。 「反射活動」とは単に動きによる反応、外的刺激への反作用であり、その時点での有益性や便宣性に関わらずいつも同じやり方で起こる。 その起源と法則は細胞の単純な「刺激感受性」の産物である。 …略(刺激感受性の法則を証明し、その説明後)…かくして、「刺激感受性の法則」の中に、 記憶、疲労、習慣の萌芽を見ることができる、そのために、細胞は、意識的で理性的ではないにしても、少なくとも記憶し、習慣を形成し、疲労することのできる存在であるという錯覚が生まれる。 我々が細胞にだまされるとすれば、もっと複雑な生活を送る動物にだまされることは遥かに容易だろう。…略、 ******* ******* ******* あなたの 問題(意識、自我、時間認識 等の)解決の 参考になる本だと 感じました。 ので、お勧めします。

参考URL:
http://homepage1.nifty.com/pdo/TOintro.htm
lllll
質問者

お礼

大変参考になります、ありがとうございます!

  • SoHeart
  • ベストアンサー率50% (13/26)
回答No.1

お腹が空いたらご飯が食べたくなります。これは人が自覚します。しかし、ほんとうはミトコンドリア(人間の細胞のエンジン部分)が決めています。緑ゾウリムシはゾウリムシとクロレラの共生(だったかな?)。合体作です。微生物はそれぞれ行きやすい形へと進化してゆく過程でどんどん合体していっていまの生物がいます。微生物のときから何かを食べて、エネルギー代謝をして生き続けようとします。無重力状態で星は回り続けます。あらゆるものが今ある状態を維持しつづけようとします。生物の場合、生き続けようとします。自我とは、生きつづけるために生まれたひとつの機能だと思います。かなりはずしてしまったようで、ごめんなさい。

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