結果が全てなら過程は全て放棄しないとおかしい

このQ&Aのポイント
  • 結果が同じだった時に初めて過程が見られるの?
  • 結果が全てと言いながら過程も真面目であることを要求することが多い
  • 真面目にやってようがふざけてやっていようが失敗に終わったという結果が同じなら、同じように批判されるべき
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結果が同じだった時に初めて過程が見られるの?

「結果が全て」とか言いながら、「過程も真面目であること」を暗に要求してくることって多いですよね? それならば「できる限り真面目にしてくれた方がより評価します。」と書いとけよ。 成功すればどちらでも問題ないというやついるけど、それなら失敗したときもどちらでも同じ扱いであって然るべきでしょ? 失敗した時には「真面目にして失敗したんなら仕方ない」っていう意味不明な保険措置が働くことが多いじゃん。なにこれ?結果が全てなら過程は全て放棄しないとおかしい。 真面目にやってようがふざけてやっていようが失敗に終わったという結果が同じなら、同じように批判されるべきだろ。 真面目にやって失敗したら仕方ないっていう変な保険措置があるなら、「結果が全て」とは言うべきではない。 真面目だったら失敗してもいいのか? 「毎日徹夜で仕事に取組み、夜討ち朝駆けで飛び回っていた人」も「仕事時間内に喫茶店でサボリまくっていた人」も 成功であろうが失敗であろうが過程を一切見ずに結果のみを見るのが、「結果が全て」ってことでしょ? 真面目にやってた人が失敗した時に 「一生懸命やりました!でも失敗したんです…。すみません。」 って言ってきたことに対して 「失敗したんだからお前が悪い。消えろ」って言っても良いわけで。結果が全てなら。 結果が全てなんだったら、失敗した時も過程なんか見てはいけないでしょ? それとも結果が同じならそこから差別化させるために過程を見るの? それなら「結果が全て」とは言えないですよね?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

ある商売をしていると仮定しましょう。 ある事故があり、売り物である商品を用意できませんでした。もちろんそれなりに頑張って手は尽くしました。 お客さんに対して頑張ったんですけど商品を用意できませんでした。商品はお渡しできませんが、私たち頑張ったのでお金だけ貰えますか? と、まさかそんな理屈が通用するわけではないことは容易に想像つくでしょう。 結果がすべてとはそういう意味です。 商品と売上(つまり仕事の結果)が無ければ給料(つまり見返り)は貰えません。 ただ、会社員は大人数で成り立っている組織ですから役割分担があり、みんなで1つです。一人が結果を出せなくても、他の人が結果を出していれば給料がもらえます。全員の手柄を全員で割っているのですからね。 つまり、その人が今結果を出せなくても、最終的に会社にとってプラスであれば良いよ、という仕組みがあるのが会社員です。なので将来の成長も見越して給料を出しているので、「頑張っている」というのも将来性があるという意味で待つことができるのです。 なので、特に大企業で経営に加わらない立場で会社員をやっていると「結果がすべて」ということにこだわらなくても、ある程度給料がもらえてしまう仕組みがあります。 そういう環境では頑張った過程そのものを評価できる体力があるということです。 ただ、やはりその考えが浸透してしまって全社員が結果がでなくても過程さえ頑張れば良いとなってしまえばいくら大企業と言えども倒産は時間の問題です。 だから、自営業や中小企業ほどは口を酸っぱくして言う必要もないけれど、それでも結果がすべてと言う基本は忘れるなという姿勢が中途半端な物言いに繋がっているのかなと思います。 長くなりましたが、回答としては、「個人単位で見れば将来の成長とそれに伴う結果を含めて考えることが可能で、頑張った事実そのものも評価に含めて考える価値と仕組みと余裕がある。しかし会社単位で考えれば結果がすべて。」と言う、やや面倒臭い回答とさせていただきます。 それはもちろん人の成長をゆっくり待っていられるだけの余裕がある会社員だからこそ、なせる技です。 そういう意味で、個人単位で見れば会社員はありふれているくせして実は非常に奇妙で商売の原理原則を無視した常識はずれな働きかたなんじゃないかなと私は思っています。

raiponta
質問者

お礼

はい

その他の回答 (3)

  • hiro822
  • ベストアンサー率20% (132/638)
回答No.3

失敗も質によっては結果という考えはあるにはある。 この条件では失敗するという結果、知見。 でも結果がダメなら評価はしないというところもありますね。 真面目にやらなかった失敗には結果がない。

raiponta
質問者

お礼

ほう

回答No.2

コメントありがとうございます。 結果が第一。 それがいいですね。 そういうことを考えず、結果が第一を結果が全てと言い放ってしまう人も少なくはないですよ。 逆も然り、結果が全てと言いながら結果が全てではないと言う人も居ますから。 要するに振り回されるのはゴメンってことですね。

raiponta
質問者

お礼

はい

回答No.1

「結果が全て」という大前提がある問題ならそれしかないんでしょう。 それだけのことでないんでしょうか。 <できる限り真面目にしてくれた方がより評価します。 これも社会的には当たり前の大前提なお話だと思います。 あなたが「結果が全て」と思うならそれはそれで良いと思います。 過程は関係ありませんよね。 ただ、そういうものにあてはまらないものもあります。 全てがそうではないことも受け入れないとダメな問題もあるんではないでしょうか。 簡単に言えば「全ての物事は結果だけでは計れない」ってことです。 何に対しても「失敗したんだからお前が悪い。消えろ」と言って良い訳などありません。 それはまた別問題です。 人は曖昧なのです。 ルールはルールという人間、 己が立てたルールを己で覆してしまうのも人間、 結果が全てという人間、 そうではないだろ?という人間。 いろんな人間がいる限り、1つの答えに絞れないのも人間。 そういうことではないですかね。

raiponta
質問者

お礼

例外があるのなら言い切るべきではないと思いますね。少なくとも全てという言葉は外すべきでしょうね。 結果が第一、これなら分かりますが。

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