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マルクス主義について

二十代でアカくならないのはバカだという言葉があるみたいですが、 みなさんはマルクスやマルクス主義の文献と出会い、 どう感じてどう受け取りましたか? くだらないと感じた、今でもマルクスやマルクス主義の理論を 尊敬している、共産党に入ったなどなど。 みなさんのマルクスとの出会い、経験について教えてください。

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回答No.4

今の人は、ほとんどマルクスを読む人がいなくて、古書店に行っても、マルクス主義だとか社会主義の本は2束三文で、1冊100円のワゴンに乗せられて、山のようになっていますが、誰も買う人がいません。 それを見ると時代が変わったんだなあ、と私なんか浦島太郎のような気分で、嘆かわしいと思っています。 私の若いときは学生運動の盛んな時で、みんな集まっては革命だとか、マルクスだとか、喧嘩腰で議論していました。 議論の関係上、読まないわけには行かないので、私もずいぶんマルクスや社会主義関係の本を読みました。 今になって思うと、あれは何だったのだろうと、首を傾げたりします。 今はみんなシラケちゃって、政治だとか社会だとか、議論する学生なんかいなくなって、キャンパスも綺麗になりました。 昔はいたるところにビラが貼ってあって、キャンパスも汚くて、その代り不思議な熱気があふれていました。 東大闘争の時は機動隊と全共闘の革マル派と中核派が勢力争いをして、機動隊と三すくみで、学生同士、内ゲバをやっていました。 東大安田講堂の屋上に陣取って、機動隊めがけて火炎瓶を雨あられと投げつけ、投石して、反対に機動隊から上空からガス弾を発射されたり、ホースで水をまかれたり、もう戦場にいるようでした。 眼は催涙弾で真っ赤になるし、手拭いで口や目を押さえても、防ぎきれないし、機動隊が少しづつ階段をバリケードを破壊しながら登ってくるのに対して、投石して防衛するのが大変でした。 結局、みんな最後には捕まって、抗争が終わりました。 今になってみると、いい思い出です。 思想的には、マルクス主義を今もって正しいと思っています。 特に、マルクスの「資本論」の前に書かれたヘーゲルの「法の哲学」は近代社会の原理をあらわしたものとして、今でもそれ以上のものはないと考えています。 ヘーゲルは社会というものを「家族・市民社会・国家」の三層からなる社会と考えていて、歴史的に言って古代から、中世を経て、近代までの社会の発展形態であるとともに、近代社会の構造だと考えていました。 家族というのは共同体ですから、物のやり取りは、マルセル・モースの「贈与論」でいう、贈与互州によって行なわれます。 だから、家族は互いに助け合い、友愛を育みます。 物を贈与しても、金銭に換算して考えません。 父親は子どもの教育費・養育費を出しても、それをお金で返せとは言いません。 母親が家事労働しても、それに対して賃金を寄越せとは言いません。 家族は共同体で、互いに物品は「贈与」によって行なわれるからです。 ちょうど古代の共同体がモースのいう全体的給付の体系で、互いに物を持ち寄って、分配していたのと同じです。 そこでは、貧富の差もなければ、みんな平等で、一つのパイをみんなで分け合っていました。 それが現在、家族という形態で残っているわけです。 ところがこの家族は生計を維持するために、その成員は市民社会に出て行って働かねばなりません。 市民社会に出ることで、家族は、その共同体は失われます。 ヘーゲルは家族を「人倫共同体」と言って、人間がもっとも人間らしく暮らせるところだと考えていました。 だから、市民社会は「人倫共同体」の失われたものです。 市民社会では、誰もただでは働きません。 また、経営者は人をただで雇うことは出来ません。 何事も金銭に換算されます。 市民社会は経済社会であり、現今では資本制の社会だからです。 マルクスが「資本論」の冒頭でいうように資本制社会では、すべての物品は「商品」として現れます。 労働力でさえ、商品です。 資本制の社会では、人間は「人格」として扱われるのではなく、単なる「商品」として扱われます。 時には愛情も商品になります。 また、幸福も商品になります。 たいていのものはお金で買えます。 そして市民社会は激烈な競争社会ですから、人は道徳的なことを言っていられません。 生きて行くためには他人を蹴落とし、自己の利益を図らねばなりません。 だから市民社会では、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなります。 貧富の格差が拡大します。 だからヘーゲルの言うように市民社会は共同体の喪失態、人倫共同体の失われたものです。 本来、人間はこのような市民社会に長く生きていられません。 そこに国家の存在理由があります。 国家は家族の共同体が失われたのを、高次に回復した共同体です。 市民社会の人倫の喪失を回復したものです。 国家の中ではみんな同胞であり、仲間です。 互いの職業の違いを乗り越えて、市民社会の「市民」は国家の中では「国民」です。 市民社会で、お互いに敵同士でも、国家の中ではみんな同志です。 国家は共同体ですから、家族がお互いに助け合い、友愛を育んだように、国家は国民から税を徴収し、高額所得者からは「累進課税」で、より多くの税を徴収し、それを貧しい人に、各種福祉制度、たとえば失業保険や医療保険、生活保護で、還元し、富める者と貧しい者の格差を減らし、平等を図るために、富を再分配します。 ヘーゲルによれば人は国家の中でこそ、人間が人間らしい生活を取り戻します。 ヘーゲルにとって、国家こそ、人間社会の理想でした。 もちろん、それは今の現実の国家とは違います。 このヘーゲルの「法の哲学」を土台に、それを経済学で表したのがマルクスの「資本論」でした。 資本主義社会では、富が資本家という階級に集中し、逆に労働者はますます貧窮せざるを得ないことを、その必然的な成り行きを論理的に解明して、最終的には私有財産制にその原因があることを明らかにし、原始共同体に帰ることを主張しました。 私有財産制を廃することで、人間が単なる「労働力商品」でなく、人間として回復されます。 市民社会で失われた「人格」が回復されます。 富める者もなく、貧しい者もなく、人はその労働力に応じ、富の分配にあずかります。 家族も共同体として回復されます。 人間同士の友愛も回復されます。 そうして初めて、人間らしい世界が実現します。 だけど、現実にはそれは「ユートピア」でしかありませんでした。 にもかかわらず「ユートピア」としては今でも生き続けています。 特にトマス・ピケティーの「21世紀の資本」の言うように経済格差がどんどん拡大して、アメリカのように人口の1%にGDPの25%が集中し、人口の10%にGDPの50%が集中している現状では。 今の日本のように、非正規労働者・派遣労働者・パート労働者が全労働者の半数に及び、低賃金で結婚も出来ず、家庭も持てず、少子高齢化が進んでいる現状では。 今こそ、マルクスが見直される時ではないでしようか?

kirakiraaruku
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なるほど、回答ありがとうございます。

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noname#221368
noname#221368
回答No.10

 資本論や、そこにいたるまでの沢山の草稿の理論的価値とは別の話として・・・。#9さんのお話に、一部通ずる・・・、かも知れない(^^;)。  自分は#9さんの一世代後で、団塊ジュニアの一世代前です。そんな世代は公式にはないので、失われた世代(?)という訳です(普通は、どっちかに括られる)。  自分が高校を卒業したのは、バブル絶頂の15年くらい前でしたが、景気は悪くなかった。というか今にして思えば、無茶苦茶に景気は良かった。とりあえず何してても日銭は稼げて、食うには困らなかった。  そういう中で風太郎しながら、欲しいままに出来る自由な時間を持て余し、マルクス(原典はさすかにパス)を読みました。それでマルクスだなんだと言われても、余りびびらなくなりました。  共産主義(と資本論)は話してしては良く出来てて、納得できます。しかし現実を見ると、どうもそうではなかった。  ソ連はロマノフ王朝を倒したロシア革命が出発点でしたが、マルクスが予言したような、資本主義の頂点と堕落の中で共産革命が起こったなんぞとは、そもそも絶対に思えない。何故ならロシアは当時のヨーロッパの中で、最も資本主義化していなかった、最も中世的な国だったからです。西ヨーロッパの人々の感覚としては、ロシア(ソ連)は、別の地方というのが本音だと思います。そこで一点突破を謀るかのように、共産主義革命が標榜された。  ドイツ(プロイセン帝国)は、西ヨーロッパの中ではとりわけ中世的な国だった。明治維新のように上からの近代化を試みたが、少なくとも第一次世界大戦まではそこに、真の意味での資本主義が根付くことはなかった。  プロイセンは第一次世界大戦に負け、どうしようもない状態になった。そこにやはり一点突破を謀るかのように、ナチスが登場する。ナチスの正式名称は、「国家社会主義ドイツ労働者党」です。  どうも近代史を見る限り、共産(社会)主義革命は、資本主義が十分でなかったところでこそ頻発していた。それは何故なのか?。資本論によれば、資本主義が爛熟してこそ、共産(社会)主義革命が起こるはずなのに・・・。  だからそれは、人為的なものなんですよ。出口のない状況を突破する実力行使のための、手段として使われた、という気がする。他にも例は思い浮かぶはずです。また社会主義,共産主義に向かわなかったら、例外なく軍事独裁に向かいました。何故でしょう?。  ウェーバーの組織論的分析を我田引水すると、共産主義は一党独裁と相性が良いからです。ただそれだけです。カッコつけて一党独裁といたって、それが軍事独裁に向かうのは、火を見るよりも明らかです。  ただし本気で共産革命を望み、行動した人達もいたと思います。キューバのゲバラは恐らくそうだし、最初期の頃のカストロ議長(現在のカストロ議長のお父さん)も、そうだった気はします。  自分が大学に入学できたバブル絶頂の10年くらい前、まだ民青(日本民主青年同盟)があったんですよ。  ※ 今もたぶんある。  「君たち~。ちょっと寄っていかない?」と、やたらと上から目線で話してくる、よれよれ背広姿の勧誘員に会った時、思ったのは次のような事です。  風太郎とはいえ6年間みっちり働いた自分としては、民青の活動は自己マン以外の何物でもないように見えた。「人と違う事をやりたい。人と違う事をやって自分のアイデンティティーを保ちたい。オタクとどこが変わるの?」と。  ・・・とても付き合い切れませんな、が自分の本音でした。  ↑性格悪いな・・・(^^;)。

kirakiraaruku
質問者

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なるほど、回答ありがとうございます。

noname#210533
noname#210533
回答No.9

1974年頃の段階で、ゲバ棒と「連」とか「共」とか「闘」とか、 ペンキでかかれた現場用ヘルメット被って、女みたいなロンゲで、 裾が擦り切れて泥がついたラッパジーパン履いて、ギロンして、 酒飲んでビートルズやたくろう歌ってた連中の周りにも、そんなの 知ったこっちゃなーい、っていうノンポリの若者は大勢いたよ? たださ、初めて体を委ねた相手がギロン好きの青臭い若造で、 それに付いてって訳も判らず、ってゆー女の子は沢山いたと。 近所のニーちゃんだった禿親父が懐かしそうに目を細めて 語ってくれたりはしましたよ。 あいつらとマルクスとの出会い、ちゅーて。 自分も先輩に憧れて、マルキストちゅーのになってみたいと 思ったけど、今にして思うと、鬱屈して金も無かった学生時代に 皆で語り合って歌いあってマージャンして暴れて、要するに 青春したかっただけだった、かもな、って。 私はその頃まだ中学生で、物凄く頭が良くて純粋な、かっこいい 人たちが大学生ってもので、彼らが言うカクメイだとかミンシュウ だとか、サクシュだとかシホンカだとか、そういう意味不明な 言葉の集合体、という意味で捉えていました。 自分が社会人になって、それらが革命で、民衆で、搾取で、 資本家だ、ということを自分のうすっぺらい給料袋と立場と、 見えない未来と、煌びやかな成功者たちと、ネオンと、そして どこにもいけない自分の暮らす街と。 それを通して漸く少しづつマルクス主義の言ってたことが ちょびっと判った頃には、そんなのは一部の人を除いて 誰も省みない古典になっちゃってて。 あの頃ね。私がまだ学校出て社会人になって三年も 経ってなかった頃。 勤めていた会社には労働組合ってのがあってね。 会社とのダンコー、つまり団体交渉ね。 ストをやるぞ仕事をするなというのね。 私はその頃営業職で、毎月のノルマに辛い思いを しててね。今月の月末締めに見込み客から契約をね、 もらえるかどうかで頭が一杯だったのね。 でも、禿げた腹の出た酒臭い親父連がね、皆、チョーって 肩書きについてないのね。 それが午前中は喫茶店で競馬新聞やら赤旗やら 朝日新聞読みながら前日の酒を抜いてるのね。 そいつらいつも課長や上司の前では偉そうなくせに 仕事しないのよ。 で、給料上げろと騒ぎ出すシーズンになると急に 生き生きして結託しだすわけ。目をキラキラさせてさ。 こっちはあと一週間で締め切りで、ってとこで、 上司でもない親父たちが課長の前でこれ見よがしに ベア勝ち取んだから来週お前、仕事すんなよ?と 嫌らしく肩に手を回してきたりするわけさ。 ベア?クマがどーした?なんてピント外れにきょとんと しながら闘争、とか筆で書いた鉢巻とか渡されるわけさ。 今思えば彼らを批判ばかりする気も無いんだけどね。 要は、労働者が生産手段を共同で運営しようぜって 話の主人公である下っ端の労働者である私たちは、 結局さ。 「夢を追いかけて」 「自分を探して」 「成功に憧れて」 現実を否定し続けて、夢を見続けて、婆や爺に 気がつくとなっとるわけさー。 マルクス主義や社会主義の本当の出生を自分の 人生で追体験して、机上の空論じゃなく理解できる 暮らしになるとね。 大人の癖に社会主義に熱を上げてる奴の大半が 敵に見えてくるのさ。 だって、口ばっかりで働かないんだもん。 年上のマルクス親父を部下に持った課長なんて 胃に穴が開いて死んじゃって、くそ親父は課長の 葬式にだって行かないよ。 労働者同士助け合うのが社会主義だったんじゃ なかったの? そんなもんだよ。嘘ばっかりだよ。 青臭い子供のうちはいいよ。 それが社会を変えていく頭脳を育てて出世しても その理想を曇らせずに社会を変えてくれるんなら、さ。 でも違うんだよ。 当たり前のことが出来ない、普通に仕事して稼いで 家族を愛して養い育てて、そして夫婦仲良く生きて、 そして、死ぬ。 そんな当たり前のことをさプチブルがどうの唾棄すべき 資本家の犬がどうのと汚い泡唾飛ばしながらさ、 ルノワールのウェイトレスの尻撫でたりして遊んで 金もらうことばかり考えてるクズが多いんだよ。 アカくなる、ということはさ、大人の社会じゃそういうこと なんだよ。 ある種の宗教だ。 元々の理想社会を夢見た理念なんか、鉢巻頭のどこにも はいってやしないさ。 だからまともな奴等はもうリタイア組で、行きつけの 安いスナックでフォークソング歌うんだよ。 居心地はいいけどさ。 やっぱりまだ老けたくないと思うとさ。 しゃかりきに労働者やっちゃうんだよ。 家族を想いながらさ。 おおい、聞こえるかあ? マルクスのとっつぁあん。 おいら、一生懸命 働いてんよぉ。 でも、不幸じゃ、ないよぉ。 若人よ。 イデオロギーというものは、地べたから 浮かんでくるものもあるし、羽根布団に くるまれて生まれてくるものもあるさ。 なんて想うんですよ、たまの休日に、私は。

kirakiraaruku
質問者

お礼

なるほど、貴重な実体験をありがとうございます。 参考になりました。

回答No.8

マルクス主義や共産主義は、社会科学と呼び、唯物史観 とされる。 その根底にあるのは、即物的な分析において、人は物や 金を欲しがり、そのために仕方なく働かされ、階級闘争 が起き、共産革命によって労働者階級が支配する社会に なる、という理屈だ。 しかし、人間の生きる目的は“精神的充足感の増進”で あり、必ずしも物を得るだけでなく、社会性を成立させ るモラルや常識において、正反対の与える(助け合う) 事も喜びとなり、マルクス主義は破綻する。 逆にその点をクリアしていないマルクス主義の国は、 私利私欲を原動力としている結果、助け合いの気持ちや 職業モラルが欠如し、計画経済のノルマでは怠け者に なり、また「労働者が支配する」といって支配階級に なったとたんに独裁者になり、資本主義国より先に 崩壊した。 「科学的社会主義」の名のもとに、社会の物質的な流れ や物理的な力関係の分析はやったが、一番肝心の人間の 分析も物体としてしか捉えなかった時点で、マルクス主 義はダメだ。

kirakiraaruku
質問者

お礼

なるほど、回答ありがとうございます。

回答No.7

 こんにちは。  コミュニズムなる社会形態をつくるには 最終的には国家を政治的な革命によって倒さなければならないという見通しについて 疑問を持っていました。つまりいわゆる暴力革命説ですね。資本家市民は 握っている政治権力をゼッタイ放さない 話し合いは成り立たないという議論ですね。  マルクスの議論の中から 有効だと思う材料をかかげてみておきます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の職務に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス普遍科学語ないし人格語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。    したがって――粗い議論ですが―― 言わば《アマテラス公民圏》ないしそのようなお二階さんが主導する《国家》は 一般にタテマエとして立派であり 国民の福祉にも気を遣うものと思いますが そのような社会のよさは けっきょく《家族》ないしはその集まりであるところの《スサノヲ市民社会》にこそあるし そう成らなければいけない。というのが 簡単に言ってしまった結論だと考えます。  つまり早い話が 政治的人間アマテラスやその国家には 最終的な信頼がおけない。  いかに疎外が起き搾取が横行し ヒトが物象化する(資本――お金――の運動そのものになる)としても 人間的人間の住む社会は インタスサノヲイズムとしての市民社会である。――こう考えられます。雲の上に住むわけではありません。(雲の上に住むことが出来た中国コミュニストの幹部連の腐敗が取取り沙汰されています)。  暴力革命を除けば・また経済的な制度等の問題を別とし得れば マルクスの描くのは 市民社会――それは 歴史のかまどである――を基礎とした社会だろうと思われます。早く言えば アマテラスお二階さんが 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すればよい。こういう見通しだと考えます。

kirakiraaruku
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 参考になりました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.6

中学、高校の時は、それなりに説得力が あるんじゃないか、と感じましたね。 資本論など、最初の数ページしか読みません でしたが。 父と議論もしましたが、小学校しか出ていない 父は、あんな理想的な社会など来るわけがない と真っ向から否定していました。 今考えると、父の方が正しかった訳です。 それ以降です。 ワタシが理論に懐疑的になったのは。 そして法学を勉強して、社会学における理論の いい加減さを認識するに至りました。 社会学関係の学者もそれは認識している、という ことも判りました。 マルクスの失敗は、理論倒れになって、人間を 観ていないというところにあると思います。

kirakiraaruku
質問者

お礼

なるほど、理論倒れになって人間を観ていないですか・・・ ありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

kirakiraaruku様、こんばんは。 「共産党宣言」は、買って読みました。 「こんなに、薄い!」が印象ですねえ。

kirakiraaruku
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 確かに、あの本は薄いですね。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.3

大学生の頃に大学紛争でした。民青や革マルや中核が学内を闊歩していました。構内封鎖で授業がありません。おもしろ半分でよく議論しました。マルクス主義を彼らから教えられましたが、興味が湧きませんでした。社会が公平・平等であるべきと思っていなかったからです。それは私が裕福な家庭で育ったからです。 学力も上位であったので、大学院に進学しようと思っていたので、授業ができないので彼らが迷惑でした。同級生が活動して勉強しないことを内心でライバルが減るので喜んでいました。その後に大学院に進学し大企業に就職し役員となり、今はリタイヤして裕福に暮らしています。 旧帝大の大学院卒は同世代の1%の存在です。団塊世代に生まれ競争心の強い自分には社会主義は受け入れ難いものでした。

kirakiraaruku
質問者

お礼

構内が封鎖されて勉強が出来ないのは確かに迷惑ですね。 やはり、社会は公平、平等ではないですよね。 エリートなんですね、羨ましいです。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.2

マルクス思想はいいと思うのですが、マルクスが気がついていなかったことがあります。 人間はろくでもないということです。 みんなで財産を共有すればよい社会になると思ったのですが、いくら働いても同じとわかれば怠けて誰も働かない。自分のお金になるとわかれば目の色かえて働くのに。 そして資本主義は栄え、社会主義国は貧乏な独裁国家ばかり。 結局、マルクスの理想は、現実の人間のろくでもなさに敗れたのです。

kirakiraaruku
質問者

お礼

なるほど、真面目に働いている人と 怠けている人が同じ給料なら 誰も真面目に働かないという事ですね。

noname#204721
noname#204721
回答No.1

馬鹿の方が良い時もあるのです・・・ あまり 賢いと オウム真理教のサリン事件等を考えて 自分達だけの世界を築こうとして失敗する・・ 自分達の世界を築けたとしても 死が訪れたら それで終わりなのにな・・ 子孫が真似れば別だけど 子孫は それよりも利口になり 他人を不幸にしてまで 自分が名声を受ける事はしないだろーに・・・・

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

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