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ニーチェ教批判

noname#207067の回答

noname#207067
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回答No.2

私が自分の質問で、フランス革命とか 自由、平等、友愛と関連させておいてなんですが つまりこれらが奴隷道徳。 ところが、フランス革命はナポレオンを誕生させる。 ナポレオンが失脚したとしても、近代ヨーロッパに皇帝が誕生した。 ニーチェはナポレオンについてどう考えていたのだろうと 検索してみた。 孫引きですが。孫引きだと、 また 「ニーチェを読んだことも無いのに」といわれてしまうが いいかげん、ニーチェから離れたいのですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 「ナポレオンが、あのかつて存在した最もユニークな、最も生まれ遅れの人間が出現し、そしてこの人間において貴族的理想自体は生身の問題となって現れた~諸君はそれがいかなる問題であるかをよく考えてみるがよい~ナポレオン、非人と超人とのこの総合が・・・」(「道徳の系譜」) ルサンチマン:ニーチェのキリスト教批判 http://philosophy.hix05.com/Nietzche/nietzche11.resentment.html ~~~~~~~~~~~~~~~ Zur Genealogie der Moral. Eine Streitschrift. Von Friedrich Nietzsche. Leipzig. Verlag von C. G. Neumann. 1887. Erste Abhandlung: „Gut und Böse“, „Gut und Schlecht“. 16. In einem sogar entscheidenderen und tieferen Sinne als damals kam Judäa noch einmal mit der französischen Revolution zum Siege über das klassische Ideal: die letzte politische Vornehmheit, die es in Europa gab, die des siebzehnten und achtzehnten französischen Jahrhunderts brach unter den volksthümlichen Ressentiments-Instinkten zusammen, — es wurde niemals auf Erden ein grösserer Jubel, eine lärmendere Begeisterung gehört! Zwar geschah mitten darin das Ungeheuerste, das Unerwartetste: das antike Ideal selbst trat leibhaft und mit unerhörter Pracht vor Auge und Gewissen der Menschheit, — und noch einmal, stärker, einfacher, eindringlicher als je, erscholl, gegenüber der alten Lügen-Losung des Ressentiment vom Vorrecht der Meisten, gegenüber dem Willen zur Niederung, zur Erniedrigung, zur Ausgleichung, zum Abwärts und Abendwärts des Menschen die furchtbare und entzückende Gegenlosung vom Vorrecht der Wenigsten! Wie ein letzter Fingerzeig zum andren Wege erschien Napoleon, jener einzelnste und spätestgeborne Mensch, den es jemals gab, und in ihm das fleischgewordne Problem des vornehmen Ideals an sich — man überlege wohl, was es für ein Problem ist: Napoleon, diese Synthesis von Unmensch und Übermensch… http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM ~~~~~~~~~~~~~~ 特にこれだろうか。 — man überlege wohl, was es für ein Problem ist: Napoleon, diese Synthesis von Unmensch und Übermensch… それはそうと、前から気になっていたのですが ルサンチマンがフランス語なのはなんなのでしょうね。 ニーチェはドイツ人でドイツ語で著作を書いているはずなのに ルサンチマンがフランス語なのは、理由があるのでしょうか? フランス語を使用するフランス人の思想家が使っていたとか? なんなのだろう。 なにはともあれ、おそらくニーチェが君主道徳で、イメージしているのは、 ナポレオンのことなのだろう。 奴隷道徳はフランス革命。自由・平等・友愛。 正しいことや詳しいことは知りませんので、もっと詳しい人が回答してくださるといいですね。

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