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ニーチェ教批判

a_honaの回答

  • a_hona
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回答No.1

反対のような気もしますね、市民道徳が良し悪しならば、貴族道徳は善し悪しと言えるような気がします。 ニーチェ的には、善悪の彼岸が自由であり、その此岸は不自由なもの、つまり奴隷であるのかもしれませんね。 ところでさっき教えてgooをチラ見してきましたが、本当にこちらにはない質問が沢山あり、こちらにある質問が、沢山無いですね。本当に分派してしまったんですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  goo ですが お礼欄は 400字までです。補足欄で 400字x10回=4,000字の補足要求が出来るようですが。  ★ 反対のような気もしますね、市民道徳が良し悪しならば、貴族道徳は善し悪しと言えるような気がします。  ☆ いまひとつと言いますか ぜんぜん分かりません。つまり 《良し悪し》と《善し悪し》との違いが ピンと来ないのですが。  ★ ニーチェ的には、善悪の彼岸が自由であり、その此岸は不自由なもの、つまり奴隷であるのかもしれませんね。  ☆ これは 理解が成るようで じつは 成りません。どだいマチガイだと考えます。  《善悪の彼岸》という意味は――仮りにその考え方に従うなら―― 《此岸》には 善と悪とのあたかも対立する・人間の思想やその人間関係としての情況が見られるということであり 《彼岸》は そのような相対的な善悪の問題を超えているということだと捉えます。  この思いと振る舞いは善だから それに沿った結果が現われるだろうといった因果の関係を超えている。あらゆる因果関係から自由である。という意味での《自由》だと考えます。  つまりは 此岸なるこの経験世界では 相対的な善もあれば悪もある。それとして 相対的な自由もあれば不自由もある。そして 用語をも合わせて表現するなら この世の中には 君主や貴族もいれば奴隷もいる。と言っているのだと見ます。  言いかえると 善悪の彼岸というのは 神のことです。非経験の場なるチカラです。  ニーチェがこれを分かっていたとは考えられません。神学や聖書の読みは めちゃくちゃです。  神は死んだというその神は このいまの《善悪の彼岸》を 何らかのイデア(観念)としての神に自分〔たち〕で仕立て上げたものです。観念としてあたまの中に持たれていた神が死んだと言ったまでです。それは 信念信条にはなるかも知れませんが 神としては初めから死んでいます。  ですから 論点の一つひとつが デタラメの上につくられた議論です。徹底的にニーチェ教徒にこのことを伝えたい。ということを問うています。

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