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ニーチェ教批判
《君主道徳(貴族道徳)と奴隷道徳》の問題を取り上げます。 ▼ (ヰキぺ:君主-奴隷道徳) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E4%B8%BB-%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E9%81%93%E5%BE%B3 最も基本的な道徳形態は「君主道徳(貴族道徳)」と「奴隷道徳」の二種類がある。 君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。 君主道徳の主な特徴は自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。 ある人の道徳がどの道徳になるのかはその人の身分と地位で決まるのではなく、その人が行動する時の気持ちで決まる。 ある独裁者の道徳は奴隷道徳である可能性もある。なぜなら、その独裁者は恨みと報復によって行動しているかもしれないからである。 ニーチェは君主道徳を勧めると同時に奴隷道徳の中の精神力を学ぶ価値もあると主張した。 ニーチェの「道徳」は普段われわれの言う道徳と違い、全く新しい世界観であり、独特の文化である。すべての規則、慣例はこの二種類の道徳の闘争で作られた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 対立する二項を提示するかたちは 分かりやすいようで あやまって大事な要素をそぎ落としてしまうことも出て来るかと思います。その視点からの批判です。 1. 《自己否定》するのは あんがい――考えてみれば――自己肯定を目指してのことであり得ます。 2. あるいはつまり 初めに自己をとうとぶゆえに あやまちうる自己について否定するかたちから入ることがあり得ます。 3. わたしがわたしであるという自己到来は 自己肯定ですが それがつねに《傲慢》であるとは限りません。 4. 《主動》というのは 自然本性をとうとぶ自己肯定としての自己了解のあとに 行動を起こす場合の問題だと思います。 自己肯定と主動とは それらを捉える段階が違うはずです。(基本としてはです。行動するときの主動についても自己肯定をする場合はありますが)。 5. 《主動も従属動》も 《謙遜も傲慢》も《慈悲も冷酷》も 基本は《われに還る》問題にあると見られます。相手との関係におけるこちらの振る舞いとして。 6. 傲慢は われを見失っている場合があるので特殊かも知れませんが 冷酷は相手との関係で 互いにわれがわれであるために 情況判断をも交えて必然的に取る態度であり得るように考えられまいか。 7. 人が人とマジハリを持つとき その眼差しが相手を見下ろす場合があります。社会的なチカラ関係において この・上からのマナザシを受け留めなければならないという判断を持つとき けれどもそこには《反抗か従属か》の二者択一があるのではなく そうではなく《ゆづる または ゆづりあひ》という道もあります。 8. ゆづりあひの道には 《恨みと報復》は出て来ません。 9. われがわれであるための《精神力》は 君主か奴隷かの双対における選択には関係しません。 10. ゆづりあえず こちらだけがゆづった場合にも 相手に対して このあほんだら よく目を明けて情況を見てみておのれの心をも知り しっかりと精神のチカラを保ったらどうなんだと心内を無言で伝えてやればよいはずです。時を俟てばよいはずです。 よってこの《君主道徳と奴隷道徳なる最も基本的な道徳形態》について 何の意味も無い。と考えますが いかがでしょう。
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