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坊さんの修行って意味ある?

noname#210533の回答

noname#210533
noname#210533
回答No.10

それは勿論、大きな意味があるでしょう。 意義でなく、意味が。 何故なら、自分が何を求めて宗教に身を置き、 自分の中の何を取捨選択するかを自らに問い詰めるとき、 おのずとそれはいらないもの、邪魔となるもの---多くは 欲望や迷いというものを捨て去り、心や思考の盲目を 剋目して(済みません、字が出ません)自分が思う所の 「純粋」や「高み」に至ろうとする、自分について不要な 部分、邪魔な部分を削り落とす作業なのですから。 厳しさは、己と対話する、一種の言語だと思います。 他人や社会の評価を求めて行うものではなくて、 「己」を捨て去るプロセスとして自ら選択し、自らに 課すもの、自分本位の行動なのですから。 修行が荒いかどうか、というより、より自分の生物的な 弱さ、欲求や本能的感情とつぶさに向かい合うための 近道として、その方法を取っている。 そう考えればこれから千年経っても荒行に身を投じる 宗教的スタンスは変わらないものと思います。 でも、あくまでも他人や社会から高い存在だと 思われたいという欲望の延長でしか修行する僧を 観ることが出来ないならば、お釈迦様の言う 「荒行には意味が無い」という言葉も、考え無しに 鵜呑みにしてしまうのではないかと懸念します。 お釈迦様がおっしゃったのは、荒行などやる価値が 無い、という意味ではなくて、荒行が悟りに達する道、 ということではないよ、ということだと思います。 悟りを得るということは、自分は他人とは違う高い存在だと 思いたがる人にとっては単なる超人願望、それを具現化する 手法、などと捉えられがちです。 それ自体が人間の ドロドロした欲望に他ならないということには、気づかない。 あるがままに観よ、という意味も、全て、無為のものなど 存在しないし、存在する・しないということも人の決めた 目前の問題に過ぎない・・・言葉にすればどれもこれも わかったつもりになれますし、判ったように振舞うことも 出来るものです。 でも、現在では修行する僧というものが本来は尊敬を求め 社会の地位や賞賛を求めてのものではないのですから、 自らを捨て去り、その向こうに広がる超越を、永遠を、 自分なりの理解を得て、自分の生かし方と死なせ方を 「覚悟」するための・・・極めて個人的なものだと。 そのように考えればよいと思うのです。 ただ、荒行を完遂することで宗教界でのステータスを 上げて、出世する道になっていることは皮肉な話かも 知れないと思って見ています。 高い地位、というものも我々衆生が価値と認める、 そういう世の中を作り上げてしまったのだし、そこに 身を置かざるを得ないことも、真実を見出そうと する者にとっては避けて通れない、人間の実相だから。 本来の意味からずれていることを自ら知りながら、 ステイタスとしての荒行をこなす、という「覚悟」も あるのだろうと思います。 衆生を救うために、と声高らかに宗教儀式を行う 高そうな袈裟に身を包んだ高僧は、いつの時代も 破帽弊衣の流浪の修行僧を目の敵に致します。 本物を目の前にすれば、偽者は居心地が悪いでしょう。 上から目線で卑しき者と見下し、放逐しようとイライラする。 鵜呑みにしただけの知識の量が、他人を屈服させられる 「悟りへの実力」のように錯覚しているから、薀蓄を 厳かに語ることで相手を否定しようという自らの「虚」に 気づかないまま、悪意をその心に宿す。 世のため人のためにボランティアなどで無償の奉仕を 捧げる者は尊いですが、純粋に自分と世界について 真理を求めて「修行する」という言語を使って思索する、 彼らは肉体派の哲学者だ、と 私は見ています。 無論、全ての荒行に身を投じる僧が、そのことを 理解しているはずだとは思いませんが。 いくらやっても自らの何が煩悩なのか、理解できぬまま やっている者もいるはずだからです。 偉くなれると信じて、老体に冷水を浴びせている 「愚僧」も少なからずいるでしょう。 不動産収益が多い都市圏の大寺の住職の中には、 喜寿近くになっても駐車場の収益で稼ぎながら、 性産業に賃貸するビル用地を物色しながら 孫ほどの若い娘の口移しで般若湯を飲み、 長生きの秘薬だなどと嘯くものもいますよ。 開いた口がふさがらないとんでもないお腐れ様です。 荒行に身を置くだけでも、その姿勢は尊敬できます。 悟りに至るのがどうかというのはあくまで当人の問題。 生臭坊主のテープレコーダーのお経を聞けば、修行に 励むその姿は、やはり綺麗で美しいと感じます。 長々とした文章を読んで意味をつかむのも、大変 ストレスを与えてしまったかも知れません。  小さな荒行と思し召し、お許しください。 それでは、お疲れ様でした。 どうぞご参考までに。

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