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刀狩り
秀吉がしましたよね。 このとき「刀狩り」という呼び名を使ったのでしょうか。 なんか物騒ですよね。後世の学者がつけたのですか。 また、刀を差し出した農民にはちゃんとお金を払ったのでしょうか。 ふと気になったもので。
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>刀を差し出した農民にはちゃんとお金を払ったのでしょうか。 秀吉の行った刀狩は農民から武器類を取り上げる政策ですよ。 つまり「没収」。 お金など支払うはずがありません。 現代だって警察がやくざの事務所をガサ入れしたときに見つかった刀や拳銃を没収するのに対価なんて支払わないでしょ? あれと同じですよ。 現代では銃刀法があって刀や拳銃などの武器類を所持できないからだ。と思うかもしれませんが、当時だって同じです。 秀吉は現代の日本人では想像も出来ないくらいの絶対権力者でしたから、秀吉が言った事は全て法律です。 現代みたいに新しく法律を作るのに議会で多数決なんてちんたらしたことなどやっていません。 もし秀吉が冗談ででも「日本中の美女は全て俺の女」とでも言ったら、もうそれは法律になるんです。 だから、自分の嫁さんが近所で評判の美人だったら、いつ自分の首を刎ねられ嫁さんが秀吉に奪われるかも分かったもんじゃありません。 それくらい秀吉の権力は強かったのです。 だから秀吉が「農民から刀や槍を取り上げよ」と言ったらその時点で法律成立です。 法が施行された後で農民や町民が刀類を持っていたら自分の身がどうなるか分かったものじゃありません。 それこそ獄門打ち首になるかもしれない。 そんな状況下で、「没収されるくらいなら売っ払った方がいい。」なんて思ったって、誰も買いませんよ。
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- あずき なな(@azuki-7)
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秀吉が石田三成に宛てた手紙に「美濃国不破郡の刀狩と検地を滞りなくせよ」と言う命令を下しています このときに刀狩と言う文言が出てきますから当時からそう呼んでいたのでは? 何故金を払うの? 刀狩の目的は一揆や反乱をさせないためです そこに金を与えたら武具はおろか鉄砲でも買われかねませんでしょ?
お礼
回答ありがとうございました。 お金を払わなければ誰も自ら差し出さないですよね。 農民から集めるためには怪しそうなやつの家に押し込んだり したのですかね。 あるいは寺を囲んで一斉捜索したとか? 小学校のとき習った記憶では、 (ごく普通の)農民たちに刀を出すようお触れを出し、 差し出した刀は寺の鐘になるからありがたいのだよ というやり方だったと・・・。 だから侍が村を歩いて、農民が差し出す刀を 集めたのかなと思っていたわけです。 で、いくらなんでもタダではないだろうと思ったわけです。 だって刀を持っていたら怒られ、 差し出したらタダで取り上げられる。 ならとっとと誰かに売るでしょうし・・・。 どうなんでしょうか。
- kamobedanjoh
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全くの独善的見解ですが。 秀吉が「刀狩り」と称して命じたかどうかは定かでありません。 本旨は「身分の固定化」と信長が主張した「天下布武」の実践にあると思います。 武士以外には武器の所持を認めない、安定支配の確立にあったと考えます。 所領を持った武士の外に、寺領には僧兵、神領には武神を崇める集団が所属しており、武士の中には季節的に農事に励む人達も大勢居ました。 それらの人達を武装解除し、幕府への反抗を許さない体制の確立にこそ、主眼があったと思います。 今日の世界でも、武装した反政府勢力が各地で暴れていますが、そのようなことを許さない治安対策が「刀狩り」であったろうと思います。 百姓身分に落とされた、農兵とも武士とも付かない人達は大勢居たでしょうし、苗字を奪われた元武士達には不満が募ったと思われます。 仕官を許されないいわゆる「浪人」達も、世過ぎ身過ぎの為には、刀を捨てて農民になるしか無かったでしょう。 そのような不満が爆発したのが、天草の乱に参加した、元豊臣方の浪人達でした。キリシタン大名家の元家臣達も、半徳川で結集した様子です。 厳罰を科したキリシタン禁止令で、徳川幕府は危機を乗り越えました。刀狩りは強化されました。 取り上げた武具の代金など、支払うはずがありません。 現今のような所有観念も確立されず、個人の権利など全く認められなかった時代のことです。
お礼
なるほど。 こっそり持っていたら打ち首だぞ、 と言って没収して回ったわけですね。 ありがとうございました。