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永遠回帰と永遠の現在

ニーチェの「永遠回帰」と アウグスティヌスの「永遠の現在」 なにか関係はありますか?

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回答No.1

「永遠回帰思想」は古代ギリシャからあり、ニイチェは古典文献学者だったので、ギリシャ古典に詳しく、そこから「永遠回帰思想」を学びました。 なぜ、そのように考えたかというと、古代は時間というのは繰り返す、円を描いて循環するものと思われていたからです。 太陽が地平線から現れて、また地平線の彼方へ沈み、また翌日には昇ってくるのを見て、それと同じように時間も円を描いて、元に戻ってくる。 だから時間というのは今のように直線的に進むのではなく、円環を描くと考えたのです。 ギリシャ時代や中世は基本的に農業社会で、農業では、朝、太陽が昇れば、農作業を始め、太陽が沈めば農作業をやめて、家に帰り、また翌日太陽が昇れば農作業を始める、その繰り返しでしたので、時間も円環を描くと考えたのも無理はありません。 それに対して私たちの時間は産業社会の時間だから、時間は直線的に進み、元に戻らない、しかも規則的です。 ニイチェは近代のそのような直線的な時間の観念を批判するためにギリシャの循環する時間の観念を対置したのです。 ギリシャ人は永遠の「今」が繰り返す、だから「今」は永遠で、地上に新しいことは何も無い、と考えました。 プラトンはその「永遠の今」を「イデア」と言いました。 その「イデア」が中世になると神になり、キリスト教世界を形成する元になりました。 だからアウグスティヌスの「永遠の現在(今)」は古代ギリシャの時間観、特にプラトンの「イデア論」のことです。 ただし、ニイチェのいう「永遠回帰」はプラトンとは逆で、無が永遠に繰り返す、だから生存に意味なんかない、その無意味が永遠に循環するだけだ、と考えたものです。 なぜ、ニイチエがそう考えたかというと、プラトンは地上の変化するものに対して、変化しないもの、また地上の不完全なものに対して完全なもの、感性に対して超・感性的なものがあるに違いないと考えて、「イデア」があるといい、私たちの世界を本ものに対するニセモノ、と言ったからです。 ニイチェはそのプラトンの「イデア論」に反発して、天上にあるという永遠の「イデア」が真の世界で、地上の世界がニセモノである、という考えを批判する意味で「永遠回帰」を唱えました。 それはプラトンのスタティックな存在優位の考えに対して、ダイナミックな生成に優位を与えるための価値転換でした。 アウグスティヌスなどのキリスト教神学者は神がいるから、人生には意味がある、と言いましたが、ニイチェに言わせれば「神は死んだ」のだから、人生には何の意味もない、その無意味が繰り返すだけだといいました。 むしろ、キリスト教のように人生にはもともと意味なんかないのに、意味があると言ってごまかすのは「ニヒリズム」なんだといいました。 私たちは「ニヒリズム」というと、虚無主義を連想しますが、ニイチェによればそうではなく、人生に意味があると言って、無意味を「隠ぺい」し誤魔化すキリスト教こそ、「ニヒリズム」なんです。 それが近代に、たまたまそれが嘘だということが明らかになって、「ニヒリズム」が登場したと勘違いしているだけで、本来「ニヒリズム」はヨーロッパの哲学の元に流れていた通奏低音なので、それはプラトンから始まっているのです。 ヨーロッパの哲学の歴史はプラトン主義の歴史であり、「ニヒリズム」の歴史です。

noname#207067
質問者

お礼

~~~~~~~~~~~~~~~~~ ――私はおのれの悪趣味を守りぬく勇気を持っている、旧約聖書――さよう、これはまったく別物だ。 旧約聖書にはせいぜい敬意を表するがよい。そのなかには偉大な人間たちが、英雄的な光景が、この地上における もっとも稀有なあるものが、剛強な心情の比類を廃した素純さが見出される。そのうえにまたそこには 一つの民族が見いだされる。これに反して、新約のなかに見られるのは区々たる宗派的営みばかり、 魂のロココ風ばかり、虚飾的な・ぎくしゃくした・奇怪な風物ばかり、秘密礼拝会の空気ばかりである。 ただし、この時代(してまたローマ領)に特有の、ユダヤ的というよりはむしろギリシア風の牧歌的な甘さが、 ときおり匂っているということを忘れてはなるまい。 ニーチェ全集11 信太正三 =訳 善悪の彼岸 道徳の系譜 ちくま学芸文庫 道徳の系譜 558ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 回答ありがとうございます。 ニーチェの文章で気になっているところがあって、 キリスト教や新約聖書を批判しているのはわかるのですが 旧約聖書を褒めているみたいなのがなんなのだろうかという。

その他の回答 (2)

  • kurinal
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回答No.3

>「超人は無から価値を創造するのかな」 人権を侵害しないでね。

回答No.2

 こんにちは。  無関係という関係しかありません。    ニーチェの永劫回帰なる思想にもし意味があるとしたら それは 次のような内容です。:  すなわち 人生には悩みや苦しみがあり解きがたい問題が生じる 内面においてどれだけ考えても解きがたい問題がある――たとえば 不条理が大手を振って街をあるいている――。このとき確かにそれらの問題の或るものは解き得る場合もあれば 先送りして問題に対処する場合もある。  つまりは そのように《問題や苦悩》は 季節のめぐり合わせのごとく必ず おのが心に再び三度びとやってくる。これに ひるむことなく退くことなく堂々と対処して行きたまえ。という教訓です。  さもなければ 時間が循環しているのだ・世界は円環だと言ったところで 小学生の絵日記もいいところです。取り上げるにあたいしません。そういう感想を聞きました。はい おしまいとなります。  アウグスティヌスの《永遠の現在》は――神をいだき生きるにしろ 無い神を受け留めて生きるにしろ―― いま・ここなる我れを我れとして 一歩一歩生活に根差してそれぞれ互いに自由に生きていこうということ。それだけの話です。  その《いま・ここ》がむしろ《永遠の現在》であるとさえ見るがごとく その実存のあゆみにこそ 言うとすれば価値がある。とうとい。とだけ言っています。  神がどうのイデアがこうのといった議論には 何のこだわりも関心もありません。そういう信仰動態を指し示しています。これは 親鸞と同じだと考えられます。(親鸞は 最終のかたちとしては 言い切れていなかったようにも感じられます)。  ニヒリズムもプラスイズム(意味を持ちそれを掲げる思想)も 何の関係もありません。経験思想からは超然としています。因果関係からは自由な地点に立ったと思っているはずです。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 神が無から創造したように 超人は無から価値を創造するのかな と思ったので、アウグスティヌスとニーチェを並べてみました。

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