• ベストアンサー

宗教について調べるのは、もうやめるべきか?

要するに、中村元は間違っている、いうことでよろしいのでしょうか? それならそれでいいです。 振り返ってみると、時間の無駄でした。 書き込むたびにわけのわからない人々から攻撃されるのもうんざりです。 私には私の人生があります。 一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。 病院へ行ったら?とか、カウンセラーの世話になったほうがいい、とアドバイスされていますから、 宗教よりも、そちらの世話になろうかと思います。

noname#207067
noname#207067

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#200788
noname#200788
回答No.10

こんにちは >>振り返ってみると、時間の無駄でした。 一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。 私も自分なりにいろいろな宗教について20年以上調べたりしました 結局本当のことは分かりませんでしたし、悟りも開けませんでした ダライ・ラマは自分は悟りを開いていないと言っています また数年修行しただけで悟りを開いたという人を見ると、思わず吹き出しそうになると言っています 色々な仏教ーそれはもう釈迦の考え教えとは似ても似つかない物もあるかもしれませんし、中国人が作った偽経もあるそうで、何を本当に釈迦が言ったのか分かりませんね 多分死ぬまで考え続け、調べたり学んだりしても悟りは開けない気がします 私の場合人生において悟りを開くと人は幸福になるか? 宗教は人を幸せにするか? この2つを知る目的が今回の人生にあったので(何故そう思うかについては詳しくは書けませんが)、そんなに無駄にはなってないのですが、確かにお金にもなんないので、今まで何をしてたんだろう? こんなことなら経済の事をもっと知って、金儲けのことでも考えていたほうが良かったかなと思ったりもしました もうそろそろ宗教について学ぶことは必要ではなくなって来たので、人生が違うことをやるようになってきてるのかもしれませんね

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 生活に余裕があれば、趣味として宗教の研究をしてもいいのですが、 そういう余裕もなくなってきたのにもかかわらず、実際の生活よりも 宗教の研究に傾倒してしまう自分がいるので困ってしまいます。 かといってアカデミックの世界にいるわけでもありませんし、 そんな能力もありませんでした。これ以上は調べようがないです。 >人生が違うことをやるようになってきているのかもしれませんね なるほど、そうかもしれません。転換期なのでしょう。

その他の回答 (16)

回答No.17

あなたがやめたいなら、やめるべきです。なぜなら、そこに答えなどないからです。 一度、このサイトを読むことをお勧めします。 http://space.geocities.jp/gjdtk960/human/002.html 信じるか信じないかはあなた次第ですが、最後まで読めば、何か得るものがあると思います。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.16

Ano.2です、こんにちは。 >「中村元がタイトルをつけたのかどうか知りませんが、 スッタニパータを『ブッダのことば』にしたから。」 ・・・(私の)高校時代、自分の研究を「奪られて」、 (仕方なく?)教職になった、というのが、居たんですね。。。 そんな、こんな?

回答No.15

ハジメさんは学者なんだよ。 それが君の心を豊かにしてくれるだろう。 宗教家が君の心を満たすかは全く別だ。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 中村元以降の現在の仏教の研究はどうなっているんでしょうね。

回答No.14

哲学カテで、宗教の研究について書き込むのが時間のムダなだけだと思います。仏教でもキリスト教でも根本は人を救うものだと思います。宗教は人を救うんですよ、と私の学んでいる先生はおっしゃりました。 仏教哲学やキリスト教哲学では人は救えないと言えるように、哲学にはなんの力もありません。 質問者様には宗教の研究を通して、自分にとって真実だと思われる真の大いなる存在に対して、祈り、生活することが求められているような気がします。それが人生に帰ることなのかも。 書き込むならば別サイトの宗教カテが実際的でいいように思います。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確かにokwaveの哲学カテゴリーに書き込むのは ムダのような気がしてます。 別サイトの宗教カテゴリーですか。 哲学よりも宗教で、 祈ったり、生活したり。なるほど。

  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.13

これが最後ですよ。 知者は自分が馬鹿だと知っている。 賢いかに馬鹿だと知るのです。 馬鹿だと知るから賢くなるのではない。 そして馬鹿はそのとおりだとうなずいて馬鹿だと知る知恵を得ない。 馬鹿は教えられたら賢くなると思う。私は事あればこう言う。 人は器用ではない。 馬鹿はどうしても分からない。 馬鹿はうがったことを見る。「なら、わたしはだめだと」。馬鹿に語りかける言葉はない。

  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.12

求めたら徹しなさい。この馬鹿者が。 仏陀さんが言っているではないか。「私はいい加減であった」と。 そしてすべてを知った。馬鹿はすべてを知らない。 むろん、達しえていないがために躊躇するというものがある。 達しえていない程度に及ばないのにぼんくららになぁなぁにいる。 そして私は賢いと思う。200万年も昔からそういう自分慰めはいた。 まぁ、馬鹿は無理をしてはいけない。 危険はある。 求めたら徹しなさい。この馬鹿者が。 結果が悪かったら泣き言を言ってはいけない。 あぁ、お釜か。 あぁ、こう言ったら悪い時代のか。好きにするがいい。 あなた方の馬鹿さ加減。行い有って結果がある。 馬鹿はどうしても分からない。

noname#207067
質問者

お礼

いきなり馬鹿とか言ってくる意味不明さに困惑しています。

  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.11

中村元は馬鹿ではないということです。私は認めます。 かといって優れはいない。馬鹿を信奉していないということは優れているということです。 この理は馬鹿には分からない。理由も説明しません。 優れてはいないが馬鹿ではない。馬鹿ではないということがどれほど有り難いことが分からない。 有り難いと言う意味が分からないものが非常に多くいる。 宗教は教えなのです。こう言いましょう。 麻薬中毒者に「それはいけません。なぜならかくがくしかじか」。 アルコール中毒者に「それはいけません。なぜならかくがくしかじか」。 ギャンブル中毒者に「それはいけません。なぜならかくがくしかじか」。 DV偏質者に「それはいけません。なぜならかくがくしかじか」。 みな、聞きません。 宗教は教えであって強制ではない。先人はそのように振舞った。 早く分かりなさい。 仏陀さんはいいことを言いました。「自灯明」。 ギリシャでは「自己を知れ」。 早く分かりなさい。 自己の過ちを知って自己を頼りにしなさい。なまくらで生きてはいけない。 ぼーと生きているからそうなるのです。 そんなことはないとあなた方は言う。「はい、そうですか」。 ぼーと生きているからそうなるのです。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 強制ではないので。

回答No.9

宗教に付いて調べると言う意味は、論理的に或は分別を持って人生の答えを見付けようとする試みと思います。 論理的に『要するに、中村元は間違っている、いうことでよろしいのでしょうか?』と考える事だと思います。 ところが宗教の意味は、有と無の二極対立、或は二元的見方からの脱却を目指しています。ところが経典で書かれている内容は『分別としての結果である、”言葉”で媒介しています。』 此処に二重の矛盾が在ります。この意味は今の精神医学が心理学が発達して、その心理学に根ざしている事によって、完治という意味や治療と言う意味や治ると言う意味や、治すという意味や、治らないという意味さえも把握出来ないで、寛快という訳も分らない、良くなるのか悪くなるのかさえも医師には関係ないような、無責任な結果を招いているのではないのか?と感じています。 仏教でもキリスト教でもユダヤ教でも、表現方法の違いがあったとしても、その違いは民族性や、環境的な違いによるものであって、その根本を貫いているその意味や真実には、同じ法則性が存在しています。 この存在している者を『自ら掴む事』がお釈迦の願いであり、キリストの願いでも在ると思います。 この願いから出たものが仏典に成ったり聖典になったり教典になっていると思いますが、なかなかに分り難いところと思います。 貴方の場合でも此処のところを『体認或は体得』出来た時には、人生全般の謎が解明されたり、心に対する扱い方の画期的な変化があって、『心は元々病む事などが無かった』ということが分ると思います。此処をもって完治するという意味があります。 此処のところを貴方が知りたいのだと言う、強い意志が見えていますので書いています。 こう云った悩みや疑問は、元々人間には備わっている悩みです。その事を聖書では記しています。その逆な言葉が天国ですが、この事も聖書は書いています。 天国に一番近い存在は幼子である、としている点です。この意味は『心に矛盾が無いという意味です。』心理学的な表現をするなら『心が一つしかない』と言う意味です。 違う表現をするなら『見ている自分しか心の中には存在していない』と言う意味です。従って裸であっても恥ずかしいと言う感情でさえも湧き上がらないで居るという意味になります。 疑問を感じると言う意味でも、不思議と言う感覚が乏しいと言う事を示しています。自分は何者か?や人生とは何ぞや?と言った思考法方が未だ確立していないと言う意味です。 是は脳の機能の問題で説明するなら、簡単に説明する事が出来ます。ウイキペデアからのコピーです。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 脳が未発達の為に、左右に存在している”心”が未だ一つの者として機能している事が『幼子が天国に一番近い存在』となっています。 ところが脳の機能分化が完成に近くなる頃、身体も心も大人になって来る頃、すなわち思春期と言われる頃から、心が騒がしくなって来るようです。他人と自分を比較する様になって、優越感や劣等感が芽生えて来るようになります。 自分の裸を人に見せる事が恥ずかしくなってきて、聖書が言っているように身体を隠すようになってきます。この現象を『知恵が付いて神を疑うようになった』と表現しています。 何の事は無い、知恵が付いて神を疑うと言う意味は『右脳の人格と左脳の人格』が別行動を取るようになったという意味です。 右脳の人格が仏性や神という意味ですが、脳卒中になって、右脳の自分と左脳の自分を体験している脳科学者の動画がありますので載せてみますので、良く観察をして下さい。 もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この中で語られている内容が、宗教体験と思います。自身の命を働かせている人格、宇宙と一体になって働いている意識が、右脳に存在している意識です。言葉にするなら神です、仏です。 こう云った『内在する自分自身の識られざる神』を疑う時、天国から追放されたと表現します。 失楽園の意味は簡単に分けるなら、三つに分けることが出来ます。この三つに分ける事事態がナンセンスですが、一応人間としての生命体を説明する上で都合が良い事から、説明する都合上で分けて説明しますが、一人の人間として語る上では必ずしも三つに分けて説明する事が返って理解する上では不都合になる事も在る事を断って置きます。 この意味はこれ等の三つが必ずしも単独で作用する事が少ないかも知れないからです。二つ同時に、或は三つとも同時に作用する場合もあると思うからです。 右脳の人格の機能は一言で書くなら『命を働かせている意識』です。今現在を必死に成って認識をして、今現在に全ての照準を合わせて働いていり機能です。 言い換えるなら『生命維持機能』と言っても良いかも知れません。 この生命維持機能を便宜上分けて説明をするならば、一つは『身体に対しての生命維持機能』一つは湧き上がる考えや感情を湧き上がらせている『心に対しての生命維持機能』一つは行動に関しての『行動に対する生命維持機能』と表現出来ると思います。 『身体に対しての生命維持機能』は、赤ん坊が生まれた瞬間から行っている事柄全てです。”何も学ぶ事無く”心臓でもホルモンの分泌でも呼吸器でも発汗作用でも知り抜いて働かせている機能全てを司っていると言う意味です。この人格と戦う時自律神経失調症や過敏性腸症候群や、医学的検査では見つける事が出来ない疾患、難治性の心身症と呼ばれているものになっています。 『心に対しての生命維持機能』を疑うと言う意味は、沸き上がる考えや感情に対して、自分が同意出来なくなる、と言う意味になりますので、『沸き上がる感情』を受け入れる事が出来なくなりる、と言う意味になりますので、所謂感情障害と言ったものになると思います。湧き上がる考えを疑うと言う意味は、湧き上がった事柄が自分の考えではないと主張すると言う意味になる事から、統合失調症という事で、自分をまとめる事と自分を認める事が困難になるという意味に成ります。 『行動に対する生命維持機能』を疑うと言う場合では、自分の行動が自分の思う様にならなくなったり、自分の行動自体を疑う事から、強迫行為や強迫観念に成る事を意味します。詰まり神経症の諸症状を引き起こすと言う意味になります。 こう云った三つに分けられた症状は、全く違う現象になって顕れていますがその根っこは一緒です。自分の心と矛盾を起しています。自分のもう一つの心を疑っている事を意味しているからです。 従って治し方は一緒と言う意味になります。治った姿を書いておきますので参考にして下さい、終わりに治し方も書いて置きます。 今書いた症状が完治した姿です。 『沸き上がる雑念の相手をしなくなった時です。』症状と思っている内容は全て誰でもが感じている事柄に過ぎません。只自分が厭だと思って『心から追い出しを計るように試みているだけです。』 そのため(嫌って追い出そうとして、相手をしている事)に『意識に上がって来て困っているだけです。』相手をしない(治そうとしない)だけで、意識には上がって来なくなります。 従って治った(完治)した場合でも、心の中を細かく探すなら、心の中に存在していますが、追い出しを図る事がなくなる事から『意識上には上がってくる事が無くなっています。』 症状が在ったままで居ながら、症状として感じなくなってしまう事が、症状が消滅した姿です。 それは『沸き上がる雑念に、一々右往左往しなくなった』姿です。 今迄は『沸き上がる雑念に一々右往左往して』仕事もしないで、治す事に専念していた事を意味します。治す事を辞めた時から、もう既に治った事を実感出来ます。 治す必要さえも無かった事を、治そうとしていた事で治り難かった事が分ります。是が完治した姿です。 例え話で説明するなら、『心の健康は何処を探しても何処にもありません』在るとするなら、心の健康を探し始めた事が心の健康を損なっているだけです。 生きている生身の身体と心ですので、痛い時は痛いです、痛い時に痛くないようにするものが『精神薬の役割となっています。』 最後に治し方です。症状の事を幾ら嫌っても良いですが『口にしないで暮らす事』が大事です。症状はまやかしでしか在りません。症状が在ったとしても、普通の暮らしを守る事が大事です。 そうして『沸き上がる感情や考え』に一喜一憂しない暮らしを守る事が大事です。嬉しい事が在っても喜び過ぎない態度が大事と言う意味です。 悲しい事や辛い事があったとしても、落ち込み過ぎないでいる事が大事と言う意味です。 沸き上がる雑念に左右されない人間性が育った暁には、一億円の宝くじが当たったとしても、喜び過ぎて判断が狂う事がなくなります。 逆に言うなら、如何に困難な状況に陥って、『周りの人達がパニック状態に落いったとしても』今、現在自分がなにをやるべきかを冷静に考え、打つべき手が頭の中に浮かんでいます。人生を達観出来る事が鍵です。

noname#214841
noname#214841
回答No.8

「お礼」拝見しました。対象者は、OKWaveの参加者ではなかつたのですね。 >>曹洞宗の学者と田舎の新聞記者 できれば詳しい情報がほしいと思ひます。 >>哲学カテゴリーに参加すればいいのにとすら思います。 もしほんとうなら、これは、まつたくそのとほりです。影でこそこそするから、余計にこじれます。 今のOKWaveのシステムにしても、クリックボタンや、通報なども、匿名でおこなはれてをり、疑念を増幅させてゐます。たかがQ&Aの投稿内容で、隠すことなど何もないと思ひます。 >>okwaveの人たちは中村元に批判的な人が多いのかもしれません。 ひとそれぞれ見解がありますから。私は少なくとも翻訳に関してはありがたく読んでゐますし、原始佛典研究の第一人者として尊敬してゐます。ネットのさまざまなサイトを読んでゐても、中村元の文章の引用を見かけることが多くあります。 私としては、kazamidori365さんの佛教関連の投稿姿勢に好感を抱いてゐます。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 詳しい情報を書くと問題になりそうなので、 私の被害妄想ということで、はぐらかしておきます。

noname#214841
noname#214841
回答No.7

>>中村元は間違っている、いうことでよろしいのでしょうか? 佛典はどれも、数百年も後代の成立ですから、ブッダの思想をそのまま反映してゐるかどうかは判りません。結局曖昧模糊としてゐるのが、佛教です。中村元の責任ではないやうに思へます。 私としては、その曖昧模糊が佛教にとつて好都合だつたと見てゐます。教理が明確になると、その弱点を衝かれることも多くなりますし、信奉する教へに反する人たちを非難したりします。何が何だかわからない、それが争ひを生まないのではないでせうか。 正義を主張すると、不義の者たちを成敗します。愛を抱きすぎると、愛に反するおこなひをする者たちを憎みます。これがキリスト教などの戦争の歴史だと思つてゐます。すぐに善人と悪人とに仕分けしてしまひます。 >>書き込むたびにわけのわからない人々から攻撃されるのもうんざりです。 このQ&Aサイトにも、参加者を善人と悪人とに分けたがる人がかなりゐます。普段はすばらしい発言をしてゐて、感心しながら読むのですが、いざ「悪人」が現れると徹底的に攻撃します。自己流の愛や正義がさうさせるのだと思ひます。明白なマナー違反者の場合は自覚があるから救ひやうがありますが、かういふ人は自分が正しいと信じてゐますから、いちばん扱ひの困難なタイプです。 kazamidori365さんを責める人がだれなのか、いまだに不明です。その人が私の質問ページにお越しくだされば、お相手するのですけれど。 >>一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。 佛典の翻訳出版とか、木彫りの佛像を販売するとか、そんなことがあれば金銭になりますが、通常は知的精神的なものです。 >>私には私の人生があります。 これはおつしやるとほりです。私では何とも言へません。ここでの質問回答はぜひお続けください。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 okwaveで攻撃してくる人はともかく、 よく話題に出て来る曹洞宗の学者と田舎の新聞記者は、 okwaveに参加しているかどうかは知りません。 私が読んでいる記事に、どう考えても これはokwaveの哲学カテゴリーを読んで書いているだろう と思われるものがあるのですが、 最近の私は思い込みが強くなっているので、違うかもしれません。 直接、攻撃されているわけではないですから。 ですが万が一のため、抗議のために言及しています。 ひどいのは田舎の新聞記者のほうですがコラムで嫌味を書かないで、 哲学カテゴリーに参加すればいいのにとすら思います。 それから、 ブッダが何語を話していたかどうかはともかく 中村元の注釈を引用すると批判が凄かったのです。 だからokwaveの人たちは中村元に批判的な人が多いのかもしれません。

関連するQ&A

  • 宗教を辞めさせたい

    2~3年前から、母親が訳の分からない新興宗教に入会してしまい困っています。当然ながら、辞めるように言っても聞く耳を持ちません。 月に何度も宗教仲間の家を訪ねては、その度にお布施やらお供え物を持っていくため、当然お金も掛かります。また、母親の宗教仲間も、月に何度かこちらの家を訪問してきます。それも鬱陶しいです。 母親との約束で、あと数年したら辞める事と、お布施やお供え物のお金は母親の小遣いの範囲内でと忠告しています。ですが、あまり守ってくれません。 先日も宗教仲間が家を訪れ、○○のお布施をお願いしますとやって来ました。その時、母親は持ち合わせがないと言い出し、結局私がそのお金数千円を立て替える事になってしまいました。なのに、その返済はありません。 これまで宗教に注いだ金銭や物品は数知れず、本当に馬鹿らしいと思います。 そもそも宗教なんてものは、人生に迷いや悩みが出たり、生きづらくなった人が、救いを求め心の拠り所にする場所です。それに、私は宗教自体に良いイメージを持っていません。本当に早く辞めて欲しいです。 あと数年したら辞めるという母親との約束を信じていますが、それを信じても大丈夫なんでしょうか? 辞めてくれなかたら、こちらから強制的に辞めさせても構わないと思いますか? 母親が訳のわからない宗教に入れ込み、悩んでいます。どうにか解決方法はありませんか?回答よろしくお願いします。

  • 精神科医が特定の宗教団体に帰属していることの是非

    精神科医がどこか特定の宗教団体の信者であることは、認められるものなのでしょうか? 内科、外科等ならともかく、人の「心」を扱う精神科医が、どこか特定の宗教団体の教義の元に動いたら、それは非常に怖いことではないですか? ただでさえ辟易とした心を抱えて人生に疲れている患者さんを、言葉巧みに特定宗教団体へ勧誘し、あわよくばその信者に仕立て上げることだって十分可能です。 それは、一種のマインドコントロールではないですか? ただでさえ「心」という繊細な、そして重大な問題を扱う精神科医が、その患者の「心」の弱みに付け込んで宗教団体へ勧誘するのは、医師の倫理に反する行為ではないかと思うのです。 しかも、もしその宗教団体がそういう人々を教団に引きずりこむためにその医師を利用しているとするならば・・・ そして、もしその医師がその宗教団体の持っている病院の医師だったとしたら・・・ 考えるだに恐ろしい事だと思います。 はたして、「心」を扱う精神科医が、偏った宗教の教義に帰依している事は良いことなのでしょうか?

  • 宗教は訴えられるものでしょうか?

    私の母はとある宗教にハマっておりました。その宗教のおかげで私は現在PTSDになり、仕事をきちんとしたりすることはままならず、生活もきちんとできなくなりました。 沢山は書くことが出来ませんが、宗教からされたことを一部書きますと、 ●五歳の頃から宗教の信者以外との交流をもつことを許されず、一つ屋根の下で信者と暮す日々(365日監視状態) ●中学卒業後は宗教の会社で早朝から夜中まで働かされる(月11万の給料でした) ●家出を試みるもすぐに宗教の信者らに捕まる(ボコボコに暴力、暴言を吐かれ、その後も信者からの厳しい仕打ち、母親は味方ではない) ●自分の気持ちは言ったとしても、誰も共感してもらえることはなく、教祖が言うことが全て。それに反した言動、行動は処罰を受ける。母親にすら、あなたはおかしい呼ばわりで、普通の人間として自由に生きたいと話をしても無駄。 ●母が乳がんとわかった時、宗教の教祖にあなたの心が悪いのでそうなった。心を正せば病気は治る。と言われ病院には行かせてもらえず、結果母は末期癌となり最終的に自殺しました。(母は51歳でした) まだまだありますが、このような感じです。 ちなみに姉はその宗教の信者と結婚し今も信仰しております。 母が宗教にハマりすぎて親戚と縁を切ってしまったのと、父の現在もわからないため、私には家族が居ません。13歳上の兄は居ますが、宗教から離れて1番頼れるはずなのに、何度もお金で騙されたり、ひどい事を言ってくるのでもう関わりたくありません。 病院では障害者手帳の申請も勧められてるくらいの精神を患ってしまいました。現在25歳、女性ですが、私は普通に周りの女性の様にきちんとお仕事がしたいし、結婚もして、子供も欲しいです。なにより、1番欲しいのは幸せです。自分の家族が欲しいです。 こうなってしまったことを全て宗教のせいにするつもりはないですが、とても憎いです。許せません。幸せになりたいと思ってずっと信じて生きてた母は、結果死を選びました。家族はバラバラです。 この様な場合、宗教を訴えることはできるのでしょうか? 皆様の知恵をおかしいただけないでしょうか?宜しくお願いします。

  • 宗教の勧誘を断りたい

    義母がとてもおかしな宗教に入っています。いわゆる「手かざし」です。 私にもその宗教を勧めてきます。数年間とても困っているので相談にのってください。 結婚前、私は義母が宗教をやっていること聞かされていませんでした。 夫とは知り合って一年ほどで結婚したのですが、夫もそのことを私に伝えると結婚してもらえないと思ったようです。(夫には申し訳ないのですが、知っていたらやはり結婚しなかったです。それほどしつこいし、嫌な目にあっているのです。) ただ、結婚のご挨拶で初めてご自宅へ行った時、義母におかしな単語を言われたので、彼に「○○って何??」って聞いたことがあります。「ああ、気にしなくていいよ。」と言われたのでホントに気にしなかったのですが・・・今になっては真剣に調べておくべきでした。 結婚してから、宗教のことに気がつき、勧誘されるようになりました。 夫も子供のころはやらされていたのですが、ある程度の年齢になって、おかしいことに気がつき、大学へ進学してからは家を離れ、宗教はまったくしていません。非科学的だと大反対しています。小中高と辛い目にもあっているようです。 義母には何かあるたびに、とにかく道場へ通い、研修を受けるように言われます。これまでは、「でも、○○さん(夫)に反対されるので・・・」と断ってきました。そんな人でも一応は一生お付き合いしなくてはならないので、喧嘩したくないのです。 頼りは夫だけなのですが、これまたぜんぜんダメ・・・ 「きっぱりうちの家族は宗教をしないと伝えて!!」とお願いするのですが、 「あの人に何を言っても無駄だ。」と言うだけで、義母に何か意見をいうことはしてくれません。そのことについては今までの人生さんざん親を説得してきて疲れているからです。 確かにああいえばこう、こういえばああというような義母です。 でも、宗教のことを隠して結婚させられたのだから、夫が解決してくれるのは当然のことだと思うのです。 子供がいなかったら離婚したいくらい、婚前説明しなかった無責任さに怒れるし、毎回の電話が辛いです。でも、義母が宗教をやっていることは夫の責任ではないし、かわいそうな人生だったと思うのでいまさら責めるつもりはありませんが・・・ 怪我をしたとか、事故にあったとか、何かあるたびに霊にとりつかれているとか、言われます。ちなみに「手かざし」でなぜ癌が治らないのか意地悪して聞いてみたのですが、手かざしで治る癌と治らない癌があって、治らないのは霊の仕業だそうです。 聞いていると頭がおかしくなりそうです。 どうしたら宗教の勧誘って断られるのでしょうか?? やはり角が立たないようには無理なのでしょうか?

  • なぜ宗教は信仰する人々の考え方、人生に、大きな影響を与えるのでしょうか

    なぜ宗教は信仰する人々の考え方、人生に、大きな影響を与えるのでしょうか。    こんにちは。  今期、大学で「自然科学概論」の講義を受けて、多くの科学者たち(例えば、コロンブスやガリレイ)の研究がキリスト教的世界観、自然観によって妨げられることがあったということに気づきました。 また、非常に重要で可能性に満ちた研究を聖書に反するものだとみなし、彼らを罰した(最悪の場合、殺そうとした)キリスト教徒に対して、驚きを覚えました。 (1)なぜ当時、科学者たちの研究に反対したキリスト教徒はここまで聖書の教えに沿っていたのでしょうか。 私の視点からだと、「異常」にも見えます(私が信仰心を持たないゆえに浅はかな発言であったら、ごめんなさい)。現在だったら「聖書の教えとは違うから、その研究をとりやめろ!さもなければ、罰を与える!」なんてことには滅多になりませんよね。  また、コロンブスについてのビデオ観賞の際、魔女狩りなどの場面を見ました。 キリスト教は、他人を許したり、愛したり、ととても美しいイメージがあったのですが、教えを背くものを「異端者」と呼び、罰する姿は、残酷だと感じました。 (2)当時、キリスト教徒が他人を「罰する」「殺す」まで実行するような信仰心は一体どこから来たのでしょうか。 そして、最後に (3)どうして宗教は人間の考え方、生き方に大きな影響を与えるのでしょうか。 (4)地球上にあるものをキリスト教的世界観・自然観からみなすときに伴う心理や理由について学ぶことが出来るような参考文献があったら教えてください。 コロンブスやガリレオの生涯に関する講義、そして自身で読んだ文献から、彼らがキリスト教の教えや聖書が原因でどんな困難に出逢ったかを知ることは出来ました。 その後、なぜキリスト教の教えや考え方が彼らに、人々に、そんなにも大きな影響を与えるのは、何故なのか、と興味を持ったのですが、このことについて研究している文献を中々探し当てることができません。どなたかおすすめの文献があったら教えてください。 以上です。 宗教について分からないことが多く、漠然としているので、感情論を伴ったり、自身の独断と偏見が介在していたら、申し訳ありません。 どなたか、お時間ありましたら、回答のほうよろしくお願いします。

  • 宗教って何?OTL

     私は休日ローカル局でやっているキリスト教の番組を見るのが日課になっています  そこで、紹介される人たちは「神の存在によってすくわれた」  という方々です  ある人は虐待の記憶から犯罪を繰り返したものの、聖書によって安らかな気持ちを得られた  また、違う人は障害や難病を背負って投槍な気持ちで人生を送っていたが、聖書によって性格が180度変わって明るく前向きになった  という体験談を語っています  とってもすばらしいことじゃないですか!  そのまま、腐った心で生きているよりかは、聖書によって自分に対する捕らえ方が変わることができたのならば、誰もそれを咎める必要もないと思います  でも先日POSOという動画の存在を知りました  イスラムとキリストの宗教対立からの戦争がリアルに紹介されていたんですが、民衆の幸せのためにある宗教同士によって人同士が不幸になるということに対する矛盾を感じました。  もし、「神の存在のおかげで救われた」と言っている人たちにこの点について問うてみたら、なんと答えるのでしょうか?   神に対する信仰心を失い、またすさんだ心になってしまうんでしょうか? それとも、神の存在を元に戦争を正当化し押し進める軍人のように「ほかの宗教が間違ってるだけ!」という偏った考えになっているんでしょうか?    

  • 恋人の宗教

    こんばんは。 もう、数多く似たような質問がありましたがトピックを立てさせてください。お願いいたします。 私は現在20歳の女です。30歳の彼と2007年10月に交際を初めました。 彼が30歳ということもあり、私も結婚は意識して付き合いました。 しかしその4ヵ月後、彼が新宗教を信仰していることを知らされました。 彼の宗教の特徴としては ・新聞の発行 ・政界への進出 ・選挙前の電話 といえば伝わるかと思います。 私は何か特定の宗教を信仰はしておらず、普通にクリスマスや初詣をしたりしています。(便宜上、無宗教とします) 宗教に良いイメージは全くなく、ましてや彼の信仰している新宗教は悪い噂しか聞かず毛嫌いしていました。そのため、彼が信仰していると聞いて結婚への意識が薄まりました。 しかし、毛嫌いはよくないと、1ヶ月間、インターネットで調べました。 でもやはり好きになれず、彼に「結婚をしたくない。あなたももう30歳だから時間の無駄になってしまうと思う。別れて欲しい。」と伝えました。 彼は「結婚できなくてもいいから、お互いまだ好きなら一緒にいよう。」と言ってくれ今に至ります。 しかし私の中のモヤモヤは消えません。 彼が宗教を辞める可能性が少しでもあればいいですが、希望がない今、この先「結婚」の未来がない彼と付き合っていくことに悲しくなってきます。 彼が信仰を知ってから今日で5ヶ月。 あれから何度も彼の宗教について、インターネットだけでなく書籍も調べました。 もちろん彼の宗教だけでなく、他の宗教や心理学の方面からもたくさんの書籍をあさりました。 創立者の言葉や考え、研究所も読んで、頭がよくてすばらしい考えを持っているなと感じたこともありました。 しかし根本的に宗教が嫌いな私。 加えて「宗教」と「政界」が絡むことも理解できない。 なぜ「勧誘」したり「投票」を他人に強要しようとするのかもわかりません。 まして結婚するなら私の「家族」も「生まれてくる子ども」の関わってきます。 彼が素晴らしいならそれでいいじゃないか、と何度も思おうと思いました。 でも結婚して毎日彼がお経をあげ、新聞を読んでいる姿を想像したくもない。座談会へ行くのを見送りたくもないんです。 答えは出ているんですよね。 私には彼の宗教を理解できないし、見守ることすらもできない。別れしかないんです。 世の中にはいろんな人がいるんだから受け入れようとも思いました。 まだ付き合って1年もたってないのだから、もうちょっと様子を見てみようとも思いました。 でも、大好きな彼との思い出が大きくなるのも嫌なんです。 これから別れようと思っている私にどんな意見でもかまいません。 もし私と同じ立場で乗り越えた方がいたらアドバイスを下さい。 「答え出てるじゃん。別れるしかないよ。」と言われたらそれまでですが・・・。 友人にも家族にも相談できず、ここまできました。しかし、世間体ばかり気にして生きてきた私。親にすら彼が「信仰者」であることが「恥ずかしくて」言えない。 「反対」されるのが怖くて言えません。 でも自分だけの判断で別れる前に、第三者の方たちの意見が欲しいんです。 できることなら、別れずにすむ方法を知りたいです。 長文・乱文で読みづらいかと思いますが補足があればどんどんします。 また宗教の自由があるにも関わらず、私が否定してしまったことで不快に感じた方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。 ご意見ください。 お願いします。

  • 宗教とは、信仰とは

    此のカテや現実社会での幾度かの会話で、自身の信仰こそが正しいと言う発言を、耳目に触れて来ました。 別に良いのですよ?私は。 自分こそが正義で、他人はキ○ガイ。 其れ自体は口に出したり、行動したりしないで、思っている限りは、おつむの中までは手錠は掛けられませんから。 ただ宗教の本質と言うか、存在理由とは何でしょう? 色々語る方は居られるでしょうが、単純に言えば「幸せ」になりたい、か、其れを助ける存在でしょう。 幸せの定義はどうでも良いですが、要は生きる事を助けるモノとして、宗教を求めている訳です。 此れに関しては無神論も同様で、とどのつまりは宗教とは生き方の指針みたいなモノです。 苦行等も、心の呵責を取り除く為の行いで、結局は好きでやっているだけです。 紙切れに書かれた名前で、人生が変わるのであれば、紙が人生になってしまいます。 自分の人生は所詮、自分の人生です。 さて其処で私が問いたいのは、何故に自分こそが正しいと回りに吹聴するのかと。 心理学的な理由は判っています。 複数のパターンが存在しますが、要は自己実現のプロセスです。 私が言いたいのは、「そんなに周りといがみ合う事が幸せなの?」という事です。 其れが好きであるのであれば、仕方が無いのですが、多くの人間は楽しめない行為です。 何色でも良いのですが、此の世を唯一色に染め上げようとする行為は、自分が染め上げられる覚悟が必要です。 実際は染められないし、染まらないけど・・・ 四季が美しいと思う心の方が、余程に楽に生きられると思うのですが、其の前の色眼鏡を外す修行はキツイみたいです。

  • 母が宗教に心酔しています

    私の母は宗教に入っています。 いつからなのかは分かりません。 祖母らに聞くと、母は昔から精神的に弱かったようです。 その宗教からは 毎日最低でも10件メールがきます。 加えて毎週日曜は、浅草にある支部へ出掛けて、帰りは月曜の朝が常です。 なぜか信仰していない娘の私と姉、父、お義兄さん、甥も会員登録をされています。 いつも、「お金がない お金がない」といいながら 原因は自分の酒、タバコ、宗教にあることに気がついていません。 (神事とやらの申し込み代、わけのわからない本代、その他もろもろのお金にいくらかかっているかは知りませんが馬鹿にできないと思います。) 3月には、いつもやられっぱなしで何も言わないで父が大激怒(上記のことなどでたまっていたんだと思います。)し、母に暴力をふって出て行ってしまいました。(連絡はとってます) その日から今まで以上に宗教にのめり込んでいきました。 その私にとって人生最大の事件はとてもショックでその後の母の様子から、もう2度と元の生活には戻らないことを確信しました。 今、母の心の支えは宗教なのだと思います。 でも、私はもうやめて欲しいです。 もともと、キレたら理性がとび、誰にも止められない性格です。 一番のストッパーの父が居ない今、私は母の逆鱗に触れないよう気を使って生活しています。 私は今、母を愛していません。 家族は「諦めなさい」と私にいいます。 確かに、今そんなことを言ったらどうなるか分かりません。 例え、やめさせることができても 母が壊れてしまうのでは…?という懸念もあります。 やはり、このまま我慢した方が良いのでしょうか? 文章能力低くてすみません!! ちなみに、家は二世帯住宅で、上には中3の私と母が、下には祖父(これまたキレたら手がつけられません)祖母、母の妹のおばが住んでいて皆宗教には否定的です。

  • アル中・宗教を信仰している母について

    私に付き合ってる彼がいます。 私が親を紹介し始めて一年くらいほぼ毎日私の実家によく彼が遊びに来るようになり私の親も彼と普通の家族のように仲良くしてました。 私の母は仕事が終わるとご飯も作らず、記憶がなくなるまでビールをたくさん飲み、すっかりアル中です。 アル中のことで看護師をしている友達や、病院に勤めている彼の友達にも相談しましたが、入院しないと治らないといわれました。 でも母は自分でアル中だということに気づいていないのです。 その他ある宗教を信仰していて、私も彼も宗教には興味がないのに強制的に入られそうになり、私の父に母の宗教に勧誘されたと相談したら『やりたくないのであればやらなくていい』と言いそれからは母からの宗教の勧誘はなくなりました。 ところが、その出来事から母が彼を怒ったりするようになりました。 数日後私と彼は私の母の機嫌が直らないので、母に謝りに行きました。 彼が母に『このたびは申し訳ございませんでした。』と普通に言ったつもりなのに母が『かなり迷惑した!』とかなり怒っていました。 それから何度か私も母に説得をしたのですが、彼の事はあまり好きではないようです。彼も母に何を言っても無駄だと何も言わなくなりました。 彼は母に『免許証見せろ!そこの住所に住んでいるか確認する』『やくざなんでしょ?』などかなり母に傷つけられるようなことを言われたらしいです。 私はこのままだとだめだと思い彼に何度も私の母に謝りに行こうといったのですが、彼が『昨日、今日言っている事が毎日違うし、こっちが冷静に話しようと思っても母が冷静でないからまともに話できない』といったました。 将来は結婚も考えているので、彼にも母にも仲直りして欲しいのです。 私も母に手紙を書いて母が少しでも彼の事を許してもらえるように思っているのですが、なかなかうまくいきません。