坊主の言葉を信じる必要はありません

このQ&Aのポイント
  • 坊主が金儲けのために作り出した詐欺商法の元ネタや成仏の条件について疑問を持ちましょう。
  • 坊主があの世の知識を持っているかのように説いたり、脅したりすることは信じる必要はありません。
  • 人は道を歩んでいる限り必ず成仏できるし、戒名を得るために金を払う必要もありません。
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それでもあなた方は坊主の言うことに従うのですか

  成仏できるとかできないとか、成仏するためには戒名が要るとか要らないとか、これらはいずれも坊主が金儲けをするために編み出した詐欺商法の元ネタです。 その目的を達するために坊主というのはあの世のことを持ち出したり、そのあの世を知っているかの如く説いたり、あの世に三途の川を設けたり、その三途の川を渡れる人と渡れない人がいるなどと作り話をしたり、三途の川を渡れない人は地獄に落ちるなどと脅したりするのです。 であるからこの世においておよそ坊主ほど卑しい人間はいないと心得たほうがよろしい。 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は申しております。 人の道を歩んでさえいれば必ず成仏できると、また成仏するために坊主に金を払って戒名を得る必要などありませんと申しております。 それでもあなた方はアルケーの神の教えではなく、坊主の言うことに従うのですか。    

質問者が選んだベストアンサー

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  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.15

補足です。 日本人のキリスト教徒は別として、無宗教の人はなぜ葬式だけ仏教に頼るの?という純粋な疑問もあります。 ふだんサッカーに見向きもしないピープルの、ワールドカップでの変貌と熱狂からに感じる不思議さと違和感とそれは同じです。 我々日本人は、ワールドカップや葬式というような非日常の場では、いとも簡単に恭順してしまう人種なのでしょうか。 ところで親戚に、とある新興宗教(西洋の神様方面)に入信している一家がいます。 これを言ったら分かってしまうと思うけれど(笑)、焼香も献杯も(盆踊りや子供への輸血も)許されない教えのところです。 肉親の葬式ですからでないわけにはいかないけれど、もともと彼らの入信に、疑問を嫌悪感を感じていた他の親戚はその件で一層、彼らへの不信感を顕わにしていました。 その新興宗教から抜けきれない親戚一同の自他や世界に対する浅慮な考え方、弱さこそが食い物にされていると私は思っているわけですが。 彼らとその発信源に、焼香も献杯の拒否が、死後の魂にどういう影響があるのか聞きたいところです。 戒名が、時間をかけて考えだされたものと、PCのランダム検索で作られたものと、どうして値段が同じ(または価格差がある)? 魂の性質が高い、まるで高僧のような一般人が心を込めた戒名を作っては釈迦にお叱りを受ける? 何の疑問も抱かない生坊主の言いなりの檀家を誰が諭す? 三途の川を渡るときの予約に名前が要るの? あの世では戸籍や名簿が必要なの? そもそもあの世では固有名詞という概念があるの? 現世からの執着を解き放つべき立場の方が「我」を捨てられないという矛盾。 法衣をまとえば神の遣いになったような気分こそコスプレと同じ効果(といったら言い過ぎでしょうかw)。 開き直りの破壊僧の方がまだ好感が持てます。 彼らの根拠の成否は証明できない。ましてや献杯や戒名のような三次元的レベルに陥ったネタについて答えることは、彼らの手の内を明かすようなものですから。 自己矛盾という「神は細部にわたる」の一様態。彼らは矛盾にキーワード等が付いているのでしょうか? 宗教も「考え」のひとつですから、そこらへんに転がっている石ころのようなものにすぎません。 しかし石を見た人間が、石によって依存心、他力本願、固定観念(それにより洗脳させられた心)で自らを振り回させるわけです。 宗教を隠れ蓑にして自分の真実から逃げ続ける人間は、法衣を纏い、「聖」を言い訳とする俗僧と変わりないでしょう。彼らの宗教はそういう需要と供給で成立しているのですから。 宗教自らが、正常な懐疑の精神でもって批判しないかぎり宗教は欺瞞を持ち続けたまま「哲学」として昇華できないと考えます。

hitonomichi33
質問者

お礼

>宗教自らが、正常な懐疑の精神でもって批判しないかぎり宗教は欺瞞を持ち続けたまま「哲学」として昇華できないと考えます。 残念ながら今の仏教に哲学ってものは見い出せません。 坊主の肉食妻帯化、あまりに多くの宗派と宗派間の争い、偶像崇拝、御本尊などの紙切れをめぐる権威志向、お題目などの非思考化、三途の川や成仏などの来世志向、・・・などなど、そのどれをとっても哲学からあまりにかけ離れております。 このような状況にあるので最近問われだした生命倫理の問題についても何一つまともな思想や哲学を示すことが出来ないでいます。 誰ひとり志をもって生命倫理の問題に取り組もうとする坊主などいません。 思想や理念のない葬式仏教に成り下がった今の仏教はあまりに無力なのです。 哀れ仏教としか言いようがありません。  

その他の回答 (15)

  • 2014japan
  • ベストアンサー率22% (35/159)
回答No.5

当たり前の常識ですね。 坊主の教えもアルケー神の教えも、全く必要ありません。 そんなことは高校生にもなれば、誰でも知っています。

hitonomichi33
質問者

お礼

  >当たり前の常識ですね。 当たり前の常識に違いないが、未だに坊主の言葉に騙される高校生以上の大人も多いのである。 だからそのよーな人達を救うためにアルケーの神の教えが必要ってこと。  

  • cliomaxi
  • ベストアンサー率33% (2921/8736)
回答No.4

十把一からげと言うか、味噌も糞も一緒と言うか・・・。 真面目な人間と不真面目な人間がいるように、坊主にも色々いるでしょう。 それを坊主と一括りにされても同意は出来かねる。 >人の道を歩んでさえいれば必ず成仏できると、また成仏するために坊主に金を払って戒名を得る必要などありませんと申しております。 しかし「アルケーの神」なんて聞いた事ないなぁ。 アルケーは根源とか起源の意味のはずだし、坊主がどうの成仏がどうの戒名がどうのなんて何処から来た話なの?

hitonomichi33
質問者

お礼

>アルケーは根源とか起源の意味のはずだし、 アルケーは万物の根源であり、万物の根源は宇宙の法則である。 故にアルケーは神である。 >坊主がどうの成仏がどうの戒名がどうのなんて何処から来た話なの? アルケーは神である故、アルケーの言葉は世の中の間違いを正す言葉、正しい教えってこと。  

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.3

私は仏教徒ですので、お寺にお金を差し上げているつもりでいます。お寺もお金が必要です。 あの世も三途の川も地獄も無いと思っています。毎年、命日やお盆の法要もさせてもらっています。兄弟達が集まる良い機会になっています。戒名のお金は長く付き合う結納金のようなものです。我が家の家計が困るほどのお金ではありません。

noname#205034
noname#205034
回答No.2

宗教は心の弱みにつけこみ、金をむしり取るためにあると思っていて信用していません。 創設された時は確かに素晴しい信念だったのかもしれませんが・・・ 山にこもり修行をするわけでもなく、女、肉を食らうお坊さんたち。 私の知っているお坊さんは檀家さんのおばあちゃんが出してくれた茶菓子が安物で食べれた物ではなかった、私たちは色々な家で茶菓子を頂いているので口が肥えてると自慢し、人を蔑んでいましたよ。 私はお経もなし、戒名もなしの家族葬がいいです。菊の花も好きではないし・・・ 本当になくなった事を悲しんでくれる家族だけで十分です。

hitonomichi33
質問者

お礼

>山にこもり修行をするわけでもなく、女、肉を食らうお坊さんたち。 私の知っているお坊さんは檀家さんのおばあちゃんが出してくれた茶菓子が安物で食べれた物ではなかった、私たちは色々な家で茶菓子を頂いているので口が肥えてると自慢し、人を蔑んでいましたよ。 肉食妻帯坊主とはこれのことです。 今やこれが普通の坊主でしょう。  

  • ok-kaneto
  • ベストアンサー率39% (1798/4531)
回答No.1

仏教徒ではないので坊主の言うことを信用してませんけど。

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  • 信仰に対するアルケーの言葉

      あなた方は宇宙の法則が邪魔であると感じるのであれば、宇宙の法則から解き放たれたいと願うことはできます。 あなた方は奇跡が起こってほしいと願うのであれば、そのよーに願うことはできます。 あなた方は万物の根源、宇宙の法則であるアルケーを拒み、アルケー以外の神を望むのであれば、そのよーに願うことはできます。 あなた方はもし望むのであれば、イエス・キリストがあなた方の神であると願うことはできます。 あなた方はもし望むのであれば、アラーがあなた方の神であると願うことはできます。 あなた方はもし望むのであれば、ヒンズーの神があなた方の神であると願うことはできます。 あなた方は漬かりたいと願うのであれば、心行くまま漬かるがよろしい。 あなた方の願いはあなた方の心であり、あなた方の心はあなた方の願いである。 あなた方はこのよーに願うのであれば、願い続けなければなりません。 あなた方は願うことをやめれば、あなた方は再び万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの教えに従うことになります。 あなた方は願い続けなければならない。 このよーに信仰に対するアルケーの言葉が与えられたとき、あなた方は願い続けますか。